第7話
カン、キン、コーン…。
夜通し響いていた鎚の音が、夜明け前の静寂に溶けるように、ふっと止んだ。
「…できた」
朝日が差し込む鍛冶場で、私の手の中にあったのは、親指ほどの大きさの、小さな小さな守り刀だった。形は不格好かもしれない。でも、炉の炎をそのまま閉じ込めたみたいに、強い光と熱を宿している。私の、今の、魂のすべて。
私はそれを赤い組紐に通すと、壁に立てかけてあった幽月の鞘に、しっかりと結びつけた。
ちりん、と守り刀が澄んだ音を立てる。それに呼応するように、幽月の刀身が、ほんのわずかに温かくなった気がした。
「朱音」
背後から、おばあちゃんが白湯の入った湯呑みを差し出してくれた。
「…お行きなさい」
その瞳は、覚悟を決めた私のすべてを見通すように、優しく、そして力強かった。
「お前は、もう一人前の鍛冶師だよ。お前の信じる〝声〟を、最後まで聞き届けておやり」
「…うん。行ってきます、おばあちゃん」
私は一度だけ強く頷くと、幽月を手に、朝日の中へと踏み出した。
*
目指すは、里の北にそびえる「亡霊の棲家」──廃城。
影月が生まれ、そして、その命を奪われた場所。
里を抜けて森に入ると、空気が目に見えて淀んでいくのがわかった。木々は枯れ、鳥の声一つしない。地面を這うように広がる瘴気は、まるで生き物のように、私たちを絡め取ろうと蠢いている。
「…陰気な場所だな。思い出すだけで反吐が出る」
頭の中に、影月の不機嫌そうな声が響く。
「大丈夫?」
私が問いかけると、彼はフンと鼻を鳴らした。
《我が心配か? それより、自分自身の心配をしろ。瘴気に当てられ、城に着く前に動けなくなっても知らんぞ》
「平気よ。あなたのお守り、ちゃんと効いてるから」
私は、幽月に結びつけた小さな守り刀に触れた。そこだけが、陽だまりみたいに温かい。
「それに、あなたがそばにいるじゃない」
私がそう言うと、影月はぴたりと黙り込んだ。
でも、沈黙の中に、苛立ちではない、何か別の感情が混じっているのを、私は感じ取っていた。
やがて、視界が開け、苔むした巨大な石垣が姿を現した。
崩れ落ちた城門。地面に突き刺さったまま錆びついた、無数の矢。風に乗って運ばれてくる、血と鉄の匂い。ここだけ、百年以上も前から、時間が止まってしまっているようだった。
城の中心へ進むにつれて、瘴気は渦を巻き、濃度を増していく。
そして、かつて本丸があったであろう、開けた場所にたどり着いた。
そこに、その男はいた。
広場の中央に築かれた、禍々しい紋様の描かれた祭壇。その中心で、一人の男が、まるで指揮者のように両腕を広げていた。歳の頃は二十代半ばだろうか。貴族のような優雅な着物を着て、物腰は柔らかそうに見えるのに、その瞳の奥には、どろりとした狂気が渦巻いていた。
「──お待ちしておりました。風祭の鍛冶師。そして…」
男は、うっとりとした表情で、私が持つ幽月へと視線を向けた。
「お帰りなさいませ、我が主、影月様。あなた様のために、最高の舞台をご用意いたしました」
「…誰だ、お前は」
私が警戒して問うと、男は深々と、芝居がかったお辞儀をした。
「これはご丁寧に。私は黒主。あなた様の〝旦那様〟に、永劫の忠誠を誓った一族の者でございます」
黒主。その名と、祭壇に描かれた紋様を見た瞬間。
私の頭の中で、影月の記憶が、嵐のように逆流した。
──信じていた家臣。酌み交わした酒。そして、背後から突き立てられた、裏切りの刃──
《…貴様か》
ゴォッ!と、私の隣で黒い霊力が爆発した。
瘴気の渦の中から、燃えるような怒りをその赤い瞳に宿した影月が、姿を現す。
《貴様らか! 代々、亡霊のように我が魂を弄び、安らかな眠りさえ許さぬ、不埒な鼠は!》
「なんと、素晴らしい!」
影月の怒りを見て、黒主は恍惚とした表情で両手を広げた。
「その怨念! その憎悪! それこそが、我が一族が求め続けた、至高の贄! さあ、影月様。その古い器はもうお捨てなさい。あなた様のために、この私が、永遠に朽ちぬ最高の〝身体〟をご用意いたしました!」
黒主が叫ぶと、祭壇の呪具が禍々しい光を放つ。
城全体が、地響きを立てて揺れ始めた。
ドドドド…!と、乾いた土を割って、無数の腕が這い出してくる。それは、錆びた鎧を身につけ、虚ろな眼窩を光らせた、骸武者の軍勢だった。
「さあ、始めましょう。あなた様の魂を、新たな神へと昇華させる、最後の儀式を!」
四方八方を、おびただしい数の骸武者に囲まれる。絶体絶命。
でも、私の心は、不思議なくらいに、静かだった。
だって、隣には、誰よりも頼りになるパートナーがいるのだから。
私は鞘から小さな守り刀を抜き放ち、逆手に構えた。
影月もまた、自らの本体である幽月を、静かに抜き放つ。
「行くわよ、影月!」
「フン、足を引っ張るなよ、朱音!」
二人の声が、呪われた廃城に響き渡った。
最終決戦の幕が、今、切って落とされる。