未来
そして、また時は流れた。
里美とともに、結成したペパーミントは、ガールズバンドとして活躍し、
何とか、インディーズデビューの話まで、持ち上がるまでになっていた。
しかし、パンクに走ろうとするバンドと、明日香の間には、少し溝が入ろうとしていた。
もう短大も卒業だ。
明日香は、学校近くの小高い丘に立ち、
街並みを見下ろしていた。
決して、大きな街ではないけど、
音楽の街といわれ、ライブハウスは多かった。
明日香の目の前で、夕陽が沈もうとしていた。
海と港と、街が赤く染まっている。
夜が近い。
明日香は、左の方の海岸線を見た。
見えないけど、はるか向こうに、明日香の戻るべき町がある。
風が強い。
潮風にも慣れてしまった。
でも、いずれ…これもなつかしい臭いに変わる。
明日香は、風を抱きしめた。
この臭いも、この風景も、
過去に変わる。
それは、明日香が未来に歩き出すから…。
丘を降りようとした明日香の携帯が、鳴った。
「はい。里美…今から行くわ」
夕陽の時間は終わり、
夜が覆い尽くした町を、明日香は歩いていく。
短大の卒業記念として、
地元の大学や、専門学校の卒業生達と、飲み会をするのだ。
主催は、里美。
「明日香あ!」
会場となる居酒屋に着いたら、もう里美は、出来上がっていた。
今、6時半。
大丈夫なのか…。
座敷に上がると、50人くらいはいた。
結構な大所帯だ。
「ペパーミントの未来に乾杯!」
この町で見つけたギターリストの瑞希が、勝手に1人で乾杯してる。
「何時から、のんでるの?」
座敷の一番端に、座った明日香は、隣に座るベーシストの小百合にきいた。
小百合は顔を上に向け、考え込んだけど、わからずに、
携帯で、時間を確認した。
「4時からだから…ゲッ!2時間半だ!」
周りを見回すと、もう酔いつぶれている人間もいる。
「明日香!」
焼酎の入ったグラスを片手に、里美が抱きついてくる。
「何とか卒業できたね!あたし達。一時期はどうやることかと」
(それは、あんただけだ)
明日香は、心の中で叫んだ。
「明日香!一生、ペパーミントで頑張ろうぜ」
一生…このバンドで…。
里美の言葉は、嬉しかったけど、
明日香には、帰るべき場所があった。
今は、楽しいお酒の席。
いうべきではない。
明日香は、里美に微笑みを返した。
里美の赤い顔が、一瞬だけ、素面に戻る。
「明日香…」
里美は、持っていた焼酎を、一気飲みすると、
「とにかく、今日は飲めえ!!」
里美は、絶叫した。
明日香は、頷いた。
1時間後、飲み会は終わりを告げた。
「もう一軒、いくぞ!」
里美の号令のもと、ほとんどの参加者が、二次会に向かう。
だけど、明日香だけは別れた。
「明日香!」
小百合が、帰っていく明日香の背中に、声をかけた。
「小百合!いいんだよ!」
里美が言った。
「で、でも…」
「あいつは…。あたし達とは、違う。こんなところで、終わるやつじゃないのさ」
里美は、明日香の背中を見送りながら、
自然と流れた一筋の涙を、腕で拭った。
「止めちゃ…駄目なんだよ。わかってるだけど…」
うんと…こたえてくれることを、少し期待してしまった。
「行くぞ!みんな!」
里美は、明日香と違う方向に歩き出した。
「香月さん!」
帰る明日香を、追いかけてくる男がいた。
明日香が、振り返ると、
その男は、息を切らしながら、走ってくる。
男の名は、川上雅人。
少し長い前髪に、眼鏡が似合う専門学校生。
さっきの飲み会に、参加していた。
「どうしたんですか?」
明日香の問いに、
川上は、息を整えながら、
「さっき…有沢さんから、香月さんが地元に帰ると、きいたから…」
「え?」
「飲み会の挨拶でいきなり、そう言うと、有沢さん…一気しだして…周りも、泣きながら、一気…。悲しいんだよ」
川上は、やっと落ち着くと、姿勢を正し、明日香を見つめた。
「みんな…香月さんが、この街からいなくなるのが、寂しいだ。香月さんは、みんなのアイドルだから…」
「アイドルだなんて…」
口ごもる明日香に、
川上は詰め寄り、
「だから、行くなよ!ずっと、この街で、活動したらいい!」
「それは…」
「待ってる…男がいるんだって…」
川上は、唇を噛み締めた。
明日香は驚き、言葉が止まる。
「……」
川上の言葉は、止まらなくなる。
両手を広げ、
「だけど!その男は、この2年間!連絡を取ってきたのか!会いに来たのか!全然、何もしてないんだろ!それで、恋人だと言えるのかよ!」
川上の叫びに、
明日香はゆっくりと、首を横に振った。
「恋人では、ありません。それに、連絡をしてこないのは…」
明日香は、ぎゅと胸を抱きしめ、
「あたしが…それを望んでたから…」
明日香はそう言うと、
深々と、頭を下げた。
「心配してくれて…ありがとう」
「香月さん…」
そのまま、去ろうとする明日香に、
川上は、最後の言葉をかけた。
「どうして、楽に生きないんだ!彼氏をつくったり、もっと遊びに行ったり…楽しくできないんだ!バイトと、トランペットの練習ばかりして!」
明日香は足を止め、
静かに振り返った。
「それは…あの人に近づく為。あの人の足手まといに、ならない為」
明日香は、笑顔を見せた。
それは、とても美しい笑顔。
「多分、あの人は毎日…練習してるはず。いつも、どこかで…。あたしが、毎日練習しても、きっとあの人には、届かない。だけど…これ以上、差をつけられたくないんです」
明日香の笑顔と言葉に、
川上は目を見張り、
やがて、うなだれた。
「好きなんだね…その人が…」
「はい」
明日香は嬉しそうに、頷いた。
明日香は初めて、
自分の気持ちを、口にした。
そう。
(あたしは、啓介さんが好き)
頭を下げ、笑顔で去っていく明日香を、
川上はもう…止めることなんて、できなかった。
「振られたな…」
ただうなだれながら、呟くだけだった。
アパートに帰り、ほとんど何もないけど、身支度を整えた。
ほとんどが、里美と共有のものだから、
明日香のものは、服とトランペットくらいしかない。
歌詞を書き留めた紙を、楽器ケースにしまうと、
明日香はいつのまにか、
寝てしまった。
朝の日差しの眩しさに、目をやられ、夢からさめると、
テーブルにうつぶせになっていた明日香に、布団がかけられていた。
明日香は身を起こし、家の中を確認すると、
窓の横に、里美が壁にもたれ、座っていた。
里美は、じっと明日香を見つめていた。
「里美…」
里美は顔を背け、
「帰るんだろ…」
明日香は姿勢を正し、
里美の方に、体を向け、
「うん」
そして、頷いた。
「やっと…だな…。自信は、ついたのか」
「うん。自信というか…決意ができたから…」
「じゃあ…。さっさと帰れ!ここは、もうあんたのいるべき場所じゃない」
「里美…」
里美は立ち上がり、
「さっきと行け!明日香!」
明日香は、テーブルの横においてあった楽器ケースを、手に取った。
服が詰まった鞄も、持とうとしたら、
「これは、実家に送ってやるからさ!とっとと、啓介さんのもとへ…帰りやがれ!」
「里美…」
明日香は涙ぐみながらも、力強く頷くと、
楽器ケースだけを掴んで、
玄関へと走った。
「明日香!」
里美が叫んだ。
明日香は、足を止めた。
「頑張れ」
里美は、明日香を見ずに、
「あんたは…あたしの憧れなんだからな」
そう言った。
「ありがとう」
明日香も振り返らずに、ドアを開け、
部屋を後にした。
一人残った里美は、
畳の上に、仰向けに倒れ込んだ。
天井を見つめながら、
「最初からさ…。分かってたことなんだ…けど…」
里美は、涙を拭った。
「畜生――!!」
思い切り、誰もいない部屋で、泣き叫んだ。
「明日香!!!!!!本当は…本当は…」
もう涙を拭う力もない。
「ずっと…あんたと、音楽がやりたかった…ずっと…やりたかったんだよ!!!」
言っちゃいけない言葉。
止めてはいけない思い。
この日の為に、あの子はここにいて、
あたしは、ただ…ついてきただけ。
あの子の後ろを。
里美は涙を拭った。
笑ってみる。
笑顔をつくってみる。
そして、
「2年間…ありがとう」
里美は笑う。
「ありがとう。明日香…」
涙が溢れ続けても、笑い続けた。