第15話
目が覚めると、見慣れた自分の部屋の天井が目に入った。
身体のあちこちが鉛のように重く、軋むように痛む。
「…朱音!気がついたかい!」
傍らで、おばあちゃんのしわくちゃの手が、私の手をぎゅっと握りしめてくれた。その顔は、ひどくやつれて、憔悴しきっている。
隣の布団では、影月が、まだ蒼い顔で静かに寝息を立てていた。彼もまた、深い傷を負っているようだった。
「おばあちゃん…ごめん…なさい。私たち、何もできなくて…」
「いいんじゃよ、謝るでない」
おばあちゃんは、力なく首を振った。
「わしが、風祭に伝わる命懸けの秘術で、お前たちの魂をなんとか繋ぎ止めた。じゃが、あのお方…〝神〟の怒りは、鎮まってはおらん。また、すぐにでも里を襲うじゃろう…」
私たちの、完膚なきまでの敗北。
里を守るどころか、おばあちゃんに無理をさせてしまった。
自分の無力さが、情けなくて、悔しくて、涙さえ出てこなかった。
やがて、影月も静かに身を起こした。彼は何も言わなかったが、その赤い瞳の奥には、私と同じ、深い無力感と、そして自分自身への静かな怒りが渦巻いているのがわかった。
そんな私たちを前に、おばあちゃんは、覚悟を決めたように、静かに語り始めた。
「…朱音、影月。よくお聞き。風祭の家は、ただの鍛冶師の一族ではないんじゃ」
その声は、厳かで、震えていた。
「我らの祖先は、神代の昔、神々のために武具を打ち、その荒ぶる魂を鎮めてきた〝神代の鍛冶師〟。そして、お前、朱音は、その血と宿命を、今この世で唯一受け継ぐ者なんじゃよ」
「私が…神様の、鍛冶師…?」
「左様。そして、その荒ぶる神々を鎮める方法は、ただ一つだけ、古文書に記されておる」
おばあちゃんは、一呼吸おいて、言った。
「究極の儀式──〝神々の婚礼〟。お前たち二人が、心も魂も、完全に一つになる儀式じゃ…じゃが…」
その言葉は、希望というより、むしろ絶望の響きをしていた。
「その儀式は、あまりにも危険すぎる。もし失敗すれば、お前たちの魂は、二度と戻ることなく、この世から完全に消滅してしまう…」
魂ごと、消える。
その言葉の恐ろしさに、私は息を呑んだ。
世界の運命? 神様の魂を鎮める? そんな、物語みたいなことが、どうして私に。私なんかに、できるはずがない。
私が恐怖に震えていると、屋敷の外がにわかに騒がしくなった。
「朱音! 影月! 無事か!」
勢いよく襖を開けて飛び込んできたのは、息を切らした一条蒼司だった。都から、馬を飛ばして駆けつけてくれたらしい。
「蒼司さん…!」
「話は聞いた。…ひどい有様だな」
蒼司は、部屋に残る神の気の残滓と、私たちの様子を見て、顔を顰めた。
「これは、確かに人間の手に負えるものじゃない。だが…」
彼は、懐から取り出した数枚の写しを広げた。
「僕も都で調べてきた。古文書によれば、『神々の婚礼』を執り行うには、この国に散らばる**〝三種の神具〟**が必要不可欠だ。神代の鉄、神聖な火、そして、神域の水。これさえ集めれば、あるいは…」
蒼司の言葉は、暗闇の中に差し込んだ、一本の細い蜘蛛の糸のように思えた。
でも、その糸を掴むのが、怖かった。
その夜。
部屋で二人きりになった時、私は、影月にぽつりと呟いた。
「…怖いよ。私、自信ない。もし失敗して、影月まで消えちゃったらって思うと…」
すると、影月は、私の震える手を、両手で包み込むように握った。
その手は、ひどく温かかった。
「俺もだ」
彼の声は、静かだったが、揺るぎない覚悟に満ちていた。
「お前を、そんな危険な運命に巻き込みたくはない。二度と、守れないなどという無様な真似はしたくない。だが…」
影月は、私の瞳をまっすぐに見つめて、言った。
「お前が『やる』と言うのなら、俺はどこまでも付き従う。俺の魂は、とうの昔にお前のものだ。二人なら、きっと」
その言葉が、私の心の奥底に、温かい火を灯した。
そうだ。一人じゃない。
この人が、隣にいてくれる。
私は、溢れる涙をぐっとこらえると、彼の手を強く、強く握り返した。
「…うん。二人で、行こう!」
顔を上げる。もう、瞳に迷いはなかった。
「私たちの手で、このとんでもない運命、見事に打ち直してやるんだから!」
*
旅立ちの朝。
空は、まるで私たちの決意を祝福するかのように、青く、高く、澄み渡っていた。
おばあちゃんは「これを持っておいき」と、風祭家に伝わる古地図を。蒼司は「やれやれ、面倒なことに首を突っ込んじまったな」と憎まれ口を叩きながら、解析した神具の最初のありかを教えてくれた。
里の人々の、不安と、そして祈りのこもった眼差しに見送られながら、私たちは、一歩を踏み出した。
世界の運命を懸けた、途方もない旅が、今、始まる。