翼ある気持ち
恵子は、夢を見ていた。
それは、大した幸せではないのかもしれない。
恵子は、普通の女ではなかったのかもしれない。
周りが、彼氏をつくろうと躍起にやってるときも、玉の輿に乗ろうとしてるときも、
マイペースだった。
恵子は、知っていた。
与えられたものは、自分のものでないことを。
他人に与えられた幸せが…なくなったり…捨てられたり、ふられたとしても、仕方がないと思っていた。
だって…選ばれた理由が、若さであるか、容姿であるか、女であるかだけだから。
男と女が、出会う場所は増えても、お互いを唯一無二の相手だと
本当に感じているのだろうか。
健司がいなくなって、数ヶ月が過ぎた。
仕方ないと思いながら、
中身が、だんだん空っぽになっていくのを感じた。
涙という直接的なものではなく…心の底から、抜けていくような…小さな穴が、恵子には、開いていた。
だけど、普通に店をあける恵子を、お客はこう言った。
強い女。
酒を飲みながら、同情を演じたり、慰めながら口説く男。
バカばかり。
あたしは、抜け殻…。
抜け殻に欲しいのは、
同情でも愛情でもなかった。
啓介が来た日。
恵子は泣いた。
無垢な瞳、無垢な笑顔。
時折泣き止まなかった。
(不安なの?)
小さな手で、泣きながら、恵子にすがりついてくる。
すがりつく手の力が、
泣き声が、
無垢な笑顔が…
すべて、恵子に向けられた。
すがりつく強さに、恵子は泣いた。
あなたのお母さんじゃないのに…。
恵子は、赤ん坊を抱き締めながら、
逆に、抱き締められていた。
心の雪は溶けた。
涙とともに。
やがて…
赤ん坊の泣き止んだ笑顔を見て、
恵子は誓った。
もう泣かない。
この子の為に、笑顔でいよう。
笑顔でいれば、生きていける。
そう確信した。
それは同情でも、義務でもなかった。
お互いがいて、お互いがいるから、
生きていける。
そういう意味では、恵子と啓介は…
親子とは、少しちがうのかもしれない…。
放課後。
音楽室では、連日…音楽祭に向けて、練習がなされていた。
浅倉のギターカッティングから、
歌うように、明日香のトランペットが鳴る。
曲は、ホワッツゴーイングオン。
でも、明日香には、満足がいかなかった。
上原の叩くドラムが、納得できないのだ。
目が大きく、小柄でかわいく、ドラムも力強いが…
スウィングしてなかった。
ロックならいいけど、ブラックミュージックには合わない。
何度も指示したが、別に…リズムが合ってない訳じゃないから、理解できないようだった。
音の感触が、違うのだ。
明日香は、トランペットを置いて、休憩した。
因みにトランペットは、kkから持ってきていた。
明日香の隣に、浅倉が来た。
「ごめん、香月さん。あたしたち…ジャズとかR&Bとか…やったことがなくて」
明日香は、トランペットの唾抜きをする。分解し、掃除しながら、
「普段は、皆さん…どういうのを、やってるんですか?」
「普段は、アイコとかハイスタ…」
「あっ!カラオケで歌いますよ」
他愛のない会話の後、明日香と浅倉は、演奏に戻った。
満足しないうちに、
練習は、終わった。
片付けていると、
音楽室の扉が、勢いよく開いた。
里美が、飛び込んできた。
「大変よ、明日香!」
「どうしたの?」
トランペットをケースにしまいながら、明日香は、息を切らせて、真っ赤になっている里美を見た。
里美は、興奮して、
「か、か、和美さんもでるんだって、音楽祭!」
大声で叫んだ。
「和美が…明日香ちゃんの学校の音楽祭にでるって!」
カウンターの向こうから、恵子にそのことをきかされた…啓介は、一度座ったカウンターから、立ち上がった。
それは、今朝の朝方だった。
お客が帰り、片付けを終えて、
店内で、くつろいでいた恵子は、煙草をふかしていた。
突然、店の電話が鳴った。
受話器を取ると、和美だった。
和美は一言…
音楽祭にでることを告げると、電話を切った。
啓介は、頭を抱えた。
「この前は、無理やり連れ出したと思ったら…一体どうして…そんなことばかりするんだ」
舌打ちし、啓介は、和美の携帯に電話したが、出ない。
「ったく!何を考えている。和美は、プロなんだぞ。まだ音楽を始めたばかりの子を、なぜ気にする必要がある!」
「あんたと同じ理由よ。啓介」
恵子は、啓介を見た。
「あんたもなぜ、明日香ちゃんが気になるの?」
「それは…」
言葉に詰まる啓介。
恵子は微笑んだ。
「かずちゃんの好きに、させてあげなさい。あの子は、何でも…自分で確認しないと…気がすまないのよ」
「でも…」
啓介は、カウンターに座りなおした。
「あんたはどうなの?」
恵子は、カウンターから啓介の目を見つめた。
啓介は、それにはこたえない。
カウンターから、立ち上がると…ただステージへと向かった。
そして、明かりの消えたステージの上で、サックスを吹き続けた。
恵子は、そんな息子をただ…
カウンターから見守り続けた。
ドラムの上原が、いきなりやめたいと言ってきた。
明日香のいう…軽やかな演奏ができないから、ユニットに参加したくないと。
彼女は、退部届けを出してきた。
とめたが、無理だった。
意志はカタかった。
唯一のドラマーを、軽音部は失った。
後でわかったことだが、
上原は、結城に引き抜かれたのだ。
ブラスバンド部に。
仕方がなく、
里美が、ドラムの座につくことになった。
負けを覚悟した滝川部長。
歓喜する里美。
落ち込む滝川に、
明日香は、演奏する曲の変更を申し出た。
もう音楽祭まで、数日しかない。
戸惑う滝川に、明日香は言った。
「この曲でなければ、だめなんです」
ドラマーが変わったことも、ちょうどよかった。
「シンプルな曲なので、大丈夫です」
明日香は、他のメンバーに、曲を聴かせた。
浅倉が頷けば、滝川は文句がいえなくなった。
そして、里美を加えた練習が、始まった。
今日は土曜日だったから、夕方までみっちり練習が出来た。
音楽祭まで、あと一週間。
夕焼けの中、明日香と里美は歩いていた。
里美は足をとめ、明日香に言った。
「ベンチいこうか」
少し驚いたが、明日香は頷いた。
いつも昼休みに、つかうベンチ。
2人して座ると、
里美がおもむろに…話し出した。
「あたしがさあ…高橋君とつきあってた時…あんまり、明日香と話さないとき、あったでしょ」
明日香は頷く。
「あたし知ってたんだ。高橋君が、本当は…あんたのことが好きなんだって…。それなのに、あんたときたら、あたしの知らない男と仲良くしてるっていうじゃない。あたしは、好きにもなって貰えないのに、あんたは!」
里美は、足元の石を蹴った。
「くやしくて、むかついて…1度、渡り廊下にいこうとしたのよ。階段を上がりかけて…あんたの顔が見えた。残念だけど、相手の顔は、見えなかったけどね」
里美は、明日香を見た。
向こうに、夕日が見えた。
里美は微笑む。
「綺麗だったよ。明日香」
「え?」
里美は、照れたように視線を外し、
「夕陽に照らされて、幸せそうなあんたが、とっても綺麗で…。ああ、高橋君が惚れても、仕方ないやと思った」
笑った。
「仕方がないわ…あたしじゃ勝てないって」
そして、顔を空に向けた。流れそうな涙を止める為に。
「何言ってるのよ!里美」
里美は、明日香を無視し…言葉を続けた。
「高橋君にふられて…初めて、ママの店に行った時……。あたしの為に、トランペット吹いてくれたでしょ…。その時のあんた…むちゃくちゃ格好よかった。あんたみたいに、なりたいと思ったんだ……。だから、軽音部に入ったのよ」
「滝川部長に、一目惚れしたからじゃないの?」
里美は笑い、
「確かに…部長は、格好いいけど…副部長という彼女がいるしね」
「えええ!!」
「気づかなかったの!相変わらず、鈍感ね。それにあたし…そんなに気持ちをすぐに、切り替えられない」
里美は目を丸くした後、明日香に顔を向け…微笑んだ。
明日香は無言で、何も言えなかった。
「音楽室で…あんたが、トランペットを吹いた時も、夕陽に照らされて…やっぱり綺麗だった。明日香…。あんたといっしょにいたら…あたしも、綺麗になれるかな」
「里美…」
「それなのに!」
里美は、勢いよく立ち上がると、
鞄で明日香をこづいた。
「何なのよ、あんた!暗すぎるわ!最近のトランペットを吹くあんたは!あたしに初めて、聴かせたときは…あんなに楽しそうだったのに!」
里美は、少し泣いていた。
「軽やか、軽やかって…自分こそ、できてないくせに!」
里美は、明日香に叫んだ。
「何があったか知らないけど、あんたは、あんたなのよ!才能がないとか、軽やかな演奏とか!楽しくなくちゃ、全然面白くない!和美さんに、何か言われたとしても、気にするなああああ!!」
絶叫する里美の優しさが、明日香に伝わった。
「あたしが、ドラムを叩くことになったんだから、しっかりしろよ!あすかあ!」
明日香も、少し流れた涙を拭いながら、
里美の言葉に、頷いた。
里美も頷くと、
「わかったら、よろしい。では、これから…景気づけに、カラオケにいくわよ!どうせ…ママとこ、今日は行かないんでしょ」
強引な里美。
里美らしい。
2人は、笑いながら歩きだした。
「ところで、ユニット名だけど…ペパーミントでどう?」
里美が言った。
「昨日飲んだカクテル…じゃなくて、ミントって明るいキャラがいて…」
「酒飲み…」
明日香の言葉に思いっきり、首を振る里美。
「酒飲みじゃないわよ。たまたま…青いきれいな飲み物があって…何かなと騙された訳よ」
「どこで?」
「家の近所で父親と…」
「あやしい」
2人を照らす夕焼けの中、少女たちは歩いていく。
「勝手に、ユニット名つけていいの?」
「大丈夫よ。明日香の心配性!」
「うるさいわね」
里美は舌を出した。
それは……いつもの2人だった。