第3話
夢じゃ、なかった。
翌朝、鍛冶場に足を踏み入れた瞬間、私はそれを確信した。
魔法陣の跡がうっすらと残る土間。そして、昨日までとは明らかに違う、澄んだ空気をまとって壁に立てかけられている妖刀〝幽月〟。
(これから、どうなっちゃうんだろう、私…)
期待半分、不安は…たぶん、その倍くらい。
でも、悩んでいても始まらない!
私は気合を入れ直し、いつも通り炉に火を入れ、鉄を打ち始めた。
カンッ! カンッ!
「──違う」
頭の中に、直接、あの鈴を転がすような冷たい声が響いた。
ビクッとして、思わず鎚を振り下ろす手が止まる。
「え…?」
《その打ち方では、鉄の芯まで響かん。力が分散している、愚か者め》
「う、うるさいわね! いつもこうやってるの!」
姿は見えないのに、まるで真横で腕組みをしながらダメ出しされているみたいだ。気配だけが、私の周りをふわりと漂っている。
カンッ!
《手首が硬い。それでは良き〝声〟は引き出せん》
カンッ!
《息遣いがなってない。炎と同調する気概が足りん》
カンッ!
《そもそも、その鎚がお前に合っていない。非力な娘が使うには重すぎる》
「〜〜〜っ、もう、いちいちうるさーーーい!!」
ついに私は堪忍袋の緒が切れて、鎚を放り出して叫んだ。
「わかってるわよ、そんなこと! でも、お父さんが使ってた大事な鎚なんだから、これじゃなきゃダメなの! あなたに何がわかるっていうのよ!」
シン…と、声が止んだ。
言い過ぎたかな、と少しだけ後悔したけど、すぐに「ふん、別にいいもん」とそっぽを向く。
気まずい沈黙が流れた、その時だった。
「やあ、煤けたお姫様。朝からずいぶん賑やかじゃないか」
ひょっこり鍛冶場に顔を出したのは、昨日ぶり、二度目ましての、一条蒼司だった。
相変わらずきらびやかな狩衣姿で、朝の光を浴びて銀髪がきらきら光っている。なんでこの人、こんなに鍛冶場に似合わないんだろう。
「…何の用ですか。うちはもう店じまいしたので、お引き取りを」
「つれないことを言うなよ。昨夜、妙な気配がしたから心配で見に来てやったというのに」
蒼司はズカズカと中へ入ってくると、壁に立てかけてある幽月を見て、目を細めた。
「…ほう。瘴気がほとんど消えている。まさかとは思うが、一晩で君がこれを?」
「そ、そうよ! 私がやったの! だからもう、あなたの出る幕はないわ!」
見栄を張って、胸を張る。
本当は〝契約結婚(仮)〟なんていう、とんでもない儀式をやっただけだけど、そんなこと絶対に言えない。
蒼司は「フン」と鼻で笑うと、私に顔をぐっと近づけてきた。
「なら、証拠を見せてもらおうか。その刀、僕に少し貸してみなさい」
「なっ、なんであなたに!」
蒼た司が幽月の鞘に手を伸ばした、その瞬間。
《──触るな》
地を這うような、絶対零度の声が、鍛冶場全体に響き渡った。
蒼司の動きが、ピタリと止まる。
「…!」
蒼司は驚いたように目を見開き、幽月と私を交互に見た。
「今の声…まさか、顕現させたのか。この僕を差し置いて、そんな無茶な真似を…!」
《下賤な男が、気安くこいつに触れるなと言っている》
声は、私にしか聞こえていないはずの影月のものだ。でも、その強い意志は、蒼司にも伝わったらしい。
「…面白い」
蒼司は鞘から手を離すと、にやりと口の端を上げた。
「なるほど、そういうことか。どうやら君は、とんでもない〝じゃじゃ馬〟ならぬ〝じゃじゃ刀〟に好かれてしまったらしいな」
なんだかよくわからないけど、ものすごく馬鹿にされている気がする!
「ご忠告どうも! それじゃ、今度こそお引き取りください!」
私がぷりぷり怒っていると、蒼司は名残惜しそうに私を一瞥し、ふっと笑った。
「まあ、いい。せいぜいその〝旦那様〟に食い殺されないことだね、〝奥方様〟?」
捨て台詞を残して、蒼司は今度こそ本当に去っていった。
一人残された鍛冶場で、私は顔から火が出そうなくらい真っ赤になっていた。
「お、奥方様って…誰が、あんなヤツの…!」
《…チッ》
気のせいか、影月のものらしき、小さな舌打ちが聞こえた。
*
その夜。
私は、一人で鍛冶場にいた。
蒼司に言われたことも、影月にダメ出しされたことも、全部が悔しくて、無我夢中で鉄を打っていた。
(もっと、うまくならなきゃ…)
焦る気持ちが、鎚を振るうリズムを狂わせる。
熱した鉄を掴もうとした瞬間、火箸が滑った。
「あっ…!」
真っ赤に焼けた鉄塊が、金床から転がり落ち、私の足元へ!
避けられない──!
そう思って、ぎゅっと目をつぶった。
だけど、いつまで経っても熱さはこない。
おそるおそる目を開けると、私の目の前に、あの黒髪の青年──影月が立っていた。
彼は、私の腕を掴んでぐいと引き寄せ、転がった鉄塊を冷たい一瞥で睨みつけている。鉄塊は、まるで蛇に睨まれた蛙のように、ぴたりと動きを止めていた。
「…愚か者め。集中力を欠いたまま炎の前に立つな。死にたいのか」
「か、影月…! なんで…」
「お前が死ねば、我との契約もご破算になる。それはそれで、面倒だ」
ぶっきらぼうにそう言うと、影月は私の顔をじっと見た。
そして、おもむろに彼自身の着物の袖で、私の頬をごしごしと拭い始めた。
「な、なによ、いきなり!」
「…汚い。煤まみれだ」
ぶっきらぼうな口調。冷たい態度。
でも、その手つきは、驚くほど優しかった。
私の心臓が、とくん、と大きく跳ねる。
月明かりに照らされた彼の横顔は、やっぱりぞっとするほど綺麗で。そして、その赤い瞳の奥に、ほんの少しだけ、心配の色が滲んでいるように見えた。
(…ただの、意地悪で怖いだけの、妖刀じゃないのかも)
頬に触れる、彼の袖のひんやりとした感触。
鉄と炎の匂いしかしないはずの鍛冶場に、なぜか、白檀のような、静かで清らかな香りがした。