第3部 Singer's Dream
どこまでも続く海岸。
青い空。
覚えてるのはそこまでだった…。
気がつくと、闇の中…
ほんの小さな灯りに、暖かな毛布に包まれていた。
体を起こすと、灯りの向こうに老婆と、小さな子供がいた。
子供は、老婆にしがみつきながら、じっとこちらを見ていた。
「気がついたかい?」
老婆はそう言うと、椅子から立ち上がり、別の部屋に消えていった。
子供はまだ、こちらを見ていた。
和美が微笑みかけると、
子供は照れたように、老婆の消えた方に、走っていった。
「ここは…」
和美は、ベッドの上にいた。
横にある小窓から、空をみると、
日本とはちがう星空が、広がっていた。
「海岸近くで、倒れておったんじゃよ」
老婆は暖かいスープを持って、戻ってきた。
和美のお腹が鳴った。
「お腹が、すいとるじゃろ。行き倒れなど、久々に見たわ」
和美は、老婆の言葉を何とか理解できた。
フランス語…少し訛りがある。
和美が遠慮していると、
「早く食べんと冷めるよ」
老婆の優しい眼差しに、
和美は、手を合わせると、スープをいただくことにした。
老婆の後ろから、子供が出てきて、和美がスープを飲む様子を見守っている。
老婆は、子供の頭を撫でた。
「この子が、あんたを見つけたんだよ」
和美は、スープを飲む手を止めて、子供に微笑んだ。
「ありがとう」
真っ赤になって、子供はまた…老婆の後ろに隠れた。
「あんたは…中国人じゃないねえ…」
老婆の質問に、
食べ終わったお皿に、また手を合わせてから、和美はこたえた。
日本と。
「日本!…そりゃあ、遠い国だねえ」
和美はもう一度、窓から星空を見上げた。
確かに遠いわ。
「何しに、こんなところまで来られたんじゃ?」
「歌を歌いに…」
「歌?」
和美は頷いた。
「どうして、こんな土地に、歌を歌いに?日本には、歌うところがないのかい?」
「いっぱいあります。でも、自然の中で歌いたかったんです」
密封されたライブハウスや、舗装された道路の上ではなく、青空と土の上で、歌いたかった。
日本は音楽など、カルチャーに関しては、開かれた国ではない。
音楽もどこか産業…金のにおいが強かった。
有名になりたいとか、金持ちになりたいとか、成功したいとか、
元来、歌うこととは、関係ないはずだ。
和美は歌手としての、本来の姿を求め、
日本を出て、この土地に来た。
何も持たず、声だけで。
でも、
(行き倒れてる場合じゃないわ)
和美は、ため息をついていると、
「一曲、歌ってくれんかのう」
突然の老婆の頼みに驚いた。
「もう夜だから、静かな歌がいいんじゃが…無理には言わん」
和美は目をつぶり、静かに息をして、この土地の空気を感じる。
やがて、
和美の喉から発せられた歌は、
美空ひばりのりんご追分だった。
ジャズやロックは、出てこなかった。
日本語の歌。
自分でも驚いたけど、この土地の空気が、この曲を歌わせた。
歌い終わると、子供は大拍手をした。
老婆は感嘆した。
「あんたは本当に…歌手なんだねえ。言葉はわからんが…気持ちは伝わったよ」
「おばあちゃんは、歌手だったんだよ!むちゃくちゃうまいんだよ」
老婆は、子供を愛しそうに見つめ、微笑んだ。
「昔の話じゃよ」
老婆は、和美を見た。
「この世界は…神が罰として、いろんな言葉を作り、他の国の人達と壁をつくったという…わしにはわからんが…」
老婆は、和美の食べ終わった皿を下げにいく。
「歌手という存在は…その壁を、壊すものかもしれんのう」
老婆は、子供に寝るように促した。
「わしも嘗ては、ジャズを歌っていた。あれは…アメリカに連れて行かれた者達が、世界中に伝えた言葉じゃな…」
ジャズ…。黒人が本音や不満を語るブルースが、白人にとって、悪魔の音楽と言われたなら、
戦中の華やかなダンスミュージックから、ビーバップへと移行した言葉なき音楽は、黒人が発した…言葉では伝えられなかったメッセージである。
「あんたが、本物の歌手なら…何かを伝える為に、存在しているのかもしれん」
老婆は、部屋の隅にあるタンスの上に飾ってある、
一枚のLPを手に取った。
「わしの生まれは、デトロイト…アメリカじゃよ」
LPには、多くの黒人が写っていた。
楽団だ。
「アメリカから、この国に渡り、熱烈な歓迎を受けた…わし達の音楽は、芸術と評価され、初めて尊敬された…」
老婆は、LPをタンスの上に戻すと、
「だから…わしらは、ここに残った。アメリカに戻らずにな」
和美は、話にはきいていた。
多くのジャズマンが、フランスに遠征で来て、
アメリカに帰らずに、残ったこと。
アメリカは単なる大衆音楽として、差別されていたジャズは、ヨーロッパにて評価された。
あの有名なブルーノートレベールの創設者も、ドイツからの亡命者だ。
「しかし…」
老婆は、星空を見た。
「音楽の歴史を紡いだのは…この地に来ても、アメリカに帰った者たちじゃよ…。わしらはある意味…祖国から逃げたのかもしれん…差別から戦わずに」
老婆は、和美をじっと見つめて、
「あんたは…逃げたんじゃないね」
和美は、老婆に微笑んだ。
「捨てたのかもしれません…」
和美の言葉に、老婆は笑った。
「あんたは捨ててないさ。自ら、捨てたという者は…なかなか捨てられないもんさ…。いずれ、自ら気づくじゃろ」
少し考え込む和美。
老婆はそんな和美を、優しく見守りながら、
おやすみと言って、
灯りを消すと、出て行った。
次の日。
和美は、丁寧に毛布をたたむと、部屋を出た。
そして…老婆の所にいくと、頭を下げた。
「昨日は、ありがとうございました」
「よく眠れたかい?」
和美は、深く頷いた。
そして、真剣な表情になる。
「この町に、働くところはありますか?あたし…しばらくこの地にいます」
いきなり、歌で食えるわけがない。
普通に働きながら、歌を歌おう。
こうして、和美の旅は始まった。