包み込む優しさ
和美のピアノに合わせて、
演奏する。
まずは、原田と阿部を録音し、
次に、明日香の歌と啓介のサックスをいれる。
何度も、やり直す訳にいかない。
ワンテイクで終わらす。
その覚悟で録音した。
その後、和美と明日香だけのトラックも録音する。
できたのは2トラックだ。
これを、シングルとしてリリースする。
啓介は、レコード会社に電話した。
発売を急いでほしいと。
電話が終わった後、
明日香は、もうワンテイク録音したいと申し出た。
今回は、アメリカでもリリースする為、シンプルな英語の歌詞にした。
でも、明日香が最初に書いたのは、日本語だった。
日本語で歌いたいと。
時間はなかったが、
明日香の決意の固さに、気づいた啓介は頷いた。
勿論ワンテイクだ。
明日香は、録音ルームに1人入った。
トランペットを持って。
ストレート・ミュートをつけて、和美の奏でるイントロに合わせる。
まっすぐで、何のテクニックも使わない素直な歌い方で、明日香は言葉を紡ぐ。
優しさの言葉を。
言葉を伝えたいから、1つ1つ丁寧に歌う。
抑揚がないと、誰かに言われた。
感情の高鳴りは、トランペットで表現したらいい。
クールな歌声に、少しホットなトランペット。
阿部が、感嘆の声を上げた。
「これが…明日香ちゃん…か?…素晴らしい」
啓介は、黙り込んでいた。
明日香が、録音を終え、
ブースから出てくると、
「いつの間に、うまくなった!最初から、やり直したくなったぞ。畜生!」
と言うと、明日香を抱きしめた。
みんながいるから、恥ずかしい。
「時間がないから、仕方がない。ライブの時、アレンジを変えるぞ」
3曲入りのシングルは、出来上がった。
タイトルは、YASHISAになった。
日本語でシンプルに。
このシングルを持って、啓介は旅立った。
啓介だけでなく、阿部達もいっしょに。
明日香だけ、遅れていくことになった。
準備があったのだ。
明日香は、しばらく暇になるメンバーを、タブルケイに呼び、
音合わせをさせた。
店は恵子と、いつも手伝ってくれる亜希子が来ていた。
最近まで知らなかったが…亜希子は、恵子の妹だった。
亜希子がいるから、阿部はアメリカにいくことができた。
バンド仲間に、説明していると、
勢いよく扉が開き、
懐かしい顔が、飛び込んできた。
「明日香!」
飛び込んできた人物に、
明日香と恵子は驚いた。
「里美!」
今や一端のドラマーになり、
明日香脱退後、
女の子だけのバンド…ペパーミントのリーダーとして、活躍しているはずの…里美。
「どうして!あたしに、声かけないのよ」
里美は、明日香に詰め寄った。
「ミュージシャンが、必要なら〜最初に声をかけるのは、あ☆た★し☆だろ」
申し訳ないけど、
里美の顔は浮かばなかった。
大体。
「大体!里美の活動場所は、ここじゃなくて、大学の…」
「シャラップ!」
里美は、明日香の言葉を遮ったが、
遮り方が、イマイチどころではない。
「あたしの活動範囲は、無限よ」
(あたしの…?)
明日香は、眉をひそめた。
1人称がおかしい。
「つまり、バンドのメンバーをやめたと」
明日香の言葉に、
里美は、明日香に抱きついた。
「おお友よ。それ以上は、いうべきではない。例え…真実であったとしても」
(何の小芝居よ)
明日香は、里美を突き放した。
「何よ!その反応!ひどいじゃない。傷心のあたしを」
「うざい」
明日香は、里美にはきつかった。
「ママあ」
泣きつく対象を、恵子に変えた。
恵子は、肩をすくめた。
「仕方ないがないわね」
里美は、恵子にすり寄る。
「メンバーとケンカしちゃって…行くとこがないんです。しばらく、ここに置いてください」
明日香は、里美を恵子から引き離す。
「ママ。役立たずは置いたら、だめです」
「役立たずとは、失礼な!親友に向かって!」
「ドラマーだけいて、どうするのよ!」
「あっ!バンドをやってる人の中で、どれだけドラマーが、貴重なのか知ってるの!」
本当に仕方なく、
里美は、ダブルケイでアルバイトすることになった。
明日香は呆れながらも、
里美が入ったことで、店が明るくなったことは喜んでいた。
LikeLoveYou。
慣れない場所ながらも、
さすが、啓介が組んだメンバーだ。
そつなく演奏をこなしていた。
明日香は、お客さんのリクエストで、ステージに上がることはあったが、
大体は注文をとったり、ホールの仕事に追われていた。
恵子がドリンクとカウンターを、亜希子が厨房を、
里美は、洗い物をしていた。
あっという間に、営業が終わる。
電車の時間がある為、
亜希子と里美は、早めに店を出た。
明日香は、電車で帰ったり、阿部に車で送ってもらったりしていた。
バンドメンバーを見送ると、もう時間がなかった。
恵子は、帰っていいと言ってくれたけど、まだ片付けが終わってない。
タクシーで帰ろうと覚悟した時、
恵子が言った。
「ここに泊まろか?」
恵子も、阿部に送ってもらっていた。
車はあったが、
今、運転するのは危なかった。
お客さんに飲まされたのもあるが、体によくなかった。
もともと住んでいたし、たまに疲れた時は、泊まっていた。
店ができた時、二階は…恵子と健司の新居だった。
明日香はコクッと頷くと、素直に泊まることにした。
片付けが終わり、
明日香はステージを眺めた。
誰もいないステージ。
明日香が、歌手として、トランペッターとしても、
初めて立ったのは、この場所だった。
「明日香ちゃん。上いこうか」
恵子が、カウンターから出てきた。
明日香はじっと、ステージを見つめている。
「明日香ちゃん?」
明日香は、振り返った。
恵子を見つめ、
「ママ…歌手ってなんだろ?歌うって、どういうことなんだろ」
明日香の言葉は続く。
「あたし…ママみたいに、歌いたかった…。でも、無理だったわ。あたしはあたし…あたしにしかなれなかった…。せめて、ママと健司さんのような感じを、あたしなりに表現したかった。でも…」
恵子は静かに、話を聞いている。
「和美さんに出会って、歌うことの厳しさを知った。理恵さんからは、恐ろしさとやるせなさ…才能や、それ以上を求めていく貪欲さ…あたしにはできないこと…」
明日香は、ぎゅっと手を握り締めた。
「あたしには…何かを捨てることも、何かを背負って歌うことも…できない。ただ、歌うことしかできないの!」
恵子は、明日香に近づき、
明日香の頭を抱きしめた。
「何かを捨てることも、何かを背負うことも…する必要はないのよ」
恵子は、明日香の顔を見つめた。
「みんなが捨てたり、背負ったりするのは…ただ歌うということが、できないだけなの」
恵子は、少し遠くを見つめた後、
「ただ歌うこと…それが、どれだけむずかしいことか…」
恵子は、明日香に微笑む。
「明日香ちゃんは今…あたしの為に、ここにいてくれる。あたしの体調が、悪いから。かずちゃんや啓介の為に、アメリカにいこうとしてる…そんなしがらみを、あなたは背負っているわ」
「あたしは、ママに教えてもらったの!トランペットも、歌も!それなのに、あたしは何も…お返しをしていないわ」
恵子は首を横に振り、
「もう十分返してもらった…。あなたに、トランペットを押し付けたのは、あたし。あなたは、立派になったわ。もう…教えることもない。1人の歌手の誕生から、成長を見てこれただけでも…幸せよ」
「ママ」
明日香は泣いていた。
「泣き虫なのは、変わらないわね」
恵子は、もう一度明日香を抱きしめ、
「どんなことがあっても…あたしはただ、歌ってるだけと言えるあなたは、本当の歌手よ」
恵子は、幸せだった。
「捨てる必要もない…背負う重さも、苦痛に感じない…明日香ちゃんの優しさは、とても大きいのね」
「優しくなんてないです…。ママの方がずっと優しい…」
明日香のすべてが、
恵子には愛しい。
「見せつけてやりなさい。何かを捨てたり、背負わなければ、歌えないという奴らに!日本人は、歌えないという者たちに、あなたのまっすぐで…素直な優しさを」
恵子の言葉。
それは明日香の中で、
永遠に大切な言葉となる。