愛した音
音楽祭の前…。
練習に来ていた明日香や里美が帰り、
営業も終わった後、
啓介は、ダブルケイにいた。
恵子は、マンションに帰り、
阿部達も帰った。
1人ステージに立ち、
サックスを吹いていた。
マンションには帰らなくても、
上に泊まったらいい。
昔は、恵子と二人で…ダブルケイの二階に、住んでいた。
できる限り照明を消し、サックスに集中する。
音楽だけが、かかっていた。
ギャングスター。
ヒップホップだ。
DJプレミアのつくるビートにのせて、
サックスを吹いていた。
「ここにいたのね」
扉がゆっくりと開き、
街灯による逆光の中、
現れた女。
真紅のスーツを来た女。
「気づいてないか」
女が入ってきても、
啓介は、音だけに集中している。
女は、ため息をつくと、
カウンターに座った。
そして、
ステージを見つめながら、
静かに目を閉じ、
音に沈んでいった。
やがて…
CDが終わった。
啓介と女が、目を開けるのは、同時だった。
「あっ…姉さん…」
啓介は、呟いた。
「やっぱり…あんたの音は、特別」
和美は、感嘆のため息をついた。
「それなのに…」
和美は、カウンターから立ち上がった。
「あんたは…あたしと組まないんだから…」
和美は、ステージまで歩いていく。
「あたしのものに、ならないんだったら…いっそのこと…」
和美は、ステージに上がった。
「壊してしまいたいわ」
和美は拳を、啓介のお腹に軽く当てた。
「姉さん…」
しばらく、拳を当てたまま、
和美は黙り込む。
「でも…弟なのよね…。寝取ることもできない…」
和美は少し笑うと、
視線を外し、啓介から離れた。
ステージの端まで歩く。
無言になる啓介。
和美は、クスクスと笑いだすと、
「冗談よ」
啓介の方を向いた。
「姉さん…」
「本気にした?」
啓介は、胸を撫で下ろした。
「冗談…きついぜ…」
安堵の表情をする弟に、
和美は、1通の手紙を差し出した。
「何?」
手紙は、封が開いてあった。
宛名は、河野和美。
差出人は書いていない。
「読んでみて」
戸惑っている啓介に、
和美は促した。
啓介は、仕方なく…手紙を読む。
「これは…」
眉を潜める啓介に…、
「あんたのファンよ」
和美は肩をすくめ、
「あたしとあんたが、付き合ってると、思ってるみたいね」
和美と啓介は、異父姉弟である。
和美は、そのことを公表していない。
手紙の内容に、顔をしかめると、
啓介は、手紙を封筒に戻した。
「これだけじゃ…ないのよ。中傷だけじゃなくて…紹介してくれとか…」
和美はステージから、店を眺め、
「あんたは、もてるのよね。昔から…」
このステージに立つのは、
久々だ。
いつからか…
和美の口座に、年に何回か…お金が振り込まれていた。
振り込んでいるのは、
速水恵子。
それは、物心つく前から、
お金は、振り込まれていた。
誰なのか…調べたら、
和美と同じ…
捨てられた者だということが、わかった。
同情で、金を貰うなんて、許せなかった。
一切、手を付けなかった通帳を持って、
中学生になった和美は、
ダブルケイへと向かった。
重い扉を開けると、
飛び込んできた音に、
和美は動けなくなった。
もうその頃から、年齢を偽って、クラブで歌っていた和美。
たまに共演するプロからも、感じることができなかった…衝撃が、自分の体を貫いた。
和美は、店の中にいつのまか、
飛び込んでいた。
お客さんを押しのけて、
和美は、ステージにかぶりついていた。
サックスを吹く…
スラッとした長身の
少年。
淡く憂いをおびた瞳。
綺麗な少年だった。
その癖…
サックスの音は太く、深い。
和美は初めて…
自分をこえた音に、出会った。
和美は、自分でも信じられない行動をとった。
ステージに上がり、
サックスに合わせて、
生で歌い始めたのだ。
確かめたかった。
本当なのか…。
演奏中の為、唖然としながらも、止められない阿部達は、
仕方なく、和美の歌に合わせることにした。
マイクを通さなくても、響き渡る声量と、
その歌声に、店にいる誰もが驚愕した。
「理恵さん…」
カウンターの中にいた恵子は、
思わず、火をつけようとしたタバコを…落とした。
ただ1人だけ…
店内で、冷静な者がいた。
ステージ上で、少し微笑むと、少年はサックスを炸裂させた。
和美の体が震えた。
全身に、鳥肌がたつ。
歌のレベルが…いや、全体のレベルが上がる。
和美は初めて…
歌をうたいながら、恍惚の感動を味わっていた。
「歌…上手いね」
曲が終わった後、
さっきの凄い演奏とは、違い…まだあどけない少年の笑顔に、
和美は、ドキッとした。
それは、初恋だった…。
しかし、初恋は、
次の瞬間、終わりを迎えた。
「安藤啓介です。よろしく」
和美は、握手を求める啓介の顔を見つめてしまう。
「安藤…」
「安藤…啓介…」
ボソッと呟いた和美に、
「何だよ…いきなり、フルネームで」
サックスをしまい、
啓介は、ステージを下りる。
「あ、ああ…」
我に返った和美も、ステージを下りた。
「何か飲む?」
カウンターに入る啓介に、
「勝手に飲んでいいの?」
啓介は棚から、ターキーのボトルを取り出すと、
ボトルを和美に見せ、
「心配しなくても…俺のキープだ」
啓介は、2つのグラスを用意した。
和美は微笑むと、カウンターに座った。
あの日。
恵子は、和美に告げた。
「これは…あなたの才能を失いたくない…あたしの勝手な投資よ」
同情とかではなく、
あなたの才能に、惚れている。
恵子の嘘だと、今だからわかるけど…
あの時は、それが…生きていく励みになった。
育ててくれたお祖母ちゃんが亡くなり、
歌しか、支えがなくなった和美にとって、
あの頃の恵子の言葉が、素直に嬉しかった。
初恋であり、
唯一の肉親でもある啓介。
和美にとって、啓介達は特別な存在だった。
一緒に暮らしたり、頻繁に会ってた訳じゃないが…。
いつも、彼らを感じ、生きてきた。
軽く乾杯し、
グラスを傾けながら、
和美は、氷を見つめ続けた。
「こんな時間に、ここにくるなんて…何かあった?」
心配そうな啓介の声に、
和美は、ゆっくりと首を横に振った。
「何もないわ…」
「仕事…大変なんだろ?俺と違って…歌手は、表舞台に立つから…」
啓介は、グラスを揺らすと、
やっと一口飲んだ。
「変に売れようとか…思ってないから…。歌で、生きていけたら…それでいいの…」
和美は、氷を見つめながら、
「贅沢はしたいと、思わない。いえ、贅沢をする暇もないわ。あたしはまだ…歌い足りない」
歌手としての和美の生き方は、啓介は好きだった。
自分も同じだから…。
しかし、男と女は違う。
身の…滅ぼし方が。
すべてを、全身全霊で受け止め、
歌として、しぼりだす。
母性というものの凄さを、啓介は、恵子から感じていた。
本当の息子でない…俺の為に、すべてを捧げている恵子。
それを返すことなんて、
啓介にはできない。
だから…せめて、
恵子が好きな音楽で、
誰よりも、凄い音を奏でたい。
恵子の愛情から、生まれた音で。
「啓介…」
和美は、グラスをカウンターに置いた。
俯きながら、
和美は、呟くように言った。
「明日香ちゃんだっけ…あの子…」
「明日香ちゃん…?あの子が、どうかしたの?」
思いもよらなかった明日香の名前が出て、啓介は驚いた。
「あんた…」
和美は、言葉を続けようとしたが、
フッと笑うと、言葉を止め、
話題を変えた。
「マザコンだから…さっさと彼女つくりなさいよ。年上で、しっかりした彼女を」
そう。
あたしみたいな。
「よ、余計なお世話だ!それに、誰がマザコンだよ」
顔を真っ赤した啓介に、
和美は微笑むと、
グラスの中身を、飲み干した。
「ご馳走様」
和美は席を立ち、
手を上げると、扉へと歩いていく。
「じゃあね」
「姉さん!」
啓介が慌てて、声をかけても、
和美は、振り返ることはなかった。
静まり返った店内に、
外から、車のエンジンがかかる音が響いた。
すぐに、車は発車した。
「姉さん…」
2人っきりでないと、
啓介は、和美を姉さんとは呼ばない。
啓介とは違い…
和美は、母を憎んでいた。
安藤理恵を。
和美と、和美の父親を捨てた母親。
啓介も同じだけど、恵子がそばにいた。
啓介は、カウンター内の壁にもたれ、
ゆっくりと、グラスに口をつけた。
カウンター内にある小さな時計に、ふっと目をやると、
もう4時半をまわっていた。
もうすぐ日の出だ。
啓介は、ターキーを飲み干し、
2つのグラスを洗うと、
そのまま…2階へと消えていった。
スタジオに赤いランプが、点く。
「どういう風の吹き回し…なんだ?」
啓介は、アルトサックスを調整しながら、
マイクの前に立つ和美に、きいた。
和美は肩をすくめ、
「いいじゃない。たまには…」
音楽祭の後…和美は、少しやわらかくなっていた。考え方も、歌い方さえも。
スタジオ内に、和美と啓介。
今回、録音する曲は、
未来。
和美と啓介の母…安藤理恵の曲だった。
それは、理恵が和美の為に、残した曲。
和美はその曲を、啓介と一緒にカバーする。
英語だった歌詞を、日本語に訳し、
少し歌詞を付け足した。
それは、これからの未来として。
「あんたこそ…。あたしとは、やらないんじゃないの?」
和美がいたずらぽく、啓介を見つめながらきいた。
啓介は調整を終え、
「一曲くらいは…いいだろ?」
その言葉に、和美はクスッと笑い、
「まあ…。あんたには、待ってるボーカリストがいるしね」
「だめかな?」
啓介は、和美にきいた。
「いいと思うわ。あの子なら…」
照れくさそうな啓介に、和美はそう告げると、
マイクを握りしめた。
「しかし…一緒に、この曲をやるとはな…」
啓介は、アルトサックスを喰わえた。
狭いスタジオ内の奥には、バックミュージャンもいた。
「一緒の方が…音楽が生まれるわ。カラオケなんて、大嫌い」
和美は虚空を睨んだ。
「未来は、必ず来るものよ。誰にでもね」
和美の合図とともに、曲が始まる。
未来。
和美は歌いながら、思った。
この曲は昔、成長していく子供の為に作られた。
ならば、次はあたしが、
次の未来の為に、歌おう。
過去や、今は過ぎ去っていくけど、
未来は、永遠に続いていく。
あたしは、未来に続く歌を歌おう。
過去という思い出と、生きる今を大切にしながら、
未来に伝える歌を。
演奏が終わった後、
和美は、啓介に握手を求めた。
差し出した手を、握り返す啓介。
「ありがとう…」
和美は少し俯いた。
「どうしたんだい?姉さん」
涙を浮かべている和美に、啓介は驚いた。
「あたし……旅に出るわ。音楽を伝える旅に…」
和美は自分から、握手を解くと、涙を拭い…啓介に笑いかけたまま、
スタジオを出た。
曲のプレイバックは、聴かなかった。
これで、やっとあたしは、未来に向けて歩き出せる。
初恋だった男。
弟とわかってからも、
あいつの音を、手をいれたかった…
男。
やっと、離れられる。
和美はスタジオから、外の廊下に出て、呟いた。
「さようなら…。あたしの初恋の…音」