第16話
私たちの、途方もない旅が始まった。
風祭の里を出て数日。最初に目指すのは、古地図に記された「神聖な火」が眠るという、南の果ての火山。街道を歩き、時には獣道を抜け、夜は森の中で火を焚いて野営する。それは、今まで経験したことのない、不自由で、でも、どこか新鮮な毎日だった。
「よし、できた!」
焚き火で焼いた魚を、串に刺して影月に差し出す。少し焦げちゃったけど、味は悪くないはずだ。
「…フン。お前も、少しはましなものが作れるようになったな」
影月は、ぶっきらぼうにそう言いながらも、黙々と魚を口に運んでいる。そんな何気ないやり取りが、今はたまらなく愛おしかった。
夜。二人で火を囲みながら、蒼司から定期的に届く手紙を読むのが日課になっていた。そこには、都に残って調査を続ける彼からの、神々に関する分析や報告が、びっしりと書き連ねてある。
『…どうやら神々は、完全に理性を失っているわけではないらしい。それぞれが、何らかの〝理〟に基づいて行動している。神を討伐しようとするな。敬意を払い、その理を解き明かせ。それが、君たちにしかできない戦い方のはずだ』
「敬意を払い、理を解き明かす…か」
蒼司らしい、難しい言い方。でも、これが重要なヒントになる気がした。
*
旅を続けること十日。
目的の火山が見えてきた。麓からでも、空気がじりじりと熱を帯び、硫黄の匂いが鼻をつく。地面は黒い溶岩石に覆われ、草木一本生えていない。まるで、世界の終わりみたいな光景だ。
「…来るぞ」
影月が、鋭く呟いた。
その瞬間、私が持つ『朱月』が、キィィン!と甲高い共鳴音を発し、灼熱の気を帯び始めた。羅針盤のように、刀身が火口の方角を指し示している。
私たちは、覚悟を決めて、火山の頂へと足を踏み入れた。
火口の淵にたどり着くと、ぐつぐつと煮え立つ溶岩の海が、赤い光を放っていた。その中心に、〝それ〟はいた。
燃え盛る炎が、美しい女性の形をとっている。紅蓮の髪をなびかせ、マグマの衣をまとった、圧倒的な存在。炎の神だ。
「ケラケラケラ…! よう来たな、人の子、あやかしの子よ」
神は、甲高い声で笑った。
「わらわの〝火〟が欲しいか? ならば、力で奪ってみせよ!」
その言葉と同時に、灼熱の炎の渦が、私たちに襲いかかってきた。
「くっ…!」
影月が前に出て、剣で炎を弾くが、まるで大河の流れを小石で堰き止めようとするようなものだった。私も浄化の光を放つが、炎の勢いが強すぎて、すぐに押し返されてしまう。
「弱い、弱い! 愛だの絆だの、そんな生温いもので、このわらわの炎が鎮められるものか!」
炎の神は、私たちを嘲笑う。
だめだ。力で戦っても、絶対に勝てない。
(敬意を払い、理を解き明かせ…)
蒼司の言葉が、頭の中で反響する。
私は、鍛冶師だ。炎は、私の仕事道具。鉄を溶かし、形を変え、魂を宿すための、大切なパートナー。
目の前の炎も、きっと、同じはず。
私は、浄化の光を解いた。そして、炎の神に向かって、ただ、まっすぐに語りかけた。
「あなたの炎は、ただ熱いだけじゃないはずです!」
「…なんじゃと?」
「その炎は、きっと、何かを生み出し、何かを温めるための、優しくて、力強い炎のはずです! 私は、鍛冶師だからわかります! あなたの魂が、本当は破壊だけを望んでいないって!」
私は、神の魂の声を聞こうと、意識を集中させる。
すると、彼女の燃え盛る魂の奥に、ぽつんと、小さくて冷たい〝孤独〟が見えた。忘れ去られ、誰からも敬われず、永い時間、たった一人でこの灼熱の中にいた、深い悲しみ。
「…もう、一人じゃないですよ」
私の言葉に、炎の神の動きが、一瞬だけ、ぴたりと止まった。
その隙を、影月は見逃さなかった。
彼は、剣を武器としてではなく、神に捧げる神聖な祭具として、天に掲げた。そして、舞う。それは、炎を鎮め、神を敬うための、荘厳で、美しい「奉納の舞」だった。
影月の剣舞が、神の荒ぶる心に涼やかな風を送る。
私の言葉が、神の孤独な魂に温かな光を灯す。
「面白い…」
炎の神が、初めて、嘲笑ではない、穏やかな声で呟いた。
「面白い人間たちよ。わらわの魂の声を、聞いたか。そして、わらわのために、舞うか」
彼女の周りの炎が、すっと勢いを弱めていく。
そして、彼女は、自らの胸の中から、拳ほどの大きさの、太陽のように輝く炎の塊を取り出した。
「くれてやろう。わらわの魂の一部、〝神聖な火〟じゃ。持って行け」
炎は、ふわりと宙に浮くと、私の『朱月』の中へと、吸い込まれていった。
「感謝します、炎の神様」
私が頭を下げると、彼女は「だが、勘違いするなよ」と、いたずらっぽく笑った。
「他の神々が、わらわのように、話のわかる優しい女神だと思うな。この先の道は、もっと険しいぞ」
そう言うと、炎の神は、満足そうに頷き、再びマグマの海の中へと姿を消した。
こうして、私たちは、最初の試練を乗り越えた。
『朱月』に宿った〝神聖な火〟は、温かい光を放ちながら、次なる神具が眠る、遥か北の大地を、静かに指し示していた。