第9話
「わぁ…!」
思わず、感嘆の声が漏れた。
目の前に広がるのは、どこまでも続く瓦屋根の波と、活気にあふれた人々の賑わい。風の里とは何もかもが違う、きらびやかで、大きな街。ここが、国の中心──王都。
「どうだ、朱音。腰を抜かすにはまだ早いぞ。僕の屋敷は、この先だからな」
隣で、一条蒼司が得意げに扇子を広げた。
「べ、別に腰なんて抜かしてないわよ!」
私はむきになって言い返したけど、本当は少しだけ、この華やかな空気に気後れしていた。
チラリと、もう一人の隣を見る。
私のパートナーである影月は、珍しく黙り込んだまま、厳しい表情で都の景色を眺めていた。その横顔は、懐かしんでいるようでもあり、何かをひどく憎んでいるようでもあって、今の彼が何を考えているのか、私には少しもわからなかった。
私たちが王都に来たのは、観光旅行なんかじゃない。
今、この都では、要人たちが次々と原因不明の病に倒れるという、謎の呪詛事件が起きていた。魂を抜かれたように、ただ衰弱していくのだという。
その調査の依頼が、蒼司を通して、私たちに舞い込んできたのだ。
蒼司の屋敷は、彼自身みたいに、いちいち豪華で、きらびやかだった。
通された客間で、さっそく私たちは事件の詳しい説明を受けた。
「…手口が、陰湿で巧妙だ。おそらく、相当腕の立つ呪術師が裏で糸を引いている」
蒼司が難しい顔で言う。
「何か、手がかりはないの?」
「一つだけある。被害者たちは皆、倒れる直前に、都で一番由緒正しい『白月神社』に参拝していたらしい。事件の鍵は、そこにいる一人の巫女が握っていると、僕は睨んでいる」
「巫女さん…」
「よし、行ってみよう!」私が拳を握ると、蒼司は「話が早くて助かるよ」と笑った。
なのに。
「…影月?」
さっきから、影月はずっと黙ったままだ。その赤い瞳は、窓の外の景色を見つめたまま、揺らぐことさえしない。まるで、心がここにあらず、といった様子で。
私の胸に、ちくり、と小さな棘が刺さった気がした。
*
白月神社は、都の喧騒が嘘のように、静かで、神聖な空気に満ちていた。
樹齢何百年にもなりそうな巨大な御神木が、空に向かって枝を伸ばしている。私たちは、その神社の奥にある社務所へと案内された。
「お待ちしておりました。一条様」
障子の向こうから現れたのは、白無垢の巫女装束に身を包んだ、一人の女性だった。
年の頃は、私と同じくらいだろうか。
透き通るように白い肌に、墨で描いたように黒く、長い髪。儚げな微笑み。まるで、雪の精が人の形をとったかのような、息をのむほど美しい人だった。
「彼女が、事件の調査にご協力くださる、巫女の美月殿だ」
蒼司に紹介されて、私は慌てて頭を下げた。
「か、風祭朱音です! よろしくお願いします!」
「こちらこそ。美月と申します」
美月さんが、ふわりと微笑んだ、その時だった。
隣に立っていた影月が、はっきりと息を呑むのがわかった。見ると、彼は、私が今まで一度も見たことのない顔をしていた。
驚きと、信じられないというような戸惑いと、そして、痛いほどの苦悩がごちゃ混ぜになった表情。彼の手の中で、見えないはずの湯呑みが、音を立てて砕け散ったような気さえした。
「…影月、様…?」
美月さんもまた、影月の姿を認めた瞬間、その美しい瞳を大きく見開いた。みるみるうちに、その瞳に涙の膜が張っていく。
「あぁ…! 生きて、おられたのですか…! 夢では、ないのですね…?」
「…美月、殿」
影月が、絞り出すように彼女の名前を呼んだ。
その声は、私が今まで聞いたことのない、ひどく甘く、そしてひどく切ない響きをしていた。
二人の間にだけ流れる、特別な時間。私や蒼司のことなんて、もう目に入っていないようだった。
私の知らない、影月の過去。私の知らない、影月の顔。
私の知らない、物語。
心臓が、ぎゅうっと鷲掴みにされたみたいに痛んだ。
ここに、私の居場所は、ない。
屋敷に戻ってからも、影月はずっと上の空だった。
夜。眠れずに縁側で月を眺めていると、すぐ隣に、影月が音もなく現れた。いつもなら、嬉しいはずの不意打ち。でも、今は、彼の心がどこか遠くにあるのがわかって、苦しかった。
「…あの」
勇気を振り絞って、私は尋ねた。
「美月さんって、あなたの、知り合いだったの…?」
影月は、答えなかった。ただ、月の光に照らされた彼の横顔が、悲しげに歪む。
やがて、彼は、私から視線を逸らしたまま、ぽつりと言った。
「…お前には、関係ない」
その一言は、鋭い刃物になって、私の心を深く、深く、切りつけた。
違う。きっと、私を危険な目に遭わせたくないだけ。彼なりの優しさなんだ。
そう頭ではわかっているのに、溢れそうになる涙を、止めることができなかった。
私と彼の間に、初めて、冷たくて、透明な壁ができた。
その夜、私は、彼の隣にいるのに、世界で一番、彼から遠い場所にいるような気がした。