第4話
私の頬を拭った袖が離れると、影月はふいっと顔をそむけた。
気まずい沈黙が、火の粉の爆ぜる音をやけに大きく響かせる。
「…あ、ありがと。助かったわ」
私が蚊の鳴くような声でお礼を言うと、彼は「別に」とだけ短く呟き、ふっと陽炎のように姿を消してしまった。
一人残された鍛冶場。さっきまで彼がいた場所には、白檀の香りがうっすらと残っている。
(…心臓、うるさいな)
自分の頬にそっと触れる。まだ、彼の袖の感触が残っている気がした。
その夜を境に、私と影月の間には、ほんの少しだけ、奇妙な変化が生まれた。
相変わらず彼の「ダメ出し」は厳しい。でも、それはただの罵倒ではなくなっていた。
カンッ!
《違うと言っているだろう。もっと腰を入れろ。鎚の重さではなく、お前自身の重心で打つんだ》
「こ、こう…?」
私が恐る恐る体勢を変えると、鎚が、ほんの少しだけ軽く感じられた。
カンッ!
《鉄の声を聞け。苦しがっているのがわからんか。温度が下がりすぎている。早く炎に戻せ》
「わ、わかったわよ!」
慌てて鉄を炉に戻す。なんだか、厳しいけど的確な師範代が、マンツーマンで指導してくれているみたいだ。ムカつくけど、悔しいけど、彼の言う通りにすると、不思議と鉄の響きが良くなっていくのが、自分でもわかった。
「…あなたって、昔はよっぽど腕の立つ剣士だったのね」
ある日、汗を拭いながら私が言うと、頭上からふ、と自嘲するような声が降ってきた。
《…さあな。もはや、遠い昔の夢だ》
その声には、今まで感じたことのない、深い寂しさの色が滲んでいた。
私は何も言えなくなり、ただ黙々と鎚を振るった。知りたい。彼のことを。彼が背負っている、千年の闇のことを。そしていつか、その闇を打ち払うほどの、強い刀を打ちたい。
初めて、心の底からそう思った。
そんな穏やかな日々は、しかし、長くは続かなかった。
里の空気が、少しずつ淀み始めたのだ。
「どうも最近、夜になると気味の悪い霧が出てのう…」
「うちの畑の野菜も、急に元気がなくなっちまって…」
井戸端会議に混じる、不安そうな声。
そしてある朝、事件は起きた。
里長の家のおじいさんが、原因不明の高熱で倒れたのだ。それを皮切りに、里のあちこちで、同じように病に倒れる人が続出した。
里全体を、目に見えない黒い瘴気が覆い始めている。
それは、あの夜、幽月の封印が弱まった時と、同じ気配。
でも、今の幽月は落ち着いている。じゃあ、この瘴気は一体どこから…?
不安に駆られる私の元へ、里の人たちが松明を持って押し寄せてきたのは、その日の夕暮れ時だった。
「朱音! 出てこい!」
「お前のせいだぞ!」
鍛冶場の前に集まった村人たちの顔は、恐怖と、敵意に満ちていた。
「お前があの呪われた妖刀を中途半端に呼び覚ましたせいで、里に災いが起きてるんだ!」
「そうだそうだ! さっさとその刀をどうにかしろ!」
「父なし娘がでしゃばるから、こんなことになるんじゃ!」
違う。そんなんじゃない。
そう言いたくても、声が出なかった。
実際に、里は危機に瀕している。私の力が足りないせいで、幽月を完全に浄化できていないのも事実だ。
「わ、私は…」
「言い訳はいい! 今すぐその刀を叩き折るなり、川に捨てるなりしろ!」
「それができねえって言うなら、都から来た一条様にお願いするまでだ!」
一条蒼司。その名前に、心が凍りつく。
あの人に頼れば、幽月は「破壊」されてしまう。それだけは、絶対に嫌だ。
でも、里の人たちを救う手立ても、今の私にはない。
どうすればいいの?
お父さんなら、こんな時、どうしただろう。
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
私は、降り注ぐ非難の声を浴びながら、ただ立ち尽くし、謝ることしかできなかった。
私のせいだ。私が、弱いから。私が、未熟な鍛冶師だから、みんなを危険な目に遭わせてるんだ。
自信が、音を立てて崩れていく。
誇りも、覚悟も、今はもう、全部どこかへ消えてしまいそうだった。
打ちひしがれる私のすぐそばで、壁に立てかけられた幽月が、静かに沈黙している。
その刀身に、夕焼けの赤い光が、まるで血のように映り込んでいた。