第26話
私の決意表明から、一夜が明けた。
影月は、もう、私を止めようとはしなかった。ただ、その赤い瞳の奥に、深い苦悩と、どうしようもないほどの心配の色を浮かべて、黙って私を見つめている。
そんな重苦しい空気の中に、都の蒼司さんからの通信が入ったのは、儀式の準備を始めようとした、まさにその時だった。
鏡の中に映る彼の顔は、寝ていないのか、目の下に濃い隈ができていた。
『──正気か、君は!』
開口一番、蒼司さんの怒鳴り声が響いた。
『風祭の禁断の書…〝魂渡り〟のことだろう! その術が、どれだけ危険なものか、わかっているのか! 下手をすれば、君の魂は二度と肉体に戻れず、永遠に境界を彷徨うことになるんだぞ!』
「わかってる」
私は、鏡の中の彼を、まっすぐに見据えた。
「わかってるわ。でも、これしか方法がないの!」
『だからと言って…!』
食い下がる蒼司さんを、静かに制したのは、私の隣にいた影月だった。
「…蒼司」
彼の声は、静かだったが、その響きには、鋼のような覚悟が宿っていた。
「俺は、もうこいつの覚悟を止めることはできん。ならば、せめて、こいつが無事に戻るための道を、全力で守るだけだ。…お前の力も、貸してくれ」
その言葉に、蒼司さんは、ぐっと息を詰まらせた。やがて、彼は、天を仰いで、深いため息をついた。
『…やれやれだ。君たち二人には、いつも、いつも振り回される…!』
彼は、がしがしと自分の銀髪をかきむしると、覚悟を決めたように、鏡の向こうから私たちを睨みつけた。
『だが、見殺しにはできん! いいか、朱音! 僕の知識と術で、現世から君の魂が繋がっている〝命綱〟を全力でサポートする! だから、絶対に、無茶だけはするなよ! 約束だ!』
「…うん。ありがとう、蒼司さん」
こうして、私の、あまりにも無謀で、危険な旅は、二人の最高のパートナーに見守られながら、始まることになった。
*
風祭家の奥にある、古い祭壇の間。
私は、清めた白い着物に身を包み、祭壇の中央に座る。
蒼司さんが都から飛ばした術式が、私の肉体を守るための青白い結界となって、部屋全体を包み込んだ。影月は、私の目の前で、自らの霊力を、魂の道標となる一条の光に変えて、天へと放っている。
私は、古文書に記された、古の祝詞を唱え始めた。
一言、一言、紡ぐたびに、自分の身体が、どんどん軽く、薄くなっていくのがわかる。
やがて、ふわり、と。
私の魂が、まるで青白い光の蝶のように、肉体から、静かに抜け出した。
次の瞬間、私が立っていたのは、見たこともない、異様な場所だった。
空は、鈍い鉛色。地面は、乾いた灰のよう。風は、音もなく肌を撫で、時間の感覚さえもが、曖昧になっていく。
生と死の境界──黄泉比良坂。
「…朱音」
隣から、声がした。見ると、影月が、半透明の霊体となって、心配そうに私を見つめていた。彼の存在だけが、この心細い世界での、唯一の支えだった。
私たちは、一本だけ続く、乾いた道をとぼとぼと歩き始めた。
やがて、道の先に、巨大な門が見えてくる。その門の前には、一体の、巨大な番人が、道を塞ぐように立ちはだかっていた。
嘆きでできたかのような、禍々しい鎧をまとい、その手には、巨大な矛が握られている。
『生者ノ魂、通ルベカラズ』
番人が、感情のない、地響きのような声で言った。
『還レ。サモナクバ、ココデ喰ラウ』
影月が、霊体でできた刀を構えるが、番人は微動だにしない。物理的な攻撃も、通常の霊的な攻撃も、この世界の理の前では、意味をなさないようだった。
どうすれば…。
私が、ごくりと息を呑んだ、その時。
私の耳に、聞こえてきた。番人が持つ、巨大な矛の〝声〟が。
(苦シイ…助ケテ…モウ、戦イタクナイ…)
無数の魂の、嘆きと、悲しみの声。
この矛は、長すぎる時間の中で、あまりにも多くの死と、無念を、吸い込みすぎていたんだ。
私は、影月を手で制すると、一歩前に出た。
そして、戦うのではなく、巨大な矛に向かって、優しく、語りかけた。
「…辛かったでしょう」
『…?』
番人の、虚ろな目が、私を見る。
「ずっと、たくさんの悲しみを、一人で背負って…。もう、戦わなくても、いいんですよ」
私は、目を閉じ、意識を集中させる。
私の手の中に、鍛冶の精魂が、光の鎚となって現れた。
そして、私は、その光の鎚を、番人の矛の〝魂〟に向かって、そっと、振り下ろした。
カン、と。
この世のどんな金属音よりも、清らかで、神聖な音が、響き渡った。
一振りごとに、矛にこびりついていた、黒い嘆きの声が、ありがとう、という、感謝の囁きへと変わっていく。
矛の歪みが、少しずつ、少しずつ、正されていき、本来の、清らかな鋼の輝きを取り戻し始めていた。
『コレハ…』
番人が、驚いたように、自分の矛を見つめている。
彼の、感情のなかったはずの瞳に、初めて、「戸惑い」という名の光が、確かに宿っていた。
私の力が、この世界でも、通じる。
いや、この世界の理だからこそ、私の力は、真価を発揮するのかもしれない。
私は、希望の光を見出し、もう一度、光の鎚を、振り上げた。




