I Fall In Love Too Easily...
トランペットが吹けない。
最初から、ずっと練習してる曲…バイバイブラックバードが吹けない。
明日香が、あたふたしていても関係なく、
バンドは、次の曲…I Fall In Love Too Easilyに入る。
明日香は慌てて、ミュートをトランペットにつけると、一度息を吸い、静かに吹き始める。
バラードだ。
目を閉じ、バンドの演奏に身を任せながら、
明日香は、頭の中でイメージした。
恵子を包む健司のように…吹こうとした。
だけど、イメージできない。
フレーズが浮かばない。
目を強く瞑り、明日香は音の中を…さ迷う。
暗闇の中で、やっと見つけた光は…
ゆうの顔をしていた。
ゆうは微笑み、明日香に告白する。
好きだ。
その言葉が、グルグルと明日香の周りを回り続ける。
多分…顔が赤くなってる。
恥ずかしさに、力がはいる。
何を吹いてるのか…
どこを吹いているのか…
わからないまま、
演奏は終わった。
「お疲れ」
他のメンバーが、ステージを下りても、
明日香は、しばらくステージに立ち尽くし、
やがて、溜め息とともに、ステージを下りた。
バンドは、休憩に入る。
フラフラとカウンターまで歩いてくると、明日香は席についた。
ニヤニヤしながら、阿部が近づいてきた。
「何かあったの?明日香ちゃん」
明日香ははっとして、
「ごめんなさい!頭が、真っ白になっちゃって…」
阿部はさらに、ニヤニヤし、
「真っ白じゃなくて…何か考えてただろ」
「え」
阿部は、ウインクをした。
「めちゃくちゃだったけど…。一瞬、すごくよかったよ」
「え!」
「昨日よりよかった。いいねえ〜青春かあ」
阿部は、明日香の肩を叩くと、再びステージに戻っていった。
明日香は、顔を真っ赤にした。
恵子は、笑いながら、明日香に、オレンジジュースをだした。
「恋するなんて…簡単。明日香ちゃんも簡単ね」
「簡単じゃないです!」
少しむきになる明日香に、
「あらあ。簡単ではないのね」
明日香はさらに、真っ赤になる。
恵子は、クスクスと笑うと、煙草に火を点けた。
真っ赤になったまま、ジュースのストローと格闘している明日香に、
恵子は、自然と微笑んだ。
明日香は、何とかオレンジジュースを飲むことができた。
ズズッと音を立ててしまう。
焦りながら、明日香は話題を変えなくちゃいけないと思った。
焦っていたのも、あるかもしれないけど、
それは素直で、
素朴な質問だった。
だからこそ、
きいては、
いけなかったのかもしれない…。
そんな質問を、明日香はしてしまった。
「昨日…タブルケイのCDを、聴いたんですけど…。ジャケット見たら…」
明日香は、ストローを持ち、グラスの中の氷を見つめながら、転がした。
そして、次の言葉を発した。
「健司さんって…。阿部っていう名字なんですか?」
恵子の煙草を吸う手が、
止まった。
顔を上げた明日香は、恵子の様子に気付いた。
少し固まった恵子の指先から、煙草の煙が漂う。
気まずい雰囲気。
「兄貴だよ」
いつの間にか、阿部が明日香の後ろに来ていた。
阿部は、明日香の隣に座ると、吐き捨てるように言った。
「トランペッターとしては、最高だが、男としては最低なやつさ!」
健司のことはなぜか…
触れられない雰囲気があった。
明日香が憧れ…常日頃、彼のように吹きたいと言っていても、、彼自身の話は…まったくでなかった。
今どこにいて、何をやっているのか…。
阿部は、煙草をくわえたが、なかなか火が点かず、
煙草を灰皿に捨てた。
そんな阿部の様子を、見つめる恵子。
「トランペッターとしては、最高だったよ!だけど、男としては…人間としては、最低だ!」
阿部は、カウンターを激しく叩いた。
明日香は戸惑い、言葉が出ない。
「もうやめなさい。大樹」
これまで、阿部のことを名字で、呼んでいた恵子が、
初めて、下の名前で呼んだ。
「いや、やめないよ。姉さん!いい機会だから言うよ」
阿部も、恵子を姉さんと呼んだ。
明日香は驚いた。
阿部は、カウンターに立つ恵子を見上げた。
「いい加減…忘れよう!あいつのことなんか!」
阿部は叫んだ。
思いも寄らない阿部の言葉と迫力に、
自分に言われていないのに、圧倒される明日香。
言われている恵子は、冷静さを取り戻していた。
「もういい加減…店名も変えよう!ここを捨てて、出ていったやつが、つけた名前なんて…くそ食らえだ!」
普段、いつも愛想良く笑顔のイメージがある阿部の…怒った顔を、明日香は今まで想像できなかった。
「KKには、あたしも入ってるの」
恵子は、扉にはめ込んである店名のロゴを見つめた。
「店をやりたいと言ったのは、あたし…。結果が、どうであれ…あたしも関わっていたの」
「でも!姉さん!」
思わず立ち上がり、まだ何か言おうとする阿部を、
恵子は遮った。
「あたしは、後悔してない」
恵子は、阿部の目を見つめた。
恵子の目の強さに、阿部は何も言えなくなる。
「姉さん…」
阿部は、立ちすくむ。
「大樹…有り難う」
恵子は、阿部に微笑むと、明日香に顔を向けた。
「折角…明日香ちゃんのノロケ話を、きこうとしたのに…。明日香ちゃんが、びっくりしてるじゃない」
「え!い、いえ…」
いきなり振られて、明日香は口ごもる。
「ママ!来たよ」
突然、店の扉が開き、団体のお客さんが入ってくる。
恵子の表情が、一瞬にして変わる。
「いらっしゃいませ。いつもありがとうございます。奥のテーブル席へどうぞ」
いつのまにか…7時をまわっていた。
次々に、お客が入ってくる。
「明日香ちゃん。少し時間ある?」
カウンターを出る前に、恵子は明日香に声をかけた。
「あ、はい」
明日香は頷いた。
「じゃあ、少し待ってて」
恵子は、来店されたお客に、挨拶に行く。
阿部は、ステージに上がり、さっさとベースのチューニングを済ます。
慌ただしく、営業が始まった。
武田が、カウントを取ると、
演奏も始まった。
いつもより激しい…ビーバップ調の演奏が、
阿部の気持ちを、表していた。
心を、切り裂くような演奏。
3人は、曲を決めていなかったはずなのに、
武田と原田は、阿部の気持ちに呼応する。
2人も、同調しているかのように。
だけど、
そんな気持ちの爆発は、1曲だけだ。
すぐさま、曲調は変わり、心地よいBGMになる。
やがて…お客のリクエストが入り、
いつものお仕事に、戻る。
曲は、星に願いを。
日本人が選ぶジャズナンバーには、必ず入る名曲だ。
今でも、よくCMに使われる。
明日香にも、聞き覚えがあった。
切ないメロディーが、店内を包んだ。
店が、一段落つくと、
恵子は、明日香の前に戻ってきた。
「ごめんね。明日香ちゃん」
「あたしこそ…変なことをきいてしまって…」
明日香は、頭を下げた。
「いいのよ。謝らなくて」
恵子は微笑み…煙草に、火をつけようとしたけど、
お客がいることを、思い出して、やめた。
恵子は、明日香の中身がなくなったグラスに、オレンジジュースを注ぐと、
徐に、ステージ上の阿部を見つめながら、話し出した。
「健司は…あたしに、音楽を…歌うことを、教えてくれた人。そして…あたしの旦那だった人よ」
恵子の目が…なつかしそうに、ステージを見つめた。
「あたしに…才能があると、いつも言ってた。あたしも…調子に乗って、歌手になったわ。いろんなところで歌い…少し有名になって…CDも出せた。もっと…歌を聴いて貰いたかったから…自分の店も…場末だけど、もてたわ」
明日香は、何も言わず、ただじっと…恵子を、見つめていた。
恵子の目の色が、とても淡くなる。
「彼なしには、あたしの歌は、生まれない。結婚しょうと言われた時は、本当…嬉しかったわ。一生…彼だけじゃなく、彼の音も、手に入れたんだから…」
3人の演奏が終わり、
お客の1人が、ステージに上がった。1曲歌うみたいだ。
演歌だ。
彼らは、カラオケの代わりもする。
音痴はいない。
と阿部が言っていた。
カラオケとは違い、バックが歌う人に合わせて、演奏したらね…。
ただし、音程や歌い方が安定していないと、大変らしい。
確かに、大変そうだ。
歌ってる人は、気持ちいいだろうけど…。
ステージで、生で合わせてくれることは、KKのウリの1つとなっていた。
「彼は…音楽に対して、妥協しない人だった。だから、あんな音を出せたの。だから………そして、出会ったの…彼女と。あたしよりも、才能のある歌手にね」
恵子は、後ろの棚から、
1枚のCDをだした。
安藤理恵。