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日常シリーズ

雨とピアノ

作者: 釜瑪秋摩

 金曜日。

 雨の夜。


 私、樋口圭子ひぐちけいこは、仕事を終え、傘を広げて職場の玄関を出た。

 雨の日は、駅に着くまで歩くのも億劫になる。


 雨の日は、あまり好きじゃあない。

 濡れるからとか髪が乱れるからとかだけでなく、単純に気分が落ちる。


 嫌な気分ではないけれど、変に感傷的な気持ちになるから。

 思い出すと胸が痛むようなことばかりが頭に浮かび、それがなかなか消えてくれない。


 傘を閉じて駅ビルに入り、改札へ続くエスカレーターに乗って下る途中から、ピアノの音色が聞こえてきた。

 そのメロディに、私はドキリとした。

 エスカレーターを降りて、ピアノの置かれている通路へ向かうと、ガラス張りの壁にピアノを弾くうしろ姿がみえてきた。


 サティのジムノペディ一番――。


 弾いているのは、私と同じ三十代くらいの男性だった。

 ここを通るとき、時折、ピアノを弾いている人を見るけれど、大抵が有名なアニメの曲やポップス、ロックバンドの曲だけれど……。

 クラシックだと、リストやショパンが多い気がする。


 ここで、ジムノペディを聞いたのは、私は初めてだった。

 雨の日に、胸の奥がしんみりしているときに、なぜ、この曲に出会ったんだろう?


 ピアノを弾くうしろ姿を眺めながら、以前、好きだった人のことを思い出した。

 互いに傷つけあうような恋だった。

 同じ会社で同じ部署、仕事に没頭する私を、彼はだんだんと疎ましく思うようになったらしい。


「そんなに仕事ばかりで、圭子は俺のことを考えてくれることがあるのか?」


「仕事とプライベートは別でしょう? 私は休みにまで仕事を持ち込まないじゃない」


「俺が休みに仕事を入れるのは、仕事上の付き合いがあるからだろう!」


「そんなことは、わかっているよ! だから私は、あなたの仕事についてなにも言わないでしょう?」


 なじり合うことが増え、憎み合う前に、別れるしかなかった。

 今なら、あのときとは違う付き合い方ができるだろうけれど、あのときは、それができなかった。


 結局、別れたあと、私は会社を辞め、彼ともそれきり会うことはなく、連絡も取っていない。

 罪悪感は残ったけれど、後悔はしていないし、今の仕事も充分にやりがいがある。


 曲の終わりが近づき、その場を離れようとすると、次の音が聞こえてきた。

 二番を弾き始めている。


 立ち去ることも出来ず、私はそのまま聞き入っていた。

 私のほかにも数人が足を止めているけれど、多くの人はただ通り過ぎていく。

 男性はそのまま三番まで弾き続けた。


 行き交う人は誰も気にも留めないだろうけれど、私はピアノに背を向けてガラス張りの外へ視線を移した。

 嫌になるほど思い出が押し寄せてきて、涙が溢れる。

 こぼれる涙を拭いながら、もの思いにふけっているうちに、いつの間にか曲が終わっていた。

 振り返ると、ピアノの椅子にはもう、誰も座っていない。


 それからも、何度か、あの男性がピアノを弾いている姿を見かけた。

 それは必ず雨の日で、曲はジムノペディだった。

 私はいつも足を止めて、彼の曲に聞き入っていた。



 これは、私がその男性と、仕事を通して出会う前の話――。



-完-


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