第24話
ちりん、と。
縁側で涼む私の耳に、軒先で揺れる風鈴の音が、涼やかに届いた。
私が打った、ガラス細工の小さな風鈴。風が吹くたび、夏の終わりの光を弾いて、きらきらと輝いている。
神々との戦いを終えてから、季節は一度巡った。
里には穏やかな日々が戻り、私の隣には、当たり前のように、彼がいる。
「…いい音色だな」
隣で同じように縁側に腰掛けていた影月が、目を細めて呟いた。
「でしょ? 我ながら、なかなかの出来栄えだと思うの」
私が胸を張ると、彼は「調子に乗るな」と笑いながら、私の頭を優しく撫でた。その手つきも、穏やかな表情も、もうすっかり私の日常の一部だ。
もう、何も怖いものなんてない。
失うものもない。
この、陽だまりのように温かくて、風鈴の音色のように澄み切った毎日が、私たちの手に入れた、何よりの宝物だった。
そう、信じていた。
この、完璧な日常に、静かな亀裂が入る、その瞬間までは。
それは、よく晴れた昼下がりのことだった。
私がお茶を淹れて、影月に「はい、どうぞ」と差し出した、その時。
「…ああ」
彼が、湯呑みを受け取ろうと、手を伸ばす。
その指先が、ふ、と。
夏の強い陽光に、一瞬だけ、透けた。
まるで、淡い玻璃細工のように。彼の指を通して、向こう側にある庭の、緑の景色が、うっすらと見えてしまったのだ。
「え…?」
心臓が、どきり、と嫌な音を立てた。
私が目を見開くと、影月もまた、自分の指先を、怪訝な顔で見つめている。
「…気のせいか」
彼がそう言って手を引っ込めると、その手は、もう、いつも通りの、確かな実体を持っていた。
「…うん。気のせい、だよね。日差しが強かったからかな」
私も、無理やりそう言って笑ってみせた。
でも、その日からだった。
私の心の中に、一度できてしまった、小さな、冷たい染みは、消えるどころか、日に日に、大きく広がっていった。
最初は、指先だけだった。
それが、ある時は腕まで。またある時は、月明かりの下で、彼の身体全体が一瞬、向こう側が透けて見えることもあった。
「影月、あなた、やっぱり…」
「問題ない」
私が何かを言いかけると、彼はいつも、それを遮るように、穏やかに、しかし、有無を言わせぬ力でそう言った。
彼は、私を心配させまいとして、気丈に振る舞っている。その不器用な優しさが、わかるからこそ、私は、それ以上何も言えなかった。
夜中に一人、彼の無事を祈り、不安に涙を流すことしか、できなかった。
互いを思いやるがゆえに、本心を隠してしまう。
温かい日常の中で、私たち二人の心だけが、見えない壁に、少しずつ隔てられていくようだった。
そして、運命の日。
夕餉の支度をしていた私に、影月が、お盆を運んできてくれた。
私が、それを受け取ろうとした、その時。
彼の指先は、お盆に触れることなく、するり、と、それをすり抜けた。
ガチャン!という、けたたましい音を立てて、食器が床に散らばる。
「…あ…」
影月が、自分の手を見つめて、呆然と立ち尽くしている。
もう、見て見ぬふりは、できない。
私たちは、都にいる蒼司さんに、助けを求めることにした。
風祭家に伝わる、特別な呪符を使った遠隔通信で、蒼司さんの姿が、鏡の中にぼんやりと浮かび上がる。
『…久しぶりじゃないか。二人とも、息災そうで何よりだ。で、どうしたんだ? そんなに深刻な顔をして』
いつもの軽口を叩く彼に、私は、震える声で、これまでのことをすべて話した。
鏡の向こうで、蒼司さんの表情が、みるみるうちに険しくなっていく。いつもの余裕のある笑みは、完全に消え去っていた。
『…わかった。いくつか、試させてもらう。少し、時間をくれ』
彼はそう言うと、一方的に通信を切った。
それから、地獄のように長い、三日間が過ぎた。
そして、約束の夜。再び通信機に映し出された蒼司さんの顔は、この世の終わりのように、苦渋に満ちていた。
「蒼司さん…! わかったの!? 影月を、治す方法…!」
私の必死の問いかけに、彼は、辛そうに、ゆっくりと首を振った。
「…結論から言う。それは、神々の婚礼の、避けられぬ副作用だ」
鏡の向こうから聞こえる彼の声は、ひどく、重かった。
「影月の魂の〝錨〟が、この世界から、浮き上がり始めている。彼の魂が、より根源的な世界…神域か、あるいは死者の国か…とにかく、本来あるべき場所へと、強く、強く、引かれ始めているんだ」
「それって…どういう、こと…?」
「どうなるの…?」
私の震える声に、蒼司さんは、耐えきれないというように、ぐっと目を伏せた。
そして、彼は、最も残酷な真実を、宣告した。
「このままでは、いずれ…」
「影月は、この世界から、完全に、消滅する」
その非情な言葉は、音もなく、私の心を、粉々に砕いた。




