スッラ体制
何にせよ、スッラが政治に力を注ぎ始めたのは新貴族たちからすると大きな痛手であった事は間違いない。
反貴族、反スッラを掲げ、マリウスの旗の下で参戦したものたちは旧来の貴族を打倒しようと試みた新貴族たちだったからだ。
スッラは彼らに恩赦を与え、一部を自身の体制に取り込もうと画策したが反抗的な者も多く容易ではなかった。
そのため、スッラは彼らに恩情をかけるとともに、体制に反対的な人物を処刑者名簿にリストアップさせた。
この政策は、国家に反抗的な人物の全財産を没収の末、処刑する事を合法化するものであった。
新貴族狩りを行う一般市民が賞金稼ぎとなるケースも見られたが、多くの場合は殺人のプロフェッショナル、軍の有力者が自身の領地と資金を増やすための手段として用いられた。
この政策により、ローマの秩序は回復し、国家転覆の危機を脱することに成功したローマであったが、独裁者による強権が容認される環境が整ってしまった。
事実、スッラなきあとローマを掌握したカエサルが自身を独裁官に任命し、権力を振るったことからも明白である。
スッラは「人間は金と暴力を愛している」と述べた。この発言は、おそらく処刑者名簿を金稼ぎに乱用した配下の兵たちをみての言葉だろう。
スッラは立て続けに、民衆と彼らの支持を集める新貴族の政治力を弱めるため、護民官(民衆の声を政治に反映させる力を持つ)の権限を脆弱なものにする法案を発布した。
スッラは言った「退廃的な民衆に委ねた政治は、アテネの惨劇を繰り返す」
スッラは民主政治による危険性を熟知していた。
民衆の身勝手な発言が国を破滅に追いやる最悪なリーダーを誕生させ、都市に金と利権問題を蔓延らせ、治安の悪化を招くと。
「ローマは遅かれ早かれ、死ぬだろう」
58歳を迎えたスッラはカピトリヌスの丘の上にたち、珍しく弱音をはいた。




