学校という場所
朝の教室は、うるさい。
特に…いつもよりうるさいのには、理由があった。
ざわめく生徒たち(特に女生徒)を横目に、教室に入ってきた明日香は、
席で呆れながら、頬杖をついている里美に、近づいた。
「おはよう」
「はあ〜」
里美の溜め息が、朝の挨拶だった。
「みんな…新しいもの好きだよねえ」
里美は、浮かれている生徒たちに肩をすくめた。
チャイムが鳴ると、ざわめきは最高潮になる。
やがて、ドアが開き、担任が入ってくる。
その後から、
一人の男の人が、入ってくる。
歓声が、わき起こった。
クラス中、いや学校中の話題の人物。
教育実習生。
牧村優一。
少し茶色い大きな瞳が、印象的で、
顔を伏せたとき、それは、とても淡く憂う表情になる。
悩んだときや、困ったときの…その瞳の感じが、
いいと、女生徒の間で評判だった。
まだ実習2日目だから、優一は緊張して、生徒の前にいるだけで、軽く震えている。
その姿が、年下である明日香から見ても、
可愛い。
だけど、本人は至って真剣で、表情を…何とか保とうとしている姿が、さらにかわいい。
今日から朝礼は、優一がやることを、担任が告げる。
「牧村先生」
はっとして、優一は背筋を正すと、ガチガチになりながらも、教壇に向かう。
担任は少し心配そうに、優一を見た。
優一は教壇の上で、書類を整え、咳払いをすると、
「しゅ、出席をと、取ります」
優一が、口籠もるだけで、女生徒は楽しそうに笑う。
「先生!」
1人の生徒が、手を挙げた。
雪野麻里亜。
ボリュームがある髪に、少しつり上がった目が、気の強さを示していた。
そんな麻里亜が、猫撫で声で、
「せんせぇってぇ〜かのじょいるんですかぁ〜」
「か、か、かのじょうお…えっと…か、彼女は…」
真面目に答えようにする優一の姿が、引き金になる。
「先生!」
「真剣に答えなくていい!」
担任の先生が、助け船をだしたけど、女生徒たちの質問は、止まらなくなった。
次々に、手が上がる。
女生徒の黄色声に、パニック状態になる教室。
担任は、頭を抱えた。
「あ…それは…」
どうしたらいいのか、おろおろし出す優一。
それが面白くて、さらに質問は飛ぶ。
「てめえら!いい加減にしろ!」
激しく机を叩いて、里美が立ち上がった。
里美の剣幕に、一瞬にして、教室は静まり返った。
「ごちゃ、ごちゃと!んなことは、休み時間でもきけよ!」
里美は、立ち上がりながら、周りを睨む。
女生徒は殆どが、里美と目を合わさない。
里美はそれを確認すると、席に座ろうとした。
「別にいいじゃないんですの。少しくらい、質問しても」
みんながびびる中、麻里亜だけが立ち上がり、里美に詰め寄ってきた。
「はあ〜」
里美は、後ろの席にいる麻里亜に振り返り、睨む。
「それに、相変わらず…汚い言葉遣いなこと…」
至近距離で、里美と麻里亜は、激しく睨み合う。
「あ、あのお…」
どうしたらいいのか…優一は、教壇から出たけど…生徒たちの前で、ただおろおろするだけだ。
いきなり、険悪になったクラスの雰囲気に、
担任は、頭痛を覚えてきた。
170はある身長の高い麻里亜は、里美を見下ろしながら、言った。
「あたし達は、先生と仲良くなりたいだけですの。コミュニケーションの1つとして、先生に、質問してるんです」
里美は、麻里亜の言葉に鼻で笑う。
「しつも〜ん!彼女がいるとか、きくことが質問かよ!」
里美は下から、顔を突き上げた。
麻里亜は、顔を背けながら、
「それは…皆さん。興味ありますもの」
「興味なんてあるかよ」
少し驚きながら、麻里亜は顔を背けたまま、里美を見た。
やがて、麻里亜は、にやっと笑った。
「そうでしたわね。有沢さんみたいな…女か男か、わからない人には、興味なくてね」
麻里亜の言葉に、里美はすぐに切れた。
「何だと!てめえ」
里美は、麻里亜の胸倉を掴んだ。
「野蛮人」
麻里亜は、余裕な表情で、せせら笑った。
「里美!」
殴ろうと拳を上げた里美に、
慌てて、席を立った明日香は、里美の腕にしがみついた。
「離せ!明日香」
「駄目!」
2人が揉めている間に、
麻里亜は、里美の手を振り解くと、
「あらあ?奥さんが来た」
麻理亜の言葉に、思わず周りは、吹き出した。
その笑いに、里美はさらに切れた。
「ぶっ殺す!」
里美は、力ずくで明日香を振り解くと、麻里亜に襲いかかろうとする。
明日香は、里美の後ろから抱きつき、全力で止めようとした。
「離せ!明日香」
「やめないか!」
突然、厳しい注意の声が飛んだ。
その鋭い口調に、教室の空気が変わった。
声がした方を、みんなが一斉に見た。
声の主は、優一だった。
教壇の横に立つ優一の…さっきとは一転して、あまりの迫力に、みんな驚いた。
優一は一歩、3人に近付く。
「雪野さん。有沢さん。か、香月さん。席に、着いて下さい」
有無を言わせない…その迫力に、
3人は頷くと、それぞれの席に戻った。
それから、授業は何事もなく進み、
無事に、昼休みを迎えた。
体育館の裏にあるベンチ。
明日香と里美の、いつもの昼の憩いの場所だった。
校舎から離れているし、食堂の反対側になる為、生徒は殆ど来なかった。
「麻里亜の野郎!ムカつくぜ」
並んで席に座り、おにぎりをパクつきながら、愚痴る里美の隣で、
明日香は、サンドイッチをパクついていた。
「昔から、気に入らないんだよ。あいつのこと」
里美の愚痴は、止まらない。
誰もいないから、結構大声で、里美は愚痴っていた。
おにぎりの食べかすが、里美の口から飛ぶ。
「食べてる時は…話すのやめたら…」
「やめられるか!」
里美が、新しいおにぎりに手を伸ばした時、
思いもよらない人が、現われた。
「有沢さん。か、か、かづきさん!」
優一だった。
優一は明日香を見て、目を丸くした。
「かづきじゃなくて、こうづきですよ。この子は」
なぜここにきたとばかりに、里美は、おにぎりを手に取ったまま、優一に、冷たい視線を浴びせた。
「ごめん。注意してるんだけど」
頭をかく優一に、
里美は大袈裟に、聞こえるようなため息をついた。
「どおして!先生が、ここにいるんですか!」
「せ、生徒から逃げてきたんだ!昼休みになると、みんな追いかけてきて…」
優一は、里美より深いため息をつくと、
2人が座るベンチを見つめ、
「それに、この場所は…。高校の時、僕の定位置でね。昼休みは必ず...1人で、ここにいたんだ…」
優一はそう言うと、右側に見えるグラウンドに視線を移した。
一番グラウンドの端であり、簡易テニスコートがあった。
遥か向こうに、野球部の為の高い金網が見えた。
明日香には、遠くを見つめる優一の視線が、
どこか…
恵子に、似ているように感じた。
ダブルケイのアルバムを、見つめる恵子の目に。
それは、遠い過去に思いを寄せる…思い出を探る目。
だけど、とても悲しげな目。
じっと見つめる明日香の視線に気づき、
優一は、我に返った。
「ご、ごめん。邪魔したね」
優一は、深々と頭を下げると、2人の前から立ち去った。
「何よ、あれ?」
里美は、おにぎりを掴んだ手で、優一の後ろ姿を指差した。
「さあ…」
明日香は、優一を見送りながら、ただ首を傾げるだけだった。
いつもの如く、
放課後はやって来る。
明日香は、渡り廊下に来た。
南館から飛び出すと、綺麗な雲一つない空が、オレンジ一色に染まっていた。
明日香は思い切り、深呼吸をした。
視線を空から、普段の高さに、真っ直ぐ戻すと、
体育館よりの手摺りに、寄りかかる少年の姿が、飛び込んできた。
山の方から、吹き下りてくる風に、髪を靡かせながら、
少年は、静かにグランドを見つめている。
結構…髪が、風で舞い上がっているのに、少年は気にせず、ただグラウンドだけを見つめている。
明日香は、唾を飲み込むと…少年を見ないように意識しながら、南館の入り口近くの手摺りに…もたれることにした。
グラウンドでは、いつのように、サッカー部が練習し、
取り巻きの声援も、聞こえる。
いつもより強い風の吹き付けに、明日香は髪を押さえた。
少年と明日香を包んで、風は…吹き抜けていく。
直ぐに、止むと思った風はなかなか止まず、
やっと風がおさまり、明日香が、髪を押さえていた手を外した瞬間、
「…さん」
明日香の耳に、声が飛び込んできた。
「何?」
明日香は、声がした方を見た。
少年が、明日香に微笑んでいた。
明日香は思わず、見とれてしまった。
淡く、茶色い瞳が、明日香に向いていた。
そして、この世のものとは思えない…まだあどけなさが残る笑顔。
それが、明日香に向けられていた。
少年との距離が、縮まったように、明日香には感じられた。
「違う…。香月さんだね」
少年は、なぜか…言葉を言い直したようだけど、
明日香には、聞こえなかった。
少年は、はにかみながら、
言葉を続けた。
「あなたが…いつも、ここにいることを知っていました。何が見えるのかなって…気になっていた。とても真剣なので…」
少年は、明日香を見つめ、
「まるで、大切なものを見守ってるみたいな感じが…した」
グラウンドから、笛の音が鳴り響き、歓声がわく。
どうやら、ゴールが決まったみたいだ。
だけど、今の明日香には、気づかなかった。
目の前にいる少年の瞳に、捕らわれていた。
それは、あまりに綺麗で、
あまりに、優しい目。
すべてを包み込んでしまうような…瞳の強さに、
明日香は、夕暮れであることさえ忘れそうになった。
淡く、やさしい瞳は、
少年こそが、夕暮れではないかと思った。
この瞳が曇るときこそ、
夜なのだと。
そんな明日香の心なんて、わかるはずもなく、
少年は、視線を明日香から外し、グラウンドを校舎を、そばの体育館を、360度…すべてを見回した。
「やっと来れた。やっとこの場所に…」
少年は、泣いてるようだった。
少年の瞳が、涙で曇った瞬間、夕日が少し落ちた。
少年は見回すのをやめると、明日香にきいた。
「香月さんは…ここから何を見てるの?」
「え…あ…」
いきなりの質問に、明日香が戸惑っていると、
少年は激しく、首を横に振った。
「今の言葉…忘れてくれ。どうでも、いいことだ」
自嘲気味に笑う少年に、
明日香はききたかった。
なぜ、自分の名前を知っているのかを。
だけど、それよりも、
少年の悲しげな笑いが、なぜか…心に突き刺さるのか。
明日香は、胸を押さえた。
そして、思わず…声を荒げた。
今、
言わなくちゃ…いけない気がした。
「あ、あたしはここから、グラウンドを見て、サッカーの動きから、リズム感を養ってるだけです!」
「リズム感…」
そう呟くと、少年は何やら考え込んで、しばらくして微笑んだ。
「リズム感…だったら…サッカーはいいね」
少年の優しく温和な笑みに、
何だか…明日香も自然と、笑顔になった。
そんな自分が、恥ずかしくって…
視線を外した明日香。
それを見て、少年も視線を外した。
少年は、左横の山の向こうに沈んでいく…夕陽を見る為、明日香に背を向けた。
太陽は、見つめられないけど、
沈む夕陽は、見つめられる。
「いつも…この場所にいたね。ここから、グランドを眺めていた」
沈む夕陽に照らされ、逆光の中、少年の黒い制服が浮かび上がる。
「いつも、ここにいた。ぼくも、いつも…ここに来たかったんだ」
そう言うと、今度は体を明日香を向け、少年は、
軽く会釈した。
顔を上げた瞬間の少年の微笑みは、
やはり、
少し泣いているように、明日香には感じた。
少年は、そんな表情を隠すかのように、空を見上げた。
「やっと、ここに来れた…。あなたと、話せるんだ」