第18話
「アァァァァ…ッ!」
影月の苦悶の叫びが、静寂な森に木霊する。
彼の身体から迸る黒い霊力は、まるで彼の魂が引き裂かれる痛みを、そのまま映し出しているようだった。
『思い出せ。お前の還る場所は、我ら神々の、静寂なる永遠の中だ』
森の神の、冷たく、静かな声が、影月をさらに追い詰めていく。
だめ、このままじゃ、影月が影月じゃなくなってしまう。
私の知らない、遠い場所へ行ってしまう。
恐怖で足が震える。私なんかに、何ができる? 神様が相手なのよ?
(…ううん)
違う。違う!
相手が誰だろうと、関係ない。
私がやるべきことは、昔から、たった一つだけ。
私は、恐怖を振り払い、暴走する影月の背後へと駆け寄った。
そして、その震える身体を、ありったけの力で、後ろからぎゅっと抱きしめた。
「影月ッ!」
「…! くるな、朱音…! 我に、触れるな…!」
「嫌だ! 絶対に離さない!」
私は、彼の背中に頬を押し付けて、叫んだ。
「あなたが神様だろうと! 人間だろうと! あやかしだろうと! そんなこと、私には、ぜんっぜん、関係ないッ!」
私の魂が、叫んでいた。
「私が知ってるのは! 私が好きなのは! 不器用で、口が悪くて、いっつも一人で抱え込んで! でも、本当は誰よりも優しくて、温かい、たった一人のあなただけなの! 私のパートナーは、あなただけなんだから!」
私の鍛冶の精魂が、温かい光となって、影月の荒れ狂う霊力を、優しく、優しく、包み込んでいく。
「…あ…かね…」
影月の身体から、ふっと力が抜けた。
彼の心の中で、私を縛り付けていた〝永遠の孤独〟という呪いが、朱音のまっすぐな愛の光に、溶かされていくのがわかった。
そうだ。俺は、何に迷っていた?
俺の還る場所。俺の魂のありか。
そんなもの、とうの昔に、見つけていたではないか。
「…そうだ」
俺は、神でも、ただの亡霊でもない。
「俺は、朱音のパートナーである、影月だ!」
俺が、心の底からそう叫んだ時、荒れ狂っていた霊力は、すっと凪いだ。
抱きしめてくれていた腕の力が、わずかに緩む。振り返ると、そこには、涙でぐしゃぐしゃの顔をした朱音が、それでも、誇らしげに微笑んでいた。
その様子を静かに見ていた森の神は、初めて、その表情を和らげた。
『…それこそが、お前たちの〝理〟か。人の子の愛は、時として、我ら神々の理さえも超える。面白いものを見させてもらった』
森の神は、そう言うと、自らの枝先から、一滴の、虹色に輝く雫を落とした。
『持って行け。わが魂の一部、〝神域の水〟を。お前たちの紡ぐ物語の結末、この森の静寂から、見届けさせてもらおう』
雫は、私たちの目の前で、静かに『朱月』の中へと吸い込まれていった。
*
三種の神具が、揃った。
蒼司からの最後の手紙に示された決戦の地は、雲の上に浮かぶ、古代の天空祭壇。
そこには、すべての天変地異の元凶である、最も強大な荒ぶる神が待ち構えていた。
「ここから先は、俺たち二人だけの戦いだ」
祭壇を前に、影月が言う。
「ああ。二人だけの、最後の仕事だね」
私たちは、頷きあった。
最強の神が放つ、混沌の嵐の中、私たちは、最後の儀式を開始する。
──〝神々の婚礼〟を。
それは、言葉にできないほど、壮絶な儀式だった。
私の魂が、すべてを溶かす紅蓮の〝炉〟となり、影月の魂が、幾千の苦悩を宿した〝鉄〟となる。
私たちの出会い、すれ違い、育んだ愛、そのすべてが、魂を打ち直すための燃料となった。
『あなたの孤独も、私が打ち直す!』
私の魂が、光の鎚を振るう。
『お前の痛みも、弱さも、俺が引き受ける!』
影月の魂が、そのすべてを受け止める。
熱く、熱く、溶け合い、混じり合い、そして、一つの、新しい形へと生まれ変わっていく。
私たちの魂が、完全に一つになった時、まばゆい光が、世界を包み込んだ。
半神半人の存在へと昇華した私たちは、荒ぶる神と対峙する。
でも、それは、もう「戦い」ではなかった。
私が、神の荒ぶる魂を鎮めるための祝詞を唱えると、影月が、その魂を宿した神剣で、天を敬う奉納の舞を舞う。
それは、何万年も忘れ去られていた、神と人との、本来あるべき姿の「対話」だった。
やがて、荒ぶる神の雄叫びは、穏やかな寝息へと変わり、世界に、再び温かな光と平穏が戻ってきた。
*
季節は巡り、風祭の里には、また、いつもの日常が流れていた。
鍛冶場では、私と影月が、楽しそうに笑いながら、村人に頼まれた鍬を打っている。
私たちは、強大な力を得た。でも、私たちの本質は、何も変わらなかった。
その夜。
満天の星の下、私は、隣に立つ影月に、そっと尋ねた。
「ねえ、影月。私たち、これから、どうなるんだろうね」
半神半人なんて、前代未聞だ。これから、どんな運命が待っているのか、少しだけ、不安だった。
すると、影月は、優しく微笑んで、私をそっと引き寄せた。
そして、額に、温かい口づけを落とす。
「どうもならん」
彼の声は、夜空に溶けるように、優しかった。
「俺は、お前のパートナーで、お前は俺のたった一人の鍛冶師だ。それだけは、この世界のどんな神々だろうと、絶対に変えられん」
永遠の愛を誓う、長い、長い口づけ。
私たちの物語は、きっと、まだ始まったばかり。
この、愛しい人の隣で、これからも、続いていく。
(了)