第14話
カン、と澄んだ音が鍛冶場に響く。
私が打っているのは、村の子供に頼まれた、小さな木彫り用の小刀だ。炎で赤く焼いた鋼を、リズミカルに打っていく。
「…手首の力が抜けてきたぞ」
ふわり、と背後から私を包み込むように、影月が手を添えてきた。ひんやりとした彼の指先が、汗で熱くなった私の手首に触れる。
「ひゃっ…!」
「集中しろ。鉄の声が、お前の迷いに曇っている」
彼の低い声が、耳元で囁く。心臓が、ドキリと大きく跳ねた。
「わ、わかってるわよ!」
強がって言い返しながらも、顔が熱くなるのを止められない。もう、彼と本当のパートナーになってから、ずいぶんと経つのに。この、不意打ちの優しさには、いつまで経っても慣れそうになかった。
彼が後ろから私の腕を支え、一緒に鎚を握る。
トン、トン、と二人の呼吸が一つになって、鉄が美しい形に打ち延ばされていく。
影月は、もはや私の半身だった。私のパートナーで、師匠で、そして──世界で一番、愛しい人。
こんな、陽だまりみたいに温かい日々が、永遠に続けばいい。
心の底から、そう思っていた。
異変の兆しは、ごく、ささいなものだった。
その年は、梅雨が明けても、ずっとじめじめとした雨の日が続いた。夏だというのに、肌寒い風が吹き、里の長老たちが「こんなことは、生まれて初めてじゃ」と、空を見上げては首をかしげた。
そして、私の『朱月』が、時々、悲鳴のような共鳴音を発するようになったのだ。
ちぃん、と甲高く鳴るたびに、私の胸には、誰かの計り知れないほどの「苦しみ」や「怒り」が流れ込んでくる。
「…どうした、朱音。顔色が悪い」
「ううん、なんでもない。ちょっと、鉄の声がうるさいだけ」
影月に心配をかけたくなくて、私はいつも笑顔で誤魔化した。
でも、その〝声〟の数は、日に日に増えていっている気がした。
そんなある日、都の一条蒼司から、早馬で一通の手紙が届いた。
封を切ると、いつもの彼らしい、流麗な文字が並んでいた。しかし、そこに書かれていた内容は、決して彼らしくない、切迫したものだった。
『朱音、影月へ。
単刀直入に言う。これは、ただの異常気象じゃない。
僕が、一族に伝わる古文書と、王家の天文記録を照合した結果、一つの恐ろしい可能性に行き着いた。
今、日本各地で起きている天変地異は、神話に記された「神々の覚醒」の前兆と、あまりにも酷似している。
にわかには信じがたいだろうが、もしこれが真実なら、今度の敵は、今までのものとは次元が違う。
くれぐれも、気をつけろ。
一条蒼司』
「神々の…覚醒…?」
手紙を読み終えた私の手は、微かに震えていた。
隣で読んでいた影月も、その赤い瞳を険しく細めている。
その、瞬間だった。
ゴゴゴゴゴゴゴ…ッ!!
足元から、突き上げるような、凄まじい地響きが襲ってきた。鍛冶場の道具が、ガラガラと音を立てて床に落ちる。
「きゃっ!」
「朱音!」
影月が、咄嗟に私を庇うように抱きしめる。揺れは、里の北にある山の方から来ているようだった。
私と影月は顔を見合わせると、同時に駆け出した。
里の出口まで来ると、信じられない光景が広がっていた。
北の山が、〝怒って〟いた。
山全体が、まるで巨大な一つの生き物のように、禍々しい気を発している。木々は根こそぎなぎ倒され、風が獣のような雄叫びを上げて吹き荒れる。
それは、怨霊や呪いといった、個人の負の感情ではなかった。
もっと、根源的で、抗いようのない、圧倒的な──自然そのものの、怒り。
「…あれが、蒼司の言っていた…」
「…〝神〟、だというのか…」
影月の声が、硬くなる。
山の怒りが、里へ向かって流れ込もうとしている。このままでは、里が危ない!
「行くわよ、影月!」
「ああ!」
私たちは、里を守るため、神の怒りへと真正面から立ち向かった。
影月が、幽月の太刀を抜き放ち、駆ける。その一閃は、大木さえも両断するほどの威力のはずだった。
しかし、神の怒りの奔流に触れた瞬間、いともたやすく弾き返されてしまう。
「くっ…! なんだ、この力は…!」
「私の光で、動きを止める!」
私も、鍛冶の精魂を解放し、浄化の光を放つ。
でも、それは、嵐の前の蝋燭の火のように、神の圧倒的な気の前に、かき消されそうになるだけだった。
違う。今までの敵とは、何もかもが。
格が、次元が、違いすぎる。
「グォォォォォォ…!」
山が、咆哮した。
それだけで、凄まじい衝撃波が、私たちを打ちのめした。
「がはっ…!」
「朱音ッ!」
身体が宙に舞い、地面に叩きつけられる。
全身を打つ激痛の中、薄れゆく意識で私が見たのは、天を覆い尽くすほどの巨大な影と、絶望的な力で私を守ろうと立ち尽くす、影月の姿だった。
(だめ…勝てない…)
私たちの絆も、力も、誇りも、この、神の怒りの前では、あまりにも、無力。
私の世界は、ゆっくりと、闇に閉ざされていった。