第13話
蒼司に教えてもらった古い砦は、王都の外れに、まるで巨大な墓石のように、不気味にそびえ立っていた。
入り口からは、瘴気と共に、呪詛を唱える低い声が漏れ聞こえてくる。普通なら、恐怖で足がすくむはずだった。
でも、今の私の心にあったのは、たった一つの、燃えるような想いだけ。
(待ってて、影月。今、行くから!)
私は、腰の道具袋に入った愛用の鎚をぎゅっと握りしめると、砦の石の扉を、思い切り蹴破った!
「待ちなさーいッ!」
ガラガラと派手な音を立てて、砦の広間へと乗り込む。
そこでは、禍々しい祭壇の上で、黒幕の呪術師が儀式を行っていた。捕らえられた美月さんが気を失っており、その霊力を贄として、影月の力が、黒い奔流となって呪術師へと吸い上げられていくところだった。
「影月!」
「…朱音!? なぜ、来た…!」
影月は、美月さんを庇うように立ちながらも、黒幕の精神攻撃と霊力の消耗で、その身体は限界に近いようだった。その顔には、私を傷つけてしまったことへの、深い罪悪感が浮かんでいる。
「小娘一人が来たところで、何も変わらんわ!」
呪術師が、私を嘲笑う。
私は、まっすぐに影月を見つめて、啖呵を切った。
「一人じゃない! パートナーでしょ、私たち!」
鎚を、高々と掲げる。
「あなたの背中を守るのは、私の役目なんだから!」
「ほざけ!」
呪術師が、影月の心の闇を増幅させる。影月の目の前に、過去の裏切りの光景や、私を傷つけた瞬間の幻影が、次々と映し出される。
「苦しめ、影月! お前は罪人だ! 誰も守れず、愛する者さえ傷つける、ただの呪われた亡霊なのだ!」
「う…ぐぅっ…!」
影月の心が、罪悪感という呪いに縛り付けられていく。
違う。違う! あなたは、そんなんじゃない!
「影月! 目を覚まして!」
私は、自分の魂のすべてを燃やすように、鍛冶の精魂を解放した。
それは、ただの霊力じゃない。
冷たい鉄に温もりを与え、歪みを正し、本来あるべき、最も強く、美しい形へと導く──鍛冶師だけの、温かい光。
私の光が、影月の心を縛る黒い呪いを、優しく照らし出す。
「あなたは悪くない! あなたは、ただ、誰かを守ろうと、必死だっただけじゃない!」
幻影が揺らぐ。
「不器用で、口が悪くて、いっつも一人で抱え込んで! でも、本当は誰よりも優しいこと、私が一番、知ってるんだから!」
私の魂の叫びが、彼の心の奥底へと届く。
影月を縛り付けていた、罪悪感という名の呪いの鎖が、音を立てて砕け散った。
「…朱音」
彼が、顔を上げた。
その赤い瞳には、もう迷いも、苦悩もなかった。そこにあったのは、雨上がりの空のように澄み切った、強い光だけ。
「…すまなかった」
彼は、私にだけ聞こえる声でそう呟くと、黒幕に向き直った。
「もう、迷わん」
正気を取り戻し、迷いを振り払った影月の力は、以前とは比べ物にならないほど、強く、鋭く、そして、温かかった。
「な、なんだ、その力は…! 怨念が、清められて…馬鹿な!」
狼狽える呪術師に、もう勝ち目はなかった。
影月の剣が閃き、私の光がそれを支える。二人の力が一つになった時、まばゆい光がすべてを包み込み、黒幕の野望は、完全に打ち砕かれた。
*
事件が解決し、王都に、ようやく本当の平和が戻った。
助け出された美月さんは、私たちに深々と頭を下げた。
「ありがとうございました。…影月様、姉もきっと、あなたに幸せになってほしかったはずです。どうか、この方の手を、二度と離さないであげてください」
その言葉に、影月は、静かに、でも、しっかりと頷いた。
砦の外では、蒼司が、腕を組んで待っていた。
「やれやれ。手間のかかるお姫様と、その朴念仁な騎士様だ。…だがまあ、最高の物語を見せてもらったよ」
彼は、憎まれ口を叩きながらも、その顔はどこか、満足そうに笑っていた。
そして、夕暮れ。
私と影月は、王都の見える丘の上に、二人きりでいた。
「朱音」
影月が、私の前に向き直り、深く、深く、頭を下げた。
「すまなかった。お前を、誰よりも信じなければならなかったのは、俺の方だった」
「…もう、いいの」
私がそう言うと、彼は、懐から、あの白いお守りを取り出した。
そして、それを、私の手のひらに、そっと乗せた。
「これは、姉君の形見であると同時に、俺の過去への戒めだ。俺は、これを一生持っていくだろう。だが」
彼は、私の幽月の鞘に結ばれた、古びた小さな守り刀に、そっと触れた。私が、決戦の前に打った、不格好な〝お守り〟。
「俺の魂のお守りは、これじゃない」
彼の指が、私の頬に触れる。
「…これからは、お前自身が、俺の魂の守りだ」
夕日に照らされた彼の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
そして、優しく、唇が重ねられた。
それは、今までで一番、長くて、甘い口づけだった。
「もう二度と、お前から目を離したりはしない」
唇が離れたあと、額をくっつけたまま、彼が囁く。
「俺が愛しているのは、お前だけだ。…俺の、たった一人の鍛冶師」
その言葉と、とろけるような笑顔に、私は、もう、頷くことしかできなかった。
すれ違いの雨は、すっかり上がっていた。私たちの頭上には、どこまでも澄み渡る、美しい夕焼け空が広がっていた。