意志を継ぐ者
和美が、賞を取る少し前。
夕陽の中、
明日香は、歩いていた。
目の前に、大きな建物が広がる。
市民病院。
明日香は、誰もいない長い待合室を抜けると、奥にあるエレベーターに乗り込んだ。
12階で降りると、
ある部屋に入った。
「おはよう、明日香ちゃん。毎日、来なくていいのに」
ベッドの上に、
いつもの笑顔の恵子が、迎えてくれた。
だけど、ここはダブルケイではない。冷たい病院だ。
恵子は笑顔のまま、少し明日香から視線をそらした。
「少し疲れが、たまっただけだから。明後日には、退院できるわ。だから…あんまり心配しないで。早く店に、戻らないといけないし」
明日香は、持ってきた花を花瓶に飾った。
綺麗な赤い花。
「ずっと、休みなく働いてきたんだから…たまには、ゆっくりして下さい」
「ゆっくりしてるわよ。もう音楽を教えなくちゃいけない…」
恵子は、明日香を見、
「泣き虫さんは、いないし」
「もう泣き虫じゃないですよ」
明日香の言葉に、恵子はクスッと笑うと、
「そうね…もう昔の話ね」
恵子は、お茶をいれる明日香の姿を見つめた。
明日香は、お茶を恵子に渡した。
「啓介とは、うまくいってるの?」
「はい」
屈託のない明日香の笑顔。
「よかったわ」
恵子は、お茶をすすり…ほおっと息をついた。
明日香は、なぜか…恵子の姿に陰を感じ、
話を変えた。
「もうすぐ、和美さんの発表ですね」
恵子は、少しため息をついた。
「何もなければいいけど…」
明日香は驚き、恵子を見た。
恵子は、お茶を置いた。
「あの子は、理恵さんに似てるから…」
夕陽が沈みかけ、
最後に、さらに赤く輝く。
恵子の横顔が、赤く染まる。
「音楽を…この国だけでやろうと思わず…あの国を目指す者は…必ず、あることを、思い知らされるの」
恵子は、前を見…虚空を見据え、絞りだすように言った。
「人種の壁よ。今の世の中に、溢れてる音楽は…ほとんどすべて、黒人や白人がつくったものよ」
窓の向こうの夕陽が、沈んでいく。
「どんなに、理恵さんや…かずちゃんが、素晴らしくても…彼女達は、オリジナルとは思われない」
恵子の向こうに、夜の闇が訪れる。
「言葉の壁より、人種の壁は、とても厚いのよ」
明日香は眉を寄せ、
「和美さんは…賞を取れないと」
恵子は首を横に振り、
「多分取るわ。だけど…快く、思わない人もでてくる」
「あんなに、人気があるのに…」
恵子は、首を横に振り、
「普通の人じゃない。ミュージシャンよ。ミュージシャンは、嫉妬深いの」
「そうですか。あたしの周りは…!?」
恵子が、明日香を真剣な目で、見つめていた。
息を飲む明日香。
「あなたはまだ…自分の足で、歩き出したばかり…それに、啓介がそばにいる。ミュージシャンの目が、啓介だけに向いてるかぎり…大丈夫だわ」
恵子は、明日香の手を取り、
「気をつけて、明日香ちゃん」
明日香は、笑顔を恵子に向けた。
「気をつけます。ママ、ありがとう」
日差しが眩しくなり、
紗理奈は、ベットから抜け出そうとしたけど、
隣で、寝ている男が邪魔だった。
足で、思いっ切りどかす。
裸の男が、ベットから落ちた。
ベットから起き上がると、
紗理奈も裸だった。
セックスはいい…没頭してると、嫌なことが忘れられる。
だけど、今回は空っぽにならなかった。
体が汚れてる気がしたけど…それでいいと、
紗理奈は、Tシャツを着た。
空気を変えようと、おもむろにテレビを付けた。
ニュースが流れる。
和美が殺されたと…。
グラミー賞を取った5日後のことだった。
犯人は、ミュージシャンだった。
最近、某有名バンドを首になっていた。
それにより、
自分は、仕事がなくなったのに、
日本人の和美が、活躍していることが、
許せなかったのだ。
紗理奈は、テレビの画面を見つめ…しばらく動けなくなった。
すると、裸の男は、立ち上がり、
後ろから、紗理奈を抱きしめた。
「へえ〜殺されたんだあ。まあ、別に、俺には関係ないけど。勝手に、死んどけって感じ」
男は、さらに絡みついてくる。
「なあ〜もう一回やろうぜ」
キスしょうとする男を、
紗理奈は振りほどくと、
「出ていけ!」
紗理奈は、裸の男を力ずくで、外に出した。
服を投げつけると、ドアを閉めた。
紗理奈は、茫然自失になり、ベットに倒れ込んだ。
あの日。
煌びやかな照明の中で、歌う和美に憧れ、
せめて、あの場所に立ちたいと、
手を延ばしてきたのに…
もう届かない。
あたしは、どこに向かえばいいの…。
教えて…
ゆう。
明日香はニュースの前に、
啓介の電話で、和美の死を知らされた。
啓介は仕事から戻ってきており、ダブルケイに帰っていた。
明日香はショックで、しばらく人が行き交う交差点で、立ち止まってしまった。
信号の点滅と、車のクラクションで、目を覚まし、何とか歩くことができた。
恵子の心配をきいていたから、どうにか意識を保てていた。
それでも、意識を強くもたないと、崩れそうだ。
「今日は…今から、バイト入ってるから、マスターが遅いし…すぐには、そっちにはいけないわ」
「明日。俺は、アメリカにいくよ。今…肉親は、俺しかいないから」
啓介の言葉に、交差点を渡り切った瞬間、足を止めた。
「明日?」
「明日だ。だから、母さんの退院をよろしく頼むよ。いきたいんだけど…。母さんが、急いでアメリカに、迎えに行けと…いうから」
「わかったわ。気を付けて」
明日香は動揺から、何度も頷くと、携帯をしまい、店に向かう。
悲しむ暇もなかった。
明日香は、Evilにいくために、エレベーターに乗った。
「待って下さい」
誰かが、エレベーターをとめて、滑り込んできた。
「あら」
明日香が驚いた。
「紗理奈さん!」
紗理奈も驚いた。
「明日香さん?」
エレベーターが閉じる。
二人っきりの空間となる。
「今日は、お一人…なんですか?」
紗理奈は、視線を外し、
「いつも一人よ」
エレベーターが開いた。
「今日…マスターが来てないんで、準備…まだ何です…」
慌てて、店の鍵をあける明日香。
「いいよ、待ってる」
紗理奈は扉の近くで、壁にもたれた。
しばらくして、
明日香が、店から顔を出した。
「お待たせしました。どうぞ」
紗理奈は、店内に入った。
タバコに火をつけ、
紗理奈は、カウンターに座る。
「明日香さんって、何歳なの?」
二人だけの店内に、タバコの煙が漂う。
「今は、20歳ですけど、もうすぐ21になります」
「あたしが、20歳になったばかりだから…1つ上ね」
明日香は、コースターの上にビールを置いた。
音楽が流れ出した。
エリスレジーナの“イン・ロンドン”
和美にもらったCD。
「今、かかっている曲…和美さんに似てる」
吸う手をとめて、思わず呟いた紗理奈に、
明日香は反応した。
「河野和美さんですよね。あたしも、似てると思いました。歌い方とか、声は違いますけど…雰囲気がそっくり」
「あんた、和美さんを知ってるの?」
明日香は頷き、
「このCDも、和美さんから頂きました」
もう遠い昔の話のように、明日香には感じられた。
紗理奈は一気に、
ビールを飲み干すと、
またおかわりを頼んだ。
明日香は、新しいグラスに、ビールを注ぐ。
「ニュースを見て、ショックだった…。生きる目標がなくなったみたいな…」
紗理奈は、サーバーから注がれるビールを、じっと見つめた。
そして、いきなり席を立った。
「あんたも、歌手なんだろ!どうしたら、ああいう風になれる!どうしたら、歌手になれる!どうしたら、あのキラキラ輝いたところに、いける!」
紗理奈のぶつけるような激しい問い掛けに、
明日香は静かに、目をつぶり…
考えた。
そして、
おもむろに口を開いた。
「あたしは…和美さんの足元にも及ばないので、わかりませんが…ただ歌をうたいたいなら…方法は、たくさんあります。バンドを組むとか…」
「あたし、バンドは無理!人間関係うざいし」
紗理奈は座ると、きっぱりと言った。
「じゃあ…ギターで、弾き語りとか」
「楽器できない。カラオケしか歌ったことがない」
明日香はまた、考えた。
「やっぱり…ギターと歌がいいですね。紗理奈さんが歌で、ギターはゆうさんで!」
ゆうの名前がでて、紗理奈は驚いた。
「なんで、ゆうなんだ!」
「だめなんですか?」
「……まあ、でも…ちょうどよかった!」
紗理奈は、グラスを置き、
「あんた!ゆうをどう思ってるの!あいつは、あんたに、会いに来てるんだろ」
明日香は目を丸くし、
「来てましたけど、それは…あたしに相談してたから…」
明日香は、ちょっと言いにくそうな顔をする。
「相談!?何を相談してたのよ」
明日香は、紗理奈の顔を見…静かに頷くと、話しだした。
「紗理奈さんのことですよ。歌好きみたいだから…何を、オススメしたらいいのかとか」
今度は、紗理奈が驚いた。
「え?」
「あたしが、音楽にくわしいからって」
紗理奈の頭に、自慢気に説明する優一が浮かんだ。
(あいつの知識じゃなかったのか!)
「いつも何をきかせたらいいのか…悩んでましたよ」
(あいつがあたしの為に)
その時、店の扉が開いた。
「噂をすれば…」
明日香の笑顔。
店に入ってきたのは、
ゆうだった。
一瞬、
足を止めて、入るのを躊躇った。
しかし、
覚悟を決めて、ゆうはカウンターに向かった。
紗理奈と、少し離れて座った。
「どうして、離れるんですか?」
明日香の質問に、狼狽える優一。
すると…いきなり、紗理奈が、席を立った。
そして、
優一の隣に座った。
びっくりする優一。
「明日香さん。ゆうさんにビールを…あたしのおごりで!」
優一はさらに、驚いた。
紗理奈は、優一の方を体を向けた。
そして、素直に頭を下げた。
「この前は、ごめんなさい。なんか…一方的に、切れちゃって…」
「もういいよ」
紗理奈は、こちらを見ようとしない優一の横顔を見つめ、
視線を、前に置いてあるビールに移した。
「あたしが、目標にしてた人が死んじゃって…。どうしたらいいのか、途方にくれてたら…思い出したの…あなたのこと」
視線は、グラスのままだ。
「だから、今日ここに来たの…。あなたに会えるかなと思って…」
「彼氏がいるんだろ」
優一の声は冷たい。
「もういないわ」
「いい加減だな。彼氏と別れたから、俺かよ」
「彼氏じゃない。好きじゃなかったし…」
「誰でも、いいんじゃないか!」
優一が叫んだ。
叫んだ後、
明日香が、いることに気づき、口をつぐんだ。
「そうよ。あたしは、いい加減な女。だけど」
紗理奈の目に、涙が溜まる。
「それを、なおしたいの!ちゃんとしたいのよ!でも…1人じゃどうしたらいいのか…わからないのよ!どうやったら、普通になれるか……わからないのよ!」
紗理奈の言葉から、
しばらく時が止まる。
優一は黙って、ビールを一口飲む。
そして、ゆっくりと顔を、紗理奈に向け、
「わかったよ。また友達から始めよう」
優一は頭をかく。
紗理奈が頷く。
明日香はそっと、CDを変えた。
マイルスディビスのワーキンだ。
ピアノが転がり、マイルスのミュートが限りなく優しい。
「あっ!まるで香月さんのペットの音みたいだ」
優一が思わず、口に出した。
「嬉しいですけど…こんな音、あたしには出せません!先生」
「先生はやめてくれ」
明日香と紗理奈は笑った。
優一は、教育実習を終えてから、なぜか、音楽が恋しくなり…
ギターを練習し始めていた。
あれから3年以上。
「まだ、2曲しか弾けない!?」
紗理奈は思わず、声を荒げた。
「仕方ないだろ。一人で部屋で弾くだけだから」
一曲は、エリッククラプトンのチェンジ・ザ・ワールド。
もう一曲はUAの情熱だ。
UAの理由は、
紗理奈が歌ってたから。
「最近じゃない!」
紗理奈はあきれた。
二人は笑い合った。
こうして、
二人は、ユニットを組むことになった。
Evilを後にし、二人は夜の街に出た。
少し前を歩く優一に、
紗理奈は声をかける。
「どうして、情熱を練習してたの?」
優一は振り返り、
「言っただろ。歌を聴いて、感動したからって」
「どうして…気にかけるの?」
「いっしょに音楽…できるかなと。せめて、ステージの上くらいは、連れて行ってあげようと」
「どうして…あんなに冷たくしたのに」
「さあな」
優一は前を向いた。
「あたしのこと…好きって訳でもあるまいし…」
「どうだろうな」
優一は走り出す。
慌てて、追いかける紗理奈。
「もし、そうだとしたらあ!いろいろやりようがあっただろ」
「でも、今は友達からだ」
優一は笑う。
「ねえ?好きなの?」
二人はじゃれあいながら、第1歩を踏み出した。
踏み出したばかりだ。
二人が帰った後、
明日香はもう一度、エリス・レジーナをかけた。
和美本人のアルバムをかけたら、
仕事には、ならなくなるだろう。
マスターが来たため、
明日香は、終電前に帰ることになった。
電車を乗り継ぎ、家に帰る。
短大を卒業し、実家に戻ってきていた。
家に着くと、荷物が届いていた。
アメリカから。
和美からだ。
日付を見ると、グラミーの前日だ。
中を開けると、
テープと手書きの楽譜と、手紙。
明日香は、手紙を読んだ。
(親愛なる明日香ちゃんへ。書かないといいながら、曲を書いちゃった)
(だから、あなたに、この曲の詞を、書いてもらいたいの)
(あなたと、初めてのコラボになるわね)
(次のアルバムに、絶対いれるからね)
明日香は、手紙を持ったまま…その場で、泣き崩れた。