05
『あの御方と共に戻られたのですね、お懐かしゅうございます
迎えが遅くなり申し訳ございませぬ、すべて我が不徳の致すところ』
『え、あの、』
『しかし良かった、本当に良かった
貴女様が連れ去られたとあの御方より聞かされたときには
御身ご無事でおられるのか、その御心に憂いはないか、と
案じるあまりこの身が張り裂けるかと思いました』
『ひとちがいじゃ……』
『そのようなこと有ろう筈がございませぬ
喩えあの頃とは御姿が違おうとも、どうして見間違うことができましょうか』
すぐにも対応できるようあちらの様子に耳をそばだてながら、思った以上に際どい状況に背筋が冷えていくようだ
受け入れ難いことではあるが、都子さまのこの反応
記憶の混濁があるご様子……それがどの程度なのか、確かめねば
あの頃、我らは遠目に御姿を見るばかりで限られた者のみしか近付くことを許されなんだ
その限られた者も、顔を覚えていただける程、何度も御目通りさせていただけたわけではない
そのような状況であった為、この方が我ら下々の者の顔など覚えておらぬのも当然のことと思うていたが
『あの、でも、』
『ときに都子さま、あの御方はいずこにおられるのでございましょう
あの御方が貴女様をお一人にしておくなど考えられませぬ
しかし現状では貴女様はあの御方とではなくあの男と共におられる』
『ま、まって、』
都子さまの反応は思わしく無い
もしや とうの昔にこの方と共に此方にお戻りになられたのかとも思い今回の事の前に調べはしたが、その片鱗が見受けられなかったことを考えれば、此方へ戻る以前にあの御方と逸れてしまわれたのか、それとも都子さまは元々単身でお戻りになられたのか……
このご様子では、混濁どころか喪失の可能性もあるやも知れぬ
どちらにせよあの男に身を預け全幅の信頼を寄せるようなあの表情を見れば、この方があの男の手によって洗脳……もしくは記憶に封印を施されていると見て間違いは無い
或いは、考えたくはないが最悪の場合、封印ではなく"消去"の可能性も……
『あの御方がそのようなことを許されるはずがございませぬ
都子さま、あの御方はどうなさったのでございますか、よもや、あの男が……?
貴女様の御姿が違うのももしやその所為で……?』
あの御方からこの方を掠め取り、目眩しにお姿も記憶も……
でなければ、あの御方のことをお忘れになってしまうなど、絶対に有り得る筈が無いのだ
あの楽園で、我らに慈愛の手を差し伸べて下さったこの方が、あのような下賤の者の手の内に身を甘んじるなど、あの御方のことさえ覚えておられれば、このようなことには、絶対に
あぁ、それよりも、知らぬ者から記憶に無いことを言われることに困惑するこの方を一刻も早く、御身を蝕む枷から解放してさしあげねば……
いっそ、陣の妨害をやめるか
成功するしないは分からないが、仮にも それによってあの御方がお戻りになれば あの御方の望みはすぐにも叶うこととなる
この方を苛むこの状況もあの御方であればすぐさま解消なされる筈だ
そう考えを改めた時であった
「おや? まさか仮に女神が還ったとして、そう都合よく不都合が解消されると本気で思っているのですか?
無理矢理戻されたと怒りを露に人の世を滅ぼしたりはしないと、どうして確信できるのです」
(ッ!!)
そうだ、その通りだ、あの御方は御怒りになる、それをあの男は恐らく確信している
盗み聞くこの言い様ですら何か含むものを感じずにはいられない
狡賢いあの男ならば、必ず何か手を打っている筈だ
恐らく、召還の陣に、間違いなく仕組まれている!
あれは、あの陣は絶対に駄目だ、あの御方を侮るわけでもあの男を過大評価するわけでもないが、しかし、僅かにも不審の芽があるものに頼るわけには断じてゆかぬ
『……あの……おかた?』
『お忘れですか都子さま、貴女さまの愛娘です、あんなに仲睦まじい母娘だったではございませぬか』
『まな……むすめ……?』
娘という言葉に思い当たるような反応を見せて下さった都子さまのお姿に、僅かながらも希望を感じずにはいられなかった
一方でそばだてる耳には、好ましくない会話の流れが入り込む
潮時だろう、あの男が戻る前にこの方をお連れせねば
『そうでございます
さあ、積もる話もございますが このような場所にいては都子さまに悪影響を及ぼしかねませぬ
どうやら旗色が悪くなったもよう、あの男が戻ってくる前に此処を離れましょう』
『ひ、』
一刻も早くこの方を解放してさしあげたい
逸る気持ちを抑え、この方をこれ以上怯えさせぬよう、そっと翼を差し出した時だった
不自然な空気の流れを感じ、本能的に身を引いたその瞬間、現れた不可視の何かが都子さまから遠避けるかのように一撃を加えてきた
「っぐ」
唐突に空へと放り出されたことで発生した風に煽られ、翼を立て直すのに梃子摺りつつも離さなかった視線の先に姿を現したのは、特徴的な灰青色の毛皮を持つ虎のアヴァニスだった
(灰青色の虎……レヴァルヴム=ルヴガルド!)
ユンファイエンスが魔術特化型ならこの男は武術特化型、その弟同様に色々と現実感の無い噂には事欠かない相手だ
だが寧ろコレは有利だろう、空は我が領土、それにまがりなりにも十二人の魔導師に選ばれるだけの力はあるつもりだ
(都子さま、すぐにお助け致します!)
男の背後では、意識を失われたあの方が渦巻く風の上に横たわるようにして宙に浮いている
首元にチカリと鈍い輝きを放つ紅蓮の石からは禍々しい力を感じ取ることができた、アレがあの方を護っているのだろう
害意の有無は兎も角として鄭重に扱われることだけが救いだった
都子さまとあの男の間には多少距離が開いたが、できればもっと遠ざけたい
操作を誤ってあの方に危害を加えるほど腕が悪いつもりは無いが戦闘において絶対という言葉は存在しない
腕をもがれようとも使えるよう舌に刻んだ咒紋を使いルヴガルドを攻撃するが――あの方を髪の一筋ですら傷付けてはならぬ――その気負いの所為もあり思ったように攻撃は捗らなかった
都子さまへの影響を気にするあまり、口から吐き出す魔力波に威力を乗せることを躊躇う
あの距離では都子さまをお助けするために降りた瞬間追いつかれる、もっと引き離したいにも関わらず威力の弱さからか奴はソレを僅かに身を傾けて通行人を避けながら予備動作も無く打ち返してくる
何かとてつもない"違和感"を感じるが、ソレに気をやる余裕は欠片も無かった
「く、そッ」
圧倒的な体力差は長引けば状況をより不利に傾けるだろう
両手の十指の腹に刻んだ咒紋は腕が翼に変じていても使える、奴の手足の届く範囲から少し距離を置いた足元に翼のひと煽ぎで連弾させた魔弾により土煙で煙幕を張り、その隙に都子さまを取り戻そうと……だが
「がぁ! ――な、どう?!」
何が起こったのか、分からなかった
背中へと突き抜けた衝撃が呼吸を妨げ、強烈な眩暈に襲われる
そんな視界に通り過ぎる、極めて日常的な、人々の――姿
……おかしい、道行く通行人が、こんな騒ぎの中を、平然と通過していく
こんな、ばかな、愚鈍にも程がある
違和感の、正体を、……今頃になって、……今更になって、気付くだなどとっ
(ぬかった!)
仕組まれていた、いつからだ、一体いつッ!
「もういいのか」
「ええ、追加人員は無いようです」
「?! ユンファイエンス……ッ」
呼び出し先に現れた時よりも戻る時間が格段に速い
わざと抑えて誤算をさせたのか
いや、そもそもおかしい
奴はなぜ初めから転移を使わなかった?
だが、今はそのようなことを考える場ではなく、そんな余裕もありはしなかった
「っぐ、ぁ?!」
腹を突き上げられるように乱流に呑まれ空へと放り出される
目まぐるしく回り辛うじて残像を捉え定めることも出来ない視界には、都子さまを抱いたユンファイエンスの姿がこびり付いていた
それ以上、どうすることも出来ず
なんとか墜落を逃れ体勢を整えると、なさけ無くも、わたしは、逃げた……逃げたのだ!
逃げた!
逃げた!!
逃げたのだ、都子さまを置き去りにして!
「ぁぁ……なんということだ……ッ!」
あの御方に、あの方に、何と侘びればよいのかっ
……だが、まて……なぜ逃げることができた?
あのユンファイエンスが、どうしてみすみす捕り逃す
勿論、慈悲などではないだろう、何を狙っている
あぁ……かんがえなければ……なにを……
わからない……やつはなにを……
わからない……わからないっ!!
「とりよ、とりたちよ!」
いちわでもおおく、わがはらから、けんぞくたちよ
せめてあのおかたのあんねいをまもるため
わたしにはもうこれしかおもいつかない
つたえてくれ、つたえてくれ!
「あの御方の為に自決せよ!!」
眷属達が飛び去ったのを確認し、口をきつく結んだそのアヴァニスの女は、口の中で魔力を練り込み、肉の一片も残らぬように己の頭を吹き飛ばした
ユンファイエンスの狙いが分からないのならば、せめて召還を阻止しようと鳥種の眷属に遺言を残し
だが、幾星霜を生き長らえた女とは異なり、眷属たちはただの鳥だ
たとえ賢いとしても良くて幼子程度の知能しか持たないそれらが、気も狂うような永き間 身を隠し息を潜める者達を見つけることなどできよう筈も無い
結局は――無駄死にでしかなかった
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