第11話
あの夜、私は影月の顔を見ることなく、自分の部屋へ逃げ帰った。
布団を被って、膝を抱えて、朝が来るまで、ただじっと震えていた。
彼の懐に仕舞われた、白いお守り。その光景が、まぶたの裏に何度も何度も、繰り返し再生される。
翌朝、顔を合わせたときの空気は、凍りついていた。
「…おはよう」
私がかろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど、冷たく響いた。
影月は、一瞬だけ私に視線を向けたが、すぐに逸らし、「…ああ」と短く答えただけ。
違う。聞きたいことは、そんなことじゃない。
昨日の夜、どこで、誰と会っていたの?
あの、お守りは、何?
あなたにとって、私は、何なの?
喉まで出かかった言葉を、全部飲み込む。
聞いてしまえば、きっと、私はもっと傷つく。彼の口から、聞きたくない答えが返ってくるのが、怖かった。
そんな私達の様子を、一条蒼司は目敏く見抜いていた。
「…少し、付き合え」
昼下がり、一人でぼんやりと庭を眺めていた私を、蒼司が半ば強引に屋敷の外へと連れ出した。向かった先は、都を見下ろす小高い丘の上だった。
「僕でよければ、話くらいは聞くが?」
眼下に広がる王都の景色を眺めながら、蒼司が言った。その声は、いつもの軽口とは違う、穏やかな響きをしていた。
「…別に、なんでもないわよ」
強がってみせるけど、声が震えているのが自分でもわかった。
「私は、ただ…」
言葉が、詰まる。一度堰を切ってしまえば、全部溢れ出してしまいそうだった。
「私、もう、どうしたらいいか、わかんない…」
結局、私は、子供みたいに泣きじゃくっていた。
蒼司は何も言わず、ただ黙って隣にいてくれた。やがて、私のしゃくりあげる声が小さくなった頃、彼はぽつりと言った。
「あいつは、過去に縛られている。…今の君を、ちゃんと見ていないんじゃないか?」
その言葉は、まるで鋭い矢のように、私の心の最も柔らかい場所を射抜いた。
図星だったから、何も言い返せない。
「僕なら、君をそんな顔にはさせないがな」
蒼司が、私から視線を外したまま、そう呟いた。それが彼の優しさなのか、それとも、別の何かなのか、今の私には判断できなかった。
その時だった。
都の中心から、ゴォン、と不吉な鐘の音が響き渡った。見ると、今までとは比べ物にならないほど、濃くて禍々しい瘴気が、都全体を覆い尽くそうとしていた。
「…! まずいな。黒幕が、本格的に動き出したか!」
私と蒼司が急いで屋敷に戻ると、血相を変えた執事が駆け寄ってきた。
「一条様! 大変でございます! 白月神社の美月様が、何者かに攫われたと…!」
「なんだと!?」
「犯人からは、影月様宛に書状が一つ…」
そこに書かれていたのは、美月を人質にした、影月をおびき出すための、あまりにも卑劣な罠だった。
*
「行くのか、影月」
屋敷の玄関で、旅支度を整える影月の背中に、蒼司が問いかける。
「ああ。罠だとわかっていても、行くしかない」
その横顔は、悲壮な覚悟に満ちていた。
「待って!」
私は、駆け出した。彼の腕を、掴んで引き留める。
「私も行く! 一人で行かせたりしない!」
「…離せ」
影月の声は、凍えるように冷たかった。
「これは、俺一人の問題だ。お前を連れては行けん」
「どうして!? パートナーでしょ、私たち! どんな時も、二人で戦うって、そう決めたじゃない!」
「黙れ!」
影月の怒鳴り声が、広い玄関に響き渡った。
彼の赤い瞳が、苦悩と、焦りと、そして、私にはわからない深い感情で、ぐらぐらと揺れていた。
「いい加減にしろ、朱音! お前は足手まといだ!」
「…っ!」
違う。そんなこと、思ってないくせに。
でも、その言葉は、私の心をばっさりと切り捨てた。
涙が、溢れて止まらない。
「どうしてよ…! どうして、私じゃダメなの!? あなたが守りたいのは、そんなに〝あの子〟が大事だからなの!? 私のことはもう、信じてくれないの…!?」
私の悲痛な叫びに、影月は、一瞬、鬼の形相になった。
そして、彼が吐き出したのは、私の心を、完全に砕け散らせる一言だった。
「そうだと言ったら、どうする!」
シン、と世界から音が消えた。
外で、ぽつり、と雨が降り始める。
「…黙っていろ」
影月は、それだけ言うと、私の腕を振り払い、降りしきる雨の中へと、一人で消えていった。
私は、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
頬を伝うのが、雨なのか、涙なのか、もう、わからなかった。