変わりゆく日常と...心の奥
夕陽の中で、
少年は、限りなく綺麗だった。
でも、
どうして…
あたしのことを知っていたのだろう。
それとも、いつも放課後に、こんなところにいるから…目立っているのだろうか。
明日香の疑問を、かき消すかのように、
チャイムが学校中に、響き渡った。
それは、部活の終了を告げる合図でもあった。
少年はちらっと横目で、練習をやめるサッカー部を確認すると、ため息とともに、
「どうやら…あなたも僕も…終わりのようだね」
「で、でも」
明日香は、少年に一歩、近づこうとした。
「明日香あ!」
近くから、里美の叫び声が聞こえた。
「里美…」
明日香が、声がした方に振り返ると、
少年は肩をすくめ、寂しげな笑みを浮かべた。
どうやら、里美が迎えに来たみたいだ。
「あ、あのお…」
明日香は、バツが悪そうに、少年を見た。
少年はニコッと、微笑むと、
「友達が来たんだね…仕方がない。また明日、ここで会おう」
「でも…」
そんな約束…。
あなたが、誰かもわからないのに、
できないと、明日香は言おうとしたけど。
「明日香!いるんでしょ」
里美の声は、すぐ近くまで迫っていた。
「明日香あ!」
うるさいくらい何度も、里美は叫ぶから、
仕方なく…
声がする方に、行こうとして、明日香は、体を反転させる。
だけど、気持ちは気になって、顔だけが、少年の方を向いていた。
「あのお…あなたのお名前は…」
「名前…?」
少し驚いたような表情を浮かべた少年は…、
唇を噛み締め、戸惑いの表情に変わった。
風が再び、2人の間を強く吹き抜けた。
髪が舞い上がり、頭を明日香が押さえた時、
少年は呟くように、口を開いた。
明日香には、聞こえなかった。
「え…」
聞き返す明日香に、
少年は目をつぶり、少し考え込む。
そして、ゆっくりと目を開け、まっすぐに明日香だけを見て、
「裕也。ゆうでいいよ」
ゆうはそう言うと、
ゆっくりと、明日香から離れた。
「明日香!いるんでしょ」
痺れを切らした里美が、階段を駆け上がってくるのが、音でわかった。
グラウンドから、直接渡り廊下にのびる階段は、南館への出入り口のすぐそばにある。
息を切らしながら、上がってきた里美の姿を認めて、
明日香は慌てて、妙に取り乱す。
「ご、ごめんなさい!ちょっと、話し込んじゃって…」
里美は、キョトンとした。
「誰と?」
「誰って…後ろにいる…」
明日香は、振り返った。
だけど、
そこには、誰もいなかった。
「階段上がる時から、見てたけど…あんた、1人しか見えなかったけど」
里美の言葉に、明日香は絶句した。
さっきまで、ゆうがいた場所。
今はただ…
沈みかけた夕陽が、照らしているだけだった。
ゆうはもう、いなかった。
渡り廊下からの階段を下りながら、
明日香は一度足を止め、振り返り、見上げた。
やはり、いない。
いつのまに、消えたのだろうか。
先に、里美が下についた。
そこは、グラウンドと中庭の間のコンクリート。
階段を下り、渡り廊下の下には、水飲み場がある為、必ず部活を終えた生徒が使用していた。
グラウンドの方から、練習を終えたサッカー部が、やってきた。
当然、取り巻きも周りにいた。
特に、高橋の周りには。
近づいてくるサッカー部に気付き、
里美の足が止まった。
足を止めた里美は、俯きながら、明日香が下りてくるのを待つ。
取り巻きの中には、麻里亜もいた。
里美は体を強ばらせ、
けっして顔を上げない。
下を向き、自分の足元しか見ていない。
そんな視界の中に、
ワインレッドのスニーカーが、飛び込んでくる。
「あらあ〜。有沢さんじゃない」
里美の耳元…至近距離から、声をかけられた。
知っている声だ。
里美はがばっと、顔を上げた。
「こんな時間までいるなんて…珍しい」
里美の目の前に、不敵な笑いを浮かべた麻里亜がいた。
麻里亜は偉そうに、腕を組み、里美を見下ろしている。
「雪野…」
里美の顔色が変わる。
さっきまでの、どこか恥じらっていた里美と違い、いつもの勝ち気な里美になる。
麻理亜は、そんな里美を無視して、顎を上に向けた。
笑みは絶やさずに、
「あらあ〜香月さんも。今日も、いつもの場所で、御観覧で〜」
明日香は、下りる足を止め、麻里亜を見た。
麻里亜はクスクス笑い出し、
「香月さんも…。サッカー部の練習を、観たいんでしたら〜。近くで、あたし達といっしょに、観たらいいのに」
麻里亜は、すぐ後ろにいる取り巻き仲間に、振り向き、
「ねえ〜皆さん!」
「そうよねえ〜」
嫌みぽい麻里亜の言い方に、他の取り巻きも、大袈裟に頷く。
麻理亜はニャッと笑い、大袈裟に何度も頷いた。
「てめえ!一体、何が言いたい!」
里美は、麻里亜に食ってかかろうとするけど、
麻里亜は、そばをすり抜けた。
そして、階段の前に立つと、麻里亜は、階段の中段くらいにいる明日香を睨んだ。
「あまり遠くから、ストーカーみたいに見られてると…迷惑なのよね」
「え?」
思いも寄らない言葉に、明日香は思わず聞き返した。
「わからないの?それとも、自覚してないのかしら?」
麻里亜は大袈裟に、肩をすくめ、
「これだから…ストーカーは嫌よね」
麻里亜は、明日香を睨み、
「迷惑なんだよ!あんな所から見られたら、高橋君の練習の邪魔になるんだよ」
麻理亜の言葉に、
里美の怒りは、頂点に達した。
里美は振り向き、後ろから、麻里亜の肩を掴んだ。
「てめえ!何、言いがかりつけてんだよ!明日香は、ただ動きを、観察してるだけだ!ストーカーじゃあねえよ」
里美は無理やり、腕を引いて、麻理亜を自分の方に向かせる。
麻理亜はジロッと、里美を睨んだ。
「あなたに、言ってませんわ」
「てめえ。いい加減にしろよな」
里美と麻里亜は、睨み合う。
だけど、すぐに、
麻里亜は吹き出した。
これ以上ないくらいに、笑い転げる。
「な、何がおかしい!」
麻里亜の胸倉を掴もうとした里美の手を、逆に掴んだ。
「ねえ〜有沢さん」
麻理亜は、楽しくてたまらないみたいだ。
凄んでみようと、笑うことを抑えたけど、口元の笑みは消えない。
「あなたが…高橋君のこと好きなのかしら?」
「え」
絶句する里美。
胸倉を掴もうとしていた手の力も、弱くなった。
麻里亜は、掴んだ手で、里美の手を振り解いた。
里美の反応に、
麻里亜の笑みは、止まらなくなる。
「あら?図星かしら」
顔が、真っ赤になり、動けなくなった里美に、
麻里亜は、追い討ちをかけた。
「皆さん〜有沢さんは、高橋君が、好きみたいです」
その声に、取り巻きが一斉に、
「ええ!!」
と大袈裟に、驚く。
麻里亜は、うんうんと何度も頷き、
「そうですよね〜。男みたいな癖に…生意気なんだよ!」
麻里亜の言葉をきいた瞬間、
里美は、その場から走り出した。
「里美!」
明日香は急いで、階段を駆け下りたけど、
里美は、渡り廊下の下をくぐり、一目散に走り去った。
「あら!逃げた!」
麻理亜の馬鹿にしたような言葉に、取り巻きが爆笑する。
明日香は、走るのをやめ、麻理亜の前に立つ。
麻里亜は、そんな明日香を思いっきり睨む。
「何か…文句でもありますの?」
パチン。
激しい音がした。
一瞬にして、周りの笑いが凍り付く。
明日香が、麻理亜に平手打ちをしたのだ。
「な…」
痛みより、今起こったことが、信じられないように、目を見開く麻里亜に、
明日香は一言、こう言った。
「最低」
麻里亜を睨む明日香の迫力に、気負とされ、
麻理亜は言葉がでない。
下手に何か言ったら、もっと殴られる。
普段温厚な明日香からは、感じられない……激しい殺気。
麻里亜は、無意識に後退った。
明日香は一気に、振り抜いた手を下ろすと、
もう麻里亜たちには、目もくれずに、駆け出した。
勿論、里美の後を追う為に。
渡り廊下をくぐり、右に曲がると、長い直線の道が、正門まで続いている。
里美は、もう正門を通り、学校を出たみたいだ。
明日香は、全力で走った。
正門を走り抜け、
左に曲がり、駅へと向う一本道を、ただひたすら走る。
駅までは、300メートル。
明日香は走りには、自信があった。
右側に並んだ家屋を越えると、マンションの3階位の高い土手があり、
そこから、風が強く、吹き抜けてくる。
風に髪がなびき、セットが乱れようが、今の明日香には、関係なかった。
夕陽はもう沈んだ。
辺りは、すぐに暗くなってきた。
踏み切りが見えてきた。
閉まっている。
いつも嫌いなこの音も、今日は救いの音に聴こえた。
ここの踏み切りは、開かずの踏み切りとして、有名だ。
いた。
まだ、踏切を渡れない里美が、遮断機の前に立っていた。
「里美!」
やっと里美に、明日香は追い付いた。
息を切らしながらも、明日香は反射的に、里美を
抱き締めようとする。
だけど、
明日香の手を、里美は擦り抜けた。
「里美…」
踏み切りが、ゆっくりと開いていく。
俯いたまま、里美はとぼとぼと歩きだす。
その隣を、心配そうに、里美の横顔を見つめながら、明日香が歩く。
里美は無言で、踏み切りを渡り切った。
後ろで、また踏切が鳴りだし、ゆっくりと閉まっていく。
閉まり切る前に、里美は足を止め、
明日香の顔を見ずに、話しだした。
「好きじゃないよ」
里美は下を向いて、俯いたまま、呟くように話し出す。
「好きじゃないから…大丈夫だよ。心配しないで…明日香」
そう言うと、里美は自分に言い聞かすように、深く頷き、
今度は、早足で歩き出した。
「心配しないでって…心配するよ。あんなこと言われたんだから」
後を追いかけようとする明日香に、
里美は歩きながら、
「だから、心配しなくっていいって。あたしは、大丈夫だから」
妙に真剣で、思い詰めた顔で、何度も頷く里美。
「全然大丈夫じゃないよ」
追いかけてくる明日香に、
里美はいきなり、足を止めて、振り返った。
もう駅の改札近くだ。
切符売り場の前まで来て、
里美は叫んだ。
「好きじゃないから!高橋君なんて…あたしは!」
「里美?」
里美は、泣いていた。
泣きながら、叫ぶ。
「あたし…親友が好きな人を、好きになんてならないから!心配しないで」
「何言ってるの…」
里美の手を掴もうとしたけど、
振り解くようにして、改札に消えていった。
追い掛けようとしたが、
定期を出すのに、手間取ってる間に、電車は来て、
里美が飛び込むと…ドアが閉まった。
「里美」
無情にも、電車は出た。
明日香は初めて知った。
里美の気持ちを。
そして、誤解していることを。
あたしは…誰も好きじゃない…。
誰も。
そう思ったとき、
心の奥が痛んだ。
明日香は、胸を押さえた。
あたしは、
高橋君のことは好きじゃない…。
「香月さん!」
1人ホームの端で、立ち尽くす明日香に、
誰かが後ろから、声をかけてきた。
明日香は振り返った。
そこにいたのは、優一だった。
優一は、もう見えなくなった電車が向かった方を見つめながら、
「どうかしたの?有沢さん」
明日香にきいた。
「何でもないです」
明日香は、素っ気なく答えると、優一を無視して、このホームから、去ろうとする。
明日香の電車は、隣のホームに来るからだ。
「雪野さんは、連れていかれたよ」
優一は、明日香の背中に話しかけた。
「え?」
明日香は、立ち止まった。
「きみ達が去った後。サッカー部の男の子と、雪野さん達がもめているのを、誰かが通報したらしい。生徒指導の先生が来て、連れていかれたよ」
優一は、ゆっくり明日香に近づく。
「きみ達は、大丈夫だと思う。心配しないで」
優一は、そっと明日香の肩を叩こうとした。
けど、寸前でやめた。
優一は、明日香のうなじを見つめ、
すぐに顔を背けると、叩こうとした手を握り締めた。
「じゃあ。気を付けて」
優一は、明日香に背を向けて、今滑り込んできた里美と同じ線の電車に、乗り込んだ。
明日香は電車が発車し、通過するのを、横目で感じながら…ぼそっと呟いた。
「心配するわよ」