01.NEW MOON
「久しぶりだなフェリル」
その声を聞いた瞬間、体中の温度が失われたような感覚になった。指先がキンと冷え、血の気が引くというのを言葉の通りに実感する。
それまで、人の気配など一切感じなかった。
自分の足が踏み込む細かい砂利の、じりりと小さな音だけが鳴る。3mほど先を、少し傾いた古びた街灯が照らしていた。
オレンジ色の鈍い光に、小さな虫がちらちらと動く。
道幅は十分に広い。街はずれの田舎道であるこの通りは、雨が降ると轍に水がたまる。今夜はくもりだった。乾いた風が轍を抜けて街の方へと砂埃を連れていく。
近くに建物はない。道の両側は背の高い、ちょうど腰ぐらいまでの高さで草むらが広がっている。それはさわさわと風に揺れて鳴っていた。
この草むらを切り開いて街まで通してくれれば、もっとはやく帰れるようになるのにと、フェリルは毎晩思っていた。
日雇いではあるが先方には気に入られたようで、今月はほとんど隣町との境にある小さな金属加工の工場を手伝っている。慣れた帰り道だった。
街にも、静けさにも、5年で慣れすぎてしまった。
フェリルはその場でじっと動かないまま、右手をゆっくり自分の腰から背中に差し込もうとした。風が、肩までの赤茶色の髪を乱暴になびかせる。
その瞬間、右肘が冷えた何かに捕まれ、身体がぐるりと180度向きを変えた。
そして今度は暖かな手のひらが右頬から後ろへ、髪を絡めながら後頭部を包み、抗えない力で引き寄せれられてくちびるを塞がれる。
草むらが、ざわざわと風に揺れる音だけを聞く。
フェリルは肩の力を抜いた。それから目を閉じて、瞼の前で揺れている黒い髪先からの懐かしい香りを吸い込んだ。
力を抜いたと同時に入り込んできた舌がようやく離れてから、目の前の首元に小さな蜂のタトゥーを確認する。
ぼんやりとした薄い街灯の明かりで、親指の先が口元をぬぐい、にやりとイヤらしく笑う顔が見えた。
男の左腕はフェリルの腰を支えたまま離そうとはしない。
「変わらねえな、オマエは」
耳元でそう言われ、フェリルは――アナタの方こそ、という意味を込めて俯きながら細く長い息を吐きだした。
もう一度、今度は俯いた顎を人差し指で軽く上へ押し上げられ、ぴたりと視線を合わせてたっぷり5秒の後。
絡んでくる舌に、フェリルも同じ温度で応える。
時々角度を変え、吐息を漏らし、甘美な音を立て、続けても男の左腕はフェリルの腰に回したまま離れない。
私に撃たれることを警戒しているのか、とフェリルは思った。
撃つ理由など、もうとうに忘れてしまったというのに。
男はビーと呼ばれている。
首元に小さな蜂を模ったタトゥーがあり、それがビーと呼ばれている理由なのだろうとフェリルは勝手に思っていた。
華奢で、女性のように白くきれいな尖った顔立ちをしているのに声は低い。喉元を隠していなければ、対峙したときにすぐに男だとわかる。
だからモテないんだ、とよく笑っていた何年も前の顔を思い出す。
両切りの煙草を好み、ロンソンのヴァラフレームというライターを使う。
この男について、知っていることはそれほどない。フェリルは改めてそう感じた。
「フェリル」
どれくらいそうしていたのか、不意に離れたくちびるが低く名前を呼んだ。
「これは俺が貰っていく。次に会う時が最後だ」
フェリルの腰から男の左手が離れた。それと同時に弾丸がふたつ、ひび割れて渇いた地面に落ちる。
軽やかに身をひるがえし、男はひらひらと手だけを振りながら暗闇の続くほうへと歩きだした。
フェリルは地面に落ちたふたつの弾丸を見つめながら背中に手を入れた。
ジーンズのウエストに挟んであったデリンジャーと入れ替わった銀色のライターが手に収まる。傷だらけのヴァラフレームだった。
落ちている弾丸を拾ってジーンズの浅いポケットに挟み込む。
風に揺れる草の音だけが騒がしい。
フェリルはライターをぎゅっと握りしめて目を閉じた。熱くなった身体の奥が乾くまで、その場でただじっと立ち尽くしていた。