第2話
破壊、という二文字が、氷の刃のように私の胸に突き刺さった。
目の前の銀髪の男の子──一条蒼司は、涼しい顔で私を見ている。まるで、道端の石ころでも蹴り飛ばすかのように、簡単にお父さんの形見を「破壊する」と言ってのけたのだ。
(させるもんか…!)
怒りで、全身の血が沸騰しそうだった。
懐にある『鎮刃秘要』を、ぎゅっと握りしめる。〝婚姻の儀〟なんて、突拍子もない。顔だって見たことない、刀の霊と結婚だなんて。
でも、この自信過剰な男に、お父さんの魂がこもった刀を好きにさせるくらいなら──!
「お断りします」
私は、一条蒼司の目を真っ直ぐに見据えて、はっきりと言った。
「幽月のことは、この家の跡取りである私が、責任をもってなんとかします。だから、あなたのお力はお借りしません」
「…ほう?」
蒼司は、面白そうに目を細めた。
「なんとかする、とは大きく出たね。煤けたお姫様。その細腕で、あの強力な妖刀をどうにかできるとでも?」
「できるかどうかじゃない。やるの!」
言葉と同時に、一歩前に出る。
「風祭の鍛冶師として、自分の家の刀を守るのは当然のことだから。だから…お引き取りください、一条蒼司さん」
私の瞳に宿った炎を、彼が見たのか見ていないのか。
蒼司はふっと笑うと、くるりと背を向けた。
「いいでしょう。あなたがそこまで言うのなら。ただし、忠告はしましたよ」
彼は振り返り、扇子の向こうから意味深な視線をよこす。
「あの妖刀は、ただの怨霊憑きじゃない。もっと根深い…闇を抱えている。手に負えなくなって泣きついても、次はこうも優しくはありませんからね」
それだけ言うと、蒼司は供も連れずに、月明かりの中へとすっと消えていった。
嵐が去ったあとのような静寂の中、私は自分の心臓がバクバクと鳴っているのを聞いていた。
言ってしまった。
言ってしまったからには、もう後戻りはできない。
私は踵を返し、再び「開かずの間」へと向かった。
扉の向こうからは、相変わらずキィィ…という、魂を削るような悲鳴が聞こえてくる。
「待ってて、幽月。今、楽にしてあげるから…!」
私は意を決して、鍛冶場へと走った。
『鎮刃秘要』に書かれた儀式は、ただの祈祷じゃなかった。〝鍛冶師にしかできない鎮魂の儀〟。
まず、炉に火を入れ、清めた鉄「玉鋼」を熱する。
次に、金床の周りに、炭で大きな円を描き、その中に古文書に示された複雑な紋様──五芒星と、陰陽五行を組み合わせた魔法陣のようなものを描き込んでいく。
(これで、よし…!)
準備が整った頃には、東の空が白み始めていた。
私は「開かずの間」の封印を解き、震える手で、黒漆の鞘に収められた太刀〝幽月〟を魔法陣の中心にそっと安置した。
息を、呑む。
ただそこにあるだけで、空気が凍りつくような圧倒的な存在感。美しいのに、恐ろしい。見ているだけで魂を吸い取られそうだ。
私は深呼吸を一つすると、古文書に書かれた祝詞を唱え始めた。
それは、歌のようであり、祈りのようであり、そして──鉄に〝語りかける〟ための、特別な言霊だった。
「──天つ風よ、地なる炎よ。古の契約に従い、その魂を此岸に示せ…」
すると、どうだろう。
私が描いた魔法陣が、淡い光を放ち始めた。中心に置かれた幽月から、黒い瘴気が渦を巻いて立ち上る。
ゴォォッ!と突風が吹き荒れ、鍛冶場の屋根がミシミシと鳴った。
(負けるな、私…!)
瘴気の圧力に歯を食いしばり、祝詞を続ける。
その瞬間だった。
黒い瘴気の渦が、すっと一本の光に収束していく。そして、光の中から、まるで水面から浮かび上がるように、静かに一人の人影が現れた。
息が、止まった。
漆黒の、腰まで届きそうな長い髪。
雪のように白い肌。
そして、血のように赤く、底知れない悲しみを湛えた瞳。
幽玄な白粉を塗ったかのような顔立ちは、男とか女とか、そういう次元を超えて、恐ろしいほどに美しかった。
その青年は、ただ静かにそこに立っているだけで、世界から切り離されたような孤独と、触れるものすべてを拒絶するような冷たい空気をまとっていた。
彼が、妖刀「幽月」の霊──。
「…我を呼び覚ましたのは、お前か」
鈴を転がすような、けれど凍てつくように冷たい声。
赤い瞳が、私を射抜く。あまりの眼力に、足がすくみそうになるのを必死でこらえた。
「いかにも、人間の子よ。何の用だ」
「わ、私は…風祭朱音。この家の跡取り…鍛冶師です」
声が震える。だけど、ここで引くわけにはいかない。
私は、ありったけの勇気を振り絞って、宣言した。
「あなたに、お願いがあって来ました! どうか、私と──」
ごくり、と喉が鳴る。
「私と、契約結婚してください!」
シン…と、鍛冶場が静まり返った。
青年は、何を言われたのか分からないというように、わずかに首を傾げた。その仕草さえ、絵画のように美しい。
やがて、彼はふ、と儚げに息を漏らした。
「…断る」
一言。にべもない、絶対零度の返事だった。
「なぜ我がお前のような、矮小な人間と〝契り〟を結ばねばならん。馬鹿馬鹿しい。我に触れるな。消えろ」
強い拒絶の言葉。
だけど、私は彼の赤い瞳の奥に、一瞬だけ、迷いのような光が揺らめいたのを見逃さなかった。
そして、聞こえたんだ。彼の魂の〝声〟が。
(…眩しい)
それは、声にならない、心のささやき。
(この娘の魂は…なぜ、これほどまでに強く、清らかな光を放っているのだ…?)
彼は、私の魂を見ている。鍛冶師として、炎と共に生きてきた私の魂が放つ、純粋な〝熱〟を感じ取っているんだ。
それなら、まだ望みはあるかもしれない。
「待って! 契約してくれたら、あなたのその呪い、私が解いてみせる!」
「…何?」
「あなたのその悲しみも、憎しみも、全部まとめて、私のこの鎚で! 私の炎で! 打ち直して、浄化してみせる! だから…!」
私の必死の言葉に、青年は初めて、その表情をわずかに変えた。
興味か、それとも嘲笑か。彼はすっと私の目の前に移動すると、その氷のように冷たい指先で、私の顎にそっと触れた。
ヒッと息を呑む。心臓が、喉から飛び出しそうだった。
「面白いことを言う娘だ」
赤い瞳が、私を間近で見つめる。吸い込まれそうだ。
「…いいだろう。ならば試してみるがいい。お前のその〝光〟が、我が魂に刻まれた千年の闇を、どこまで照らせるものか」
彼はそう言うと、私の目の前で、すっとその姿を消した。
あとに残されたのは、静寂と、魔法陣の中心で、以前よりもわずかに輝きを増したように見える妖刀〝幽月〟だけだった。
(…いなくなった?)
呆然と立ち尽くす私に、頭の中から直接、あの冷たい声が響いてきた。
《仮の契約だ。お前の力が本物だと認めぬ限り、我はお前の刀にはならん》
声はそれきり聞こえなくなった。
こうして、私、風祭朱音と、呪われた妖刀の霊との、奇妙で、危険で、そしてたぶん、とんでもなくドキドキするであろう〝契約結婚(仮)〟生活が、幕を開けたのだった。