三日月の夜
夜の十一時をまわった時間。
事故があって電車が止まっている。
車掌や駅員が慌てて、走り回っているところを見ると、人身事故のようだ。乗客も皆、降ろされた。
この分じゃ、待っていても電車はしばらく動かないだろう。
ぼくはため息をついた。
こんなことなら、一緒に飲んでいた同僚の家にいけばよかったかな。
「だいぶ酔っているから、おれんとこに泊まるか?」
そう言ってくれたけど、新婚のお宅へ、こんな夜遅くに行くのは遠慮した方がいいと思って行かなかった。
こうなってはしかたがない。たぶん、タクシーも拾えないだろうから、歩いて帰ろう。歩いて帰れない距離でもない。
ぼくは混雑する改札口を出た。案の定タクシー乗り場は行列ができている。それを横目に見ながら繁華街の喧騒をぬけた。
人通りのない住宅街を歩く。
気分は悪くなかった。夏の夜にしては空気がカラっとしているように思える。
三日月が美しい。
薄ら暗い街灯が先の方まで並んでいる。住宅やマンションの窓から明かりがもれている。
ふと見ると、誰かが道に立っているのが見えた。遠目でもちょっと異様な感じがした。
白髪のぼさぼさな髪、くすんだ白地に赤い花柄の浴衣を着ている。昔、絵本で見たやまんばに似ていると思った。
夜中に一人でこんな所に、あんな姿のおばあさんがたたずんでいるなんて、普通じゃない。見てはいけないようなものの気がする。
ぼくは横道にそれた。もう大丈夫だと思って、後ろを振り返った顔を前に向けると、目の前にさっきのおばあさんがいた。
「今、帰りかい?」
しわしわの顔、小さい目。おばあさんは歯のない口で笑った。薄い唇の端から血が流れている。その血がぽたぽたと浴衣に落ちて染み込んでいく。
赤い花柄に見えた模様はおばあさんの血で染まったものだった。
(うわあー)
ぼくは叫びそうになるのをこらえて走った。
幽霊? 疑いようがない。
しばらく走って後ろを確認した。追いかけてくる様子もなかったし、だれかがいる気配もない。
どうしてあんなものを見たんだろう。
ぼくは速足で歩いた。
道の先にトンネルが見えた。ええっ!なんであんなところにトンネルがあるんだ。 トンネルなんて幽霊が出ると言われる定番の場所じゃないか。ぼくは立ち止まった。
さっきのことがあったから、トンネルなんて通りたくない。
ちがう道に行きたいけれど、ここは一本道で横道はなさそうだ。
引き返そうか? でも、だいぶ遠回りになる。
そう長いトンネルでもなさそうだ。何かあればさっきみたいに、走って逃げればいい。
そんなことを考えながら歩いていると、もう、トンネルの入り口まできてしまった。
暗くて、ちょっと気持ち悪いけど行くしかない。
ぼくはトンネルに足を踏み入れた。
(あれ? 子供?)
いつの間にか出口に近いところに子供らしき人影があった。
ぽんぽんぽんと音を響かせ、まりをついている。
こんな時間に子供が? それに、今の時代にまりつきをして遊ぶなんて。
きっとあれもさっきのと同じたぐいのものだろう。
ぼくは恐る恐る歩いた。近づくにつれてはっきりと姿が見えて来た。
おかっぱ頭の女の子で白い丸えりのブラウスに、ふんわりとした紺色のスカートをはいている。足に履いているのは靴ではなく下駄だった。
昭和初期の写真からぬけでたような女の子だ。
突っ切ろう。
ぼくは思いっきり走った。
その子の横を通り過ぎた一瞬、
「おじちゃん、遊ぼう」
と、女の子の声がはっきり聞こえた。
ぼくは頭を振りながら、走ってトンネルを出た。
しばらく走って、後ろを見るとそこには女の子はもういなかった。
なんて夜だ。
空を見上げる。さっきと同じ美しい三日月。
前を見ると、何人か人がいた。バス停にバスがついたのだろうか。
ぼくはほっとして、足をゆるめた。
一人の男が道の端に立って、ぼくの方を見ている。どうしてあんなところに立っているのだろう。通りにくいではないか。誰か待っているのだろうか。
男の前を通り過ぎる時、ぼくはちらっと男を見た。
全身びしょ濡れでガリガリの男だ。大きな目をぎょろつかせ、ぼくの顔を見ながら、ニヤニヤ笑っている。
(うわあっ、こいつもだ)
そう思った時、後ろからひたひたと足音が聞こえてきた。振り返ると、若い女が微笑んでいる。
(だめだ。この女も)
前を歩く男の子とその手をつなぐ母親らしき女も、おじいさんも、おばあさんもみんなこの世の者ではない。
「こんばんはー」
「いい夜だね」
この世の者ではない者が、ぼくに近付き話しかけてくる。
「寄るなー」
ぼくは走った。
何なのだ。いったい。どうしてぼくに話しかけてくるんだ。ぼくはやみ雲に走った。
気が付くと、自分の家の前に来ていた。
早く母に会いたい。一人で苦労して育ててくれた母。早く声が聞きたい。ぼくはなぜか強くそう思った。
鍵を出そうと肩にかけているかばんをさぐる。あれ、かばんがない。いつどこでなくしたのか。思い出せない。
ぼくは仕方なく、戸を叩いた。
「母さん、ぼくだよ。開けて」
ぼくは叫んだ。夜中でご近所迷惑だろうけどしょうがない。
すぐに、部屋の電気がぱっと点いた。母が廊下を走る音がして、玄関の戸が開いた。
「ごめんね。遅くに。鍵がなかったのもだから」
ぼくは言った。
けれど、母はぼくの声には答えず、引き戸から顔を出して、キョロキョロと辺りを見回している。
「母さん?」
母は首をかしげて戸を閉めた。
その時、電話が鳴った。夜中や明け方の電話はいいことがない、と母がよく言っていたけれど。
「えっ? タツヤが電車に? 即死?」
母の受話器を持つ手が震え、顔面が蒼白になった。今にも倒れそうな母の肩を抱こうとするけれど手応えがない。
「あっ」
ぼくは思い出した。
駅のホームでスマホを見ながら電車を待っていた時、誰かがぼくにぶつかってきた。ぼくは線路に落ちて入って来た電車に・・・。
近づく電車のライト、急ブレーキの耳をつんざく音、記憶が鮮明になった。
そうだ。ぼくはあの時、死んだのだ。
「母さん、ごめんね」
廊下に座り込む母の顔に、自分の顔を近づけて言った。
けれど、母にぼくの声は聞こえない。
玄関の大きな姿見の鏡に、ぼくの姿が写っている。
ぼくはふわりと宙に舞った。
駅員の人たちは、ぼくの腕や脚、顔半分をちゃんと見つけてくれるかな。動画に撮影なんかされていたら嫌だな。ぼくは思った。
駅に戻って様子を見てこよう。
ぼくは玄関の戸をすり抜けて、夜空に飛び立った。
読んでいただきありがとうございました。