音楽祭
土曜日。
学校は、慌ただしく音楽祭の準備が始まった。
興味がない生徒は、さっさと帰り、
代わりに、多くの観客が入ってくる。
体育館は、すぐに満員になった。
観客の中には、恵子と啓介もいた。
ステージのそばには、審査員席が用意されていた。
体育館とグラウンドの間に、簡易のプレハブがつくられ、そこが控え室になる。
それでも、全員が入れないので…軽音部は、音楽室にいた。
「もうすぐ、最初のバンドが始まるわよ。見に行かなくていいの?」
里美がきいてきたが、明日香は、うんと頷いた。
他のメンバーも、明日香を見た。
「あたしのことは、気にしないで下さい。皆さんは、見に行って下さい」
すると、里美と明日香を残して、みんな出ていった。
明日香は、音楽室の窓側の壁にもたれ、トランペットを抱き締め、目をつぶった。
開けた窓から、渡り廊下の向こうに見える体育館の中の音が、こぼれてきた。
一組目であるブラスバンドの演奏が、始まったみたいだ。
曲はキューティハニー。
明日香は深呼吸をすると、トランペットを持ち、音楽室を出た。
「どこいくのよ。明日香!」
里美が、後を追う。
明日香はゆっくりと、歩いていく。廊下を歩くたびに、しっかりと床を踏み、心を落ち着けていく。
南館に入ると、あとは真っ直ぐに歩くだけだ。
前方に、体育館が見える。
あれから来てなかった。
渡り廊下。
昼間だからか…今日はめずらしく、何人か人がいる。
明日香と、少し遅れてきた里美は、手摺りにもたれ、
漏れる音と風に、身を任せながら、
次々にかわる音たちを、聴いていた。
しばらくしてから、裏門の方がうるさくなった。
和美が来たのだ。
今日は、学校側から楽器が用意されているので、
和美は、いつものオープンカーで、バンドのメンバーが後ろから、別の車で来た。
車から降りた和美は、いつもの赤い色だ。
「来たわね」
里美が、渡り廊下の手摺りから、身を乗り出して言った。
明日香は頷くと、廊下を渡り、体育館の二階の観客席に、つながる扉を開けた。
演奏しているバンドより、体育館に入ってきた和美に、歓声が沸く。
和美は、軽く頭を下げ、審査員席に座った。
これから出てくる…どんなバンドも、関係ない。
みんなが見てるのは、和美だけだ。
明日香は、震えた。
いつもと違う空気をかもし出す和美。
あれが歌手。
歌手なんだ。
次々と、点数が付いていく。
今のところ一番は、ブラスバンド部。
やがて…
歓声が、一段と大きくなった。
和美が、席から立っただけで。
観客に軽く会釈し、ステージへ向かう和美を背にして、
明日香は、トランペットを握り締め…控え室へ向かう。
出番が近い。
(馬鹿な観客ばかり…)
ステージに上がると、和美は笑顔の裏で、せせら笑った。
あたしの音楽なんて、知らない癖に…。
テレビに出ているから、少し有名だからで、ここに来ている。
さっきから聴いてるけど、大した音はなかった。
あれで、よく人前に出るわね。
明日香。
あなたもよ。
ここにいる人達に、教えてあげる。
歌というものを。
明日香に、圧倒的な実力の差を。
これで潰れるようなら、
あなたは、それまでよ。
和美は深々と頭を下げ…上げた時には、笑顔は消えていた。
もう…和美には、観客は見えていない。
おもむろにと、和美は歌いだした。
ビリーホリディで、有名な愛するポーギーを。
身を切り裂くような…悲しい愛を歌い出す。
一瞬にして、凍りつく観客。
あまりの悲しさに、口を覆う人もいる。
それだけ凄いのだ。
表現力が、並ではない。
歌だけで、人々の心の中に、映像をこえた気持ちと、狂おしい思いが、生まれた。
汚い手で、あたしに触れないで…。
差別と…愛する人を助ける為に、体を捧げる女の…悲しさ。
歌詞の意味を理解して、歌いなさい。
と、恵子は、明日香に言った。
和美の歌は、意味を理解し…さらに、それを観客に伝えている。
(だけど…)
明日香は、和美の歌と…観客の反応を見て、みんなを呼んだ。
明日香の案に、驚くメンバー。
明日香は、トランペットのミュートを外した。
和美の次の曲は、ミニーリパートンのLovin' Youだ。
高音から低音まで、声の幅が半端でないほど…凄い。
これも、圧倒的だった。
歌が終わっても、体育館は静まり返り…
和美が、深々と頭を下げると
やっと、
解放されたように、大拍手が沸き起こる。
ステージを下りる和美。
拍手はすぐ終わり、
また観客は、静かになる。
和美の歌による緊張が、終わっていないのだ。
静まり返った体育館に、
明日香達が、立つ。
明日香は、トランペットを観客席に突き出し、
両足とお腹に力をいれて、強く吹いた。
一音。
調子を外したような音に、
一瞬、びくっとした観客にむけて、
明日香だけで演奏する。
大きな古時計。
「童謡!?」
和美が、審査員席で驚く。
親しみやすく覚えやすいメロディーは、観客を和ませた。
鼻歌さえ、きこえそうになる。
一小節だけ吹くと、
明日香は、浅倉をちらっと見た。
浅倉がいきなり、ギターでカッテングし出す。
滑らかに、バックが入ってきて、
ホワッゴーイングオンが始まった。
一転して、
ミュートを付けると、
明日香は、トランペットで歌い出す。
軽やかな演奏。
観客の体が、小刻みに動き出す。
サビのホワッゴーイングオンのフレーズを、
明日香はトランペットで、浅倉達はマイクから声で、掛け合う。
明日香は、ステージギリギリまで前に来て、トランペットで観客を煽る。
やがて、
トランペットの音と、観客がホワッゴーイングオンと叫び、掛け合いがはじまる。
里美が、スティックを鳴らし、さらに煽る。
体育館が、掛け合いで震えた。
「早くも…勝負あったわね」
恵子が呟いた。
隣で、啓介はただ…ステージ上を、じっと見つめていた。
恵子は、チラッと隣を見、
またステージに、視線を戻した。
やがて曲が終わり、
体育館中の観客が、一斉に立ち上がり、
拍手がわき起こった。
和美だけが、ステージを睨みつけていた。
明日香は頭を下げ、マイクに向かう。
「ペパーミントです。次の曲は、大切な人の為につくられた曲です」
トランペットを下げると、マイクの位置を確認し、
「安藤理恵さんの曲で…未来」
明日香は、歌い出す。
席から、立ち上がる和美。
里美が、静かにリズムを刻む。
明日香の甘くきれいな声が、体育館を包む。
まっすぐで、なめらかで軽やか。
それは、シャボン玉なんかじゃなく、ふわふわ暖かい羽毛だった。
間奏は、トランペットで。
健司より、淡く切ない音。
人々は、聴き惚れていた。
演奏が終わった後、
体育館は、暖かい空気に包まれていた。
観客の拍手さえ、暖かくなっていた。
「こんなの認めない!」
和美は拍手の中、ステージに上がった。
「あたしへの嫌がらせ?あんな女の歌を、うたって!」
近づいてくる和美に向かって、明日香はマイクの前から離れずに、
「嫌がらせでは、ありません。これが、あたしの伝えたいことです」
体を和美の方に向け、真っ直ぐに見つめた。
「何が未来!馬鹿にしないで!子供とともにいて、成長する?自分から、捨てた癖に!」
明日香のそばで、絶叫する和美。
その時、
誰かが、ステージに上がってきた。
「お前は勘違いしている」
啓介だった。
手に、理恵のCDを持っている。
「啓介…」
啓介は、和美にCDを差し出した。
「明日香ちゃんは…気づいていたようだ」
「こんなアルバム持って来ないでよ。見たくもない」
和美は、CDを受け取らない。
だが、無理やり、啓介はCDを押しつけた。
「まともに、見たことないだろ。未来の作者を、見てみろ」
和美は、嫌々…ジャケットを開いて、何枚かめくり、
作者の文字を見た。
和美の手が、止まった。
そこには英語で、こう書かれていた。
作詞作曲 安藤理恵&…
河野和美。
「お袋のアルバムは、これ以外売っていない。過去の作品はすべて、お袋がマスターを破壊しているからな。過去のものは、残さない主義だったからな」
和美は、ジャケットを持ったまま震えている。
「どうして、このアルバムだけが、残っているのか…それは印税が…娘に、ずっと入るようにだ」
和美は、ジャケットから顔を上げ、啓介を睨んだ。
「印税なんてもらったことないわ」
「俺の母さんから、渡してもらっているだろ」
「あれはママが…」
啓介は、首を横に振った。
「ちがう。あれは…お袋が、母さんに、手紙とともに託したのさ。あの子を捨てたあたしを、許さないだろうからと。もし…いつかあたしを、許してくれて…未来を聴いてくれるまで…」
啓介は、和美の手を握った。
「未来とは…捨てた幸せではなく…和美。お前という未来のことだったんだよ」
啓介は、優しく微笑む。
「お前の未来の為に、未来という曲を、残したんだ」
崩れ落ちる和美。
だけど、
こんなことで、許すわけもない。
ただの一曲。
ただの一曲。
だけど…
あたしが、気付かなかった一曲。
(あの子は気づいたの?)
あたしが、気付かなかったことを。
和美は、真っ直ぐに姿勢を正して、ステージに立つ明日香を見た。
(この子は…何なの…)
「だけど!」
和美は、叫んだ。
「歌は負けてないわ。あたしの勝ちよ」
和美が立ち上がり、啓介を…そして、観客を見た。
静まり返る観客。
「どうして…」
唖然とする和美に、
啓介は語りかける。
「お前は、天才だ。だからこそ…勝ち負けがあるとするなら」
啓介は、和美の顔を見、
「負けだ」
「どうしてよ!」
和美は、納得できない。
「歌っているとき、何を考えてた?聴いてる人のことを考え、聴いて貰うという気持ちがあったか?お前は、天才だよ。天才だからこそ、お前の思っている心が、気持ちが、ストレートに観客に伝わる」
啓介は、和美から満席の観客に視線を移し、
「もし…お前が、最後にでてたら…勝っていたよ。お前の歌を聴いた人々は、心が打ちひしがれたまま、帰ったことだろう」
啓介は、明日香達の方を向き、
「だけど…観客は、彼女達の音で救われたのさ」
明日香に微笑んだ。
「和美の歌声に、圧倒された人達の緊張をとくために…わかりやすい童謡を、少し吹いて、和ませ…次の曲で、お客さんを巻き込んで楽しませる」
啓介は、明日香に近づき、
「最後に、歌を聴かせる…。いい構成だったよ」
啓介の言葉に、
明日香は、顔を真っ赤にして照れた。
啓介は、和美の方を見て、
「お客を楽しませる…それが、お前にかけていたことだ」
和美は、観客を見た。
端から端、
2階席まで見て、
俯いた。
しばらく目を閉じると、
明日香達の方を向いた。
「わかったわ。あたしの負けね」
そう言うと、
静かにステージを下り、
体育館から、消えて行った。
「和美さん!」
追おうとする明日香を、啓介が止めた。
そして…
「君が、和美に伝えたいことがあったように…俺も、君に、伝えたいことがあるんだ」
啓介の真剣で、
それでいて、穏やかな瞳が、
明日香を見つめていた。