番外編 煙草の似合う女
ストレートで、流れる川のように、きらきらと輝く髪をなびかせて、
速水恵子は、歩いていた。
高校は、もうすぐ卒業する。
大学進学も決まっていた。
日本は、好景気を迎え、
もうすぐバブルという…夢より、お金が有り余る時代を迎えようとしていた。
音楽は、打ち込みの機械的な音が流行り、
ロックなど、生音が古いとされ、
シンセサイザーなどの音が、未来的だと言われ、フュージョンという音楽も流行っていた。
何となくや曖昧…。
限り無く透明に近いなど…
その曖昧さこそが、未来だったのかもしれない。
恵子もまた…何となく、生きている者の1人だった。
ワイワイ騒ぐ癖に、熱くなることがダサい。
何となく生きていても、
世の中は上向きで、
働く所も、いっぱいあった。
でも何となく…何となくは嫌だから、
自分を持とうとしたけど、
浮かれた世の中は、
楽しげに、誘惑だけを振りまいていた。
誰もが、このままでいられる…
幻想だけ持っていた…
あの頃。
18歳の恵子には、時の過ぎ行く日々など、
気にしては、いなかった。
何となく、誘われたコンパに、恵子はいた。
人々が騒ぐ熱気と、グラスの音。
そして…タバコの匂い。
男達が優しく、女を扱い、
笑顔で誉めている。
(そう…この時代からかしら?)
男は下心を、優しさにかえて、女を口説くようになったのは…。
それまで、高校生だった女達は、
面と向かって、同年代の男にやさしくしてもらったことがない。
それが、コンパなどで会う男は、
まるで、女王様のように扱ってくれる。
それは、嬉しくて楽しいに決まっている。
高校の時より遥かに…恋人ができる確率は、上がる。
「速水さん。飲み物、おかわりする?」
愛想笑いを浮かべる男に、
恵子はタバコをつけ、
ちらっと見、
タバコを吹かす。
笑顔の男の額が、ピクつく。
恵子はゆっくりと、笑顔を見せ、
「まだ大丈夫です」
やんわりと断った。
「あっ…そう…」
男は諦めて、隣にターゲットを変える。
タバコを、奥まで吸い込むことは、できなかったけど、
年齢よりも、大人びて見える恵子は、
タバコにより、さらにミステリアスな雰囲気を、醸し出していた。
別に、愛想が悪い訳でもなく、
逆に、面倒見がよい恵子は、
女子高に通っていたが、人気があり、初めてラブレターを貰うことも、そこで経験した。
モデルでもやらないかい。
と、町を歩いていたら、
声をかけられたこともあった。
コンパにもよく、誘われていた。
女の子は、恵子がいると安心できたし、
男は、恵子を落とそうと必死になった。
そんな時、タバコだった。
あまりにも、様になっている姿は、
男には、容易に近寄り難かった。
恵子が、短大に通うようになったある日。
いつもの土曜日のコンパ。
「ちょっと、変わった所があるんだ。少し高いけど…ボトル入れてるから」
コンパの主催者が、二軒目に連れてきたところ。
大きな木造の装飾が、施された扉を開けると、
飛び込んできた…
生音。
「うわあ〜おしゃれ」
恵子の友達が、感激の声を上げた。
世の中、打ち込みが流行っていたけど、
女を口説く店として、
こういう店が、老舗以外にもできていた。
雰囲気の音楽。
時代遅れとなったジャズや、オールディーズを演奏する店。
恵子達は、あいたばかりのステージ近くに通された。
ジャズというものは、聴いたことがなかった。
いや…
音楽というものを、意識したことがなかった。
曲が終わり、女の歌手がステージを下りると…。
恵子の目線の先にいた細身のスーツを着た男が、にやりと笑った。
恵子とステージは、離れていたけど、
恵子には、その口元の変化がわかった。
男は、トランペットの先につけていたハーマン・ミュートを、外すと、
突然、
オープンで吹き出した。
トランペットの疾走が始まる。
一瞬だけ、すべての観客がちらりと、ステージを見たけど、
すぐに会話に戻る。
hard bop。
恵子には、それが分からなかった。
のちに…ワーキンという曲だと知ることになる。
バラード調でなくなった演奏に、
「うるさいなあ〜」
一緒に来ていた男が、ステージを睨んだ。
恵子は、自分のいるテーブルを見渡した。
(あ…)
恵子は、心の中で呟いた。
(感じないんだ…)
音に耳を傾けない人達。
確かに、無理に聴く必要はない。
だけど…。
恵子は、ステージに目を戻した。
これは真剣で、
まっすぐな心に、訴えかける音だ。
トランペットの疾走を煽るように、
ドラムも疾走する。
「この話うけるでしょ〜馬鹿みたい……って、速水さん、聞いてる?」
隣に座る男が、恵子に話かけてきた。
「速水さん!」
「あ…はい…」
やっと気づいた恵子は、愛想笑いを浮かべ、
そして、徐に、
タバコを取り出した。
静かにタバコを吹かす。
その姿に、男は黙り込む。
恵子は、壁をつくった。
すると、
男は立ち上がり、
「ここ…うるさいから、出ようぜ」
いきなり、席を離れる。
「そ、そうね」
恵子の友達も、席を立つ。
「おい!音、うるせえんだよ」
レジで、男は店員に文句を言った。
恵子は、すぐには席を立たなかった。
「ちょっと!ケイちゃん」
友達が慌てて、恵子に走り寄る。
仕方なく、席を立つと、
恵子は、ステージに振り返った。
演奏は続いている。
口元から、タバコを抜きとると、
恵子は、灰皿にねじ込んだ。
そのまま…前を向くと、
恵子は、歩き出した。
演奏は、唐突に終わった。
店の支配人が、演奏の停止を命じたのだ。
「もっといい所で、飲みなおそうぜ」
後ろ髪を引かれながら、恵子は店を出た。
「次やったら…クビにするだってよお〜。畜生が」
店の裏口から、出てきた健司達。
近くにあったダンボールを、蹴飛ばした健司に、
井守が呆れた。
「仕方ないだろ?ここでの仕事は、ムード音楽を奏でることなんだから…」
「はあ〜?だったら、レコードでもかけてりゃ〜いいだろ!俺達を、雇わなくても!」
健司は、井守に食ってかかった。
「阿呆があ!それが仕事だろが!」
井守も言い返す。
「仕事?こんな、カラオケみたいなことをやるなんて、きいてないぜ」
健司は、井守を睨む。
「隼人!」
井守は、一番後ろにいた武田を叫んだ。
武田は肩をすくめ、
「健司には、説明してないよ」
「な!?」
井守は絶句する。
「こいつに、言ったら…仕事やらねえもん」
武田の言葉に、井守は怒りながら近寄り、
「てめえも、てめえだ!健司と一緒に、熱くなりやがって」
井守は、武田の胸倉をつかんだ。
「仕方ないだろ?あの場合…」
「観客がいたんだ…」
健司は、3人に背を向けて、空を見つめながら、呟いた。
先ほどから、一切口を開いていない原田も、頷いた。
「真剣に、聴いてたお客がいたんだ…。1人だけな」
「観客?何だ、そりぁ?聴いてるやつぐらい、いるだろが」
井守は、呆れながら言った。
「ただ聴いてるじゃない…。魂が、震えてるんだ」
健司は、歩き出す。
「訳わからないことを…」
井守は頭をかき、ため息をつくと、歩き出した。
「健司!今度は、ちゃんと吹けよ!俺らみたいなのが、やれる場所なんて、あんまりないんだからな!」
井守の叫び声に、
健司は振り返り、
「だったら、学校に戻りやがれ!」
「な、何だと!」
怒る井守。
武田は、ため息をつき、
原田は、欠伸をしていた。
彼らは、同じ大学のジャズ研にいた。
今は、ほとんど学校にいっていない。
毎日、音楽を演奏できる場所を探して、歩き回っていた。
音楽を究めるには、人生は短い。
その短い人生を、いかに過ごすのか。
音楽の終わりが、近づいていると、多くの業界人が言った。
確かに、ジャズもロックも死んでいた。
あの帝王さえ、引退して出てこない。
街中に溢れる、打ち込みの音…。
(ありゃあ…商品だ)
芸術ではない。
そう健司達が、大学という揺りかごの中で、思っていた頃、
ある歌手が登場した。
彼女は、挑戦的だった。
世間にも、音楽にも、
自分自身にも。
挑戦的であり、実験的であり、
かつ、革新的である歌手が、売れることはない。
だけど、彼女は違った。
タイミングが、よかったのかもしれない。
実力があっても、売れない天才はいる。
真の天才は、理解されない。
すぐには。
普通の…どこにでもいる天才は、理解される。
まだ理解しやすいから。
彼女は、普通ではなかったけど、
彼女の歌声は、人の意識の下を、触れることができた。
人は、心臓の音を意識しないように、
彼女の歌声は、無意識に、人達を包んでいた。
その歌手の名は、
安藤理恵。
「この歌声が…街に流れてるかぎり、俺達にも、希望がある」
健司は歩きながら、
どこからか流れてくる音に、耳をすませた。
「こいつは天才だよ…。俺達とは、違う…」
井守は力なく、呟いた。
「俺は天才だぜ」
健司は、自分を指差した。
「…俺も…そう思ってるよ…だから…ここにいる」
そう言うと、井守は足を止め、
「だけど…。これが、限界なんだよ。ちょっと演奏して、小銭を貰う。俺達は、カラオケより自由がない!」
井守は、絶叫した。
「本物の音に、本物の観客!学校での発表会みたいな…御遊戯ではなく、本物を!!」
井守の絶叫は続く。
「うおおお!どこにいるんだ!本物の観客なんてよお!ただ女を口説く為の、BGMじゃねえかよ!」
「それがどうした?」
井守の叫びに対して、
健司は、冷たくこたえた。
武田はまた、ため息をつくと、
タバコを吸おうとしたが、
ポケットから取り出した箱には、1本も残っていなかった。
すると、原田がタバコを差し出す。
武田はフッと笑うと、飛び出した1本をくわえ、
原田は、それに火をつけてやった。
「て、てめえ〜」
井守の怒りを、冷ややかに見つめながら、健司は言った。
「俺らがやってる音は、BGMだ」
「健司!貴様。音楽家としてのプライドは、ないんかよ」
井守は、健司に近寄り、胸倉をつかんだ。
「音楽家って…何よ?」
健司は、右手に持った楽器ケースを握りしめ、
「なあ?井守…。アーティストって何よ?」
井守は、自分を見つめる健司の真っ直ぐな瞳に、動けなくなる。
「俺達のやってる音は、世間で流行ってる曲でもねえ。普通の人間は、聴かない音だ!だから…知らない曲なんて、BGMだ!!だけどな」
健司は、井守の腕を取った。
「だからこそ、真剣にやるんだよ!誰かの心に、少しでも訴えるようにな!」
武田と原田は、黙ってタバコをふかしている。
「音楽家?アーティスト!?…そんな言葉の、自己満足なんて、いらないだよ!!」
健司は、井守の手を離すと、
「音楽は、観客がいてこそだ!本物の観客だと!俺達が、本物の観客にするんだろうが!ボケがあ!」
健司はそう叫ぶと、
また前を向いて、歩き出す。
その後ろ姿を、呆然と見送る井守の肩に、武田が手を置いた。
武田はタバコを捨て、
「俺たちゃ…そんな奴らの集まりだろ?」
武田も、歩き出す。
そして、少し振り返り、
「まあ…お前は辛いよな」
すぐに前を向き、右手を上げた。
原田は、欠伸をすると…タバコをくわえながら、歩き出す。
「ケッ!そんなこと…わかってる…」
井守も歩き出す。
「だけど…切ないじゃねえかよ…。俺達の音が…BGMなんてよ…」
少し歩くと、理恵の歌もきこえなくなった。
終電近くの慌ただしい街並みに、
一番似合う音は、車のクラクションと、
行き交う人の足音だった。