第19話
トン、トン、と。
風祭の鍛冶場に響く鎚の音は、二つ。
一つは、私の。もう一つは、私の隣で、寸分違わぬリズムを刻む、影月のものだ。
神々との戦いを終え、私たちは、再びこの里で、鍛冶師としての日々を送っていた。
「…朱音」
「ん?」
「お前の打ち込みが、コンマ一秒、早い」
「えー、そんなことないもん」
「ある。俺の音を聞け。お前の魂が、逸っているぞ」
私が唇を尖らせると、影月は「やれやれ」という顔で笑いながら、私の頭をくしゃり、と撫でた。その手つきは、もうすっかり手慣れたもので、私は、その大きな手のひらが大好きだった。
半神の力を得ても、世界の危機を救っても、私たちの日常は、驚くほど変わらなかった。
ただ一つ、変わったことがあるとすれば。
私たちの絆が、言葉にしなくても、互いのすべてがわかるほど、深く、そして穏やかなものになったことくらいだ。
この、当たり前で、かけがえのない毎日。これこそが、私たちが命懸けで守り抜いた、宝物だった。
しかし、その完璧な平穏の裏で、世界は、静かに、だが、確実に変わり始めていた。
「また、森で揉め事かい?」
昼餉の刻、おばあちゃんが、ため息混じりに言った。
「ええ。木こりの源爺さんが、森の小鬼たちに木材を隠されたって、カンカンで…」
「小鬼たちの言い分じゃ、『最近、人間たちがズカズカと森の奥まで入ってきて、住処が荒らされて困る』だそうで…」
神々という、圧倒的な共通の〝蓋〟がなくなったことで、これまで互いの領域を侵さずにいた人間とあやかしの境界線が、曖昧になり始めていた。
世界の理が、微妙にバランスを崩し始めている。その小さな歪みが、あちこちで軋みとなって、現れ始めていた。
その日の午後。
私と影月は、その「軋み」の現場に、直接、遭遇することになった。
森の入り口で、人間の木こりたちと、十数匹の小鬼たちが、まさに一触即発の雰囲気で睨み合っていたのだ。
「お前ら、いい加減にしろ! これ以上、仕事を邪魔するなら、容赦しねえぞ!」
「人間こそ、我らの森を荒らすな! 神々様がいなくなってから、森の気が乱れて、我らも生きるのに必死なのだ!」
双方の魂から、悲鳴のような「怒り」と「不安」の声が聞こえてくる。
「まあまあ、皆さん、落ち着いて」
「そうだ。争っても、何も生まれん」
私と影月が間に入り、双方をなだめる。
私たちが誰であるかを知っている彼らは、ひとまず武器を収めてくれたけれど、その瞳に宿る不信の色は、少しも消えてはいなかった。
根本的な解決には、ほど遠い。それは、火を見るより明らかだった。
屋敷に戻ると、都の一条蒼司から、手紙が届いていた。
そこには、私たちの懸念を裏付けるように、都でも同様の「人間とあやかしの衝突」が社会問題化しつつあることが、彼の的確な分析と共に記されていた。
『──これは、神々の不在によって生じた、新たな力の真空地帯を巡る、パワーバランスの再編だ。秩序が定まるまで、混乱は続くだろう。そして、その混乱の中心に、〝神を鎮めた者〟である君たちが、否応なく巻き込まれることになる。覚悟しておけ。君たちの力が、再び必要になるかもしれない』
「…やれやれ。あいつは、いつも面倒なことばかり、知らせてくる」
影月が、眉間に深いしわを寄せる。
私も、手紙から目を上げ、静かに空を仰いだ。やっと手に入れた、この穏やかな日常を、また、失うことになるのだろうか。
その夜だった。
満月が、屋敷の庭を、青白い光で幻想的に照らしている。
縁側で、二人、黙って月を眺めていると、強い風が、ざあっと木々を揺らした。
次の瞬間。
一人の青年が、音もなく、私たちの目の前の庭に、ふわりと舞い降りた。
漆黒の羽。古風な山伏のような装束。そして、月光を反射する、涼やかな銀色の髪。その瞳は、緊張と、強い決意の色を宿していた。
美しい、天狗の青年だった。
影月が、すっと立ち上がり、私を庇うように前に出る。
しかし、青年は敵意を見せることなく、その場で、私たちに深々と跪き、頭を垂れた。
「お初にお目にかかります。〝調停者〟様」
その、澄んだ声が、夜の静寂に響く。
「私は、あやかしの里より参りました、楓と申します」
楓と名乗った天狗の青年は、顔を上げると、真摯な眼差しで、私たちに訴えかけた。
「ご存知やもしれませぬが、今、我らあやかしの世界は、人間との対立により、分裂の危機に瀕しております。全面戦争を望む声さえ、日増しに高まっているのです」
息を呑む、私たち。
彼の言葉は、蒼司の手紙の内容を、裏付けていた。
「どうか、お願い申し上げます」
楓は、もう一度、深く、深く、頭を下げた。
「人と神の間に立つという、あなた様がたのお力で、我らあやかしと、人間との〝調停役〟になってはいただけないでしょうか!」
予期せぬ、あまりにも重い依頼。
それは、私と影月の、穏やかだった日常の終わりと、新たな、そして、これまで以上に困難な物語の始まりを告げる、運命の鐘の音だった。