歌を歌うこと
明日香は家に着くと、
軽く食事を済ました。
食欲がないことを心配する母親に、大丈夫とだけこたえると、
自分の部屋にいき、ベットに倒れ込んだ。
手には、エリス・レジーナのCDを持っていた。
和美がくれたCD。
起き上がると、封を切り、ラジカセにセットした。
いきなり歌声が、スピーカーから飛び出す。
明日香は思わず、身を乗り出す。
3曲目のシ・ヴォセ・ペンサが始まった時、どこか和美に似てると思った。
歌い方とか声質ではなく、勢いが、歌手としての本質が似てると。
エリスは15歳でデビューし、36歳で亡くなっている。
その始まりと終焉は、和美と…理恵を思わせた。
36分ちょっとで、CDは終わった。
明日香はしばらく、ジャケットを眺めた。
鳩に囲まれて、笑顔のエリス。
両手は羽のよう。
軽やかな歌声。
明日香は次に、安藤理恵のアルバムをかけた。
闇に囲まれた横顔。
オリジナル曲、未来。
明日香は、理恵の歌を理解した。
本当の思いを。
そして、明日香は気付いた。
この曲は、まだ生まれていない啓介に、捧げたものじゃない。
和美に、捧げたものなんだと。
明日香は、ジャケットを取り出した。
めくると、この曲だけ歌詞が載っていた。
英語だ。
明日香は何とか…訳していく。
赤ん坊が泣いていた。
天才といわれ…数多くの人が、理恵に近寄ろうとした。
理恵は、アイドルという人形じゃないから、
くだらないことに、縛られたくなかった。
世界中の著名なアーティストが、理恵の歌声を欲しがり、自分の国に来てくれることを望んだ。
もちろんファーストクラスで。
でも、理恵は不満だった。
ほしければ、あんたが来なさい。
その理恵の考えに……たかが、ジャップの黄色猿が…と来ないやつが、大半だった。
音楽じゃない。そいつらの…プライドの問題だった。
どうしても、ほしいやつはバンドを連れてきたり、マスターテープを持って世界中から、理恵のもとに来た。
理恵は、才能がある者は、誰でも、その場で起用し、
使えなかったら、すぐに首にした。
人種じゃない…そいつの問題だった。
理恵のアルバムが、録音されるときは…スタジオには、ミュージシャンが溢れ、呼ばれるのを待っていた。
売れてる者も、そうでない者も。
理恵は、ミュージシャンを実力で判断した。
録音したすべての版権を、自分で持ち、ある程度の枚数を売ると、
すぐにアルバムを生産中止にした。
あたしの音を、ちゃんと理解して、聴ける人なんて少ない。
話題と興味で、きいてほしくなった。
マスターテープを、レコード会社の偉いさんの前で、何回も破壊した。
だから、理恵のアルバムはほとんど残ってなく、プレミアがついている。
こんな過去のものに…理恵は、過去の自分にさえ、興味がなかった。
過去より、今。
次が、つねに最高になる。
過去には、満足できない。
あたしは、つねに成長している。
満足できない過去など、残す価値もない。
理恵は、まだ若く、
未来はいつも、
すぐそばにあった。
だから、
音楽業界もすぐに、
引退した。
未練なんてなかった。
平凡な男の平凡さが、新鮮で結婚した。
これが、幸せなのだろうか。
完璧を愛した理恵は、結婚後も、完璧な主婦を演じた。
掃除、洗濯、家事はすべてこなした。
しかし、
完璧だからこそ、壊れるのだ。
和美が生まれ、生活が和美中心になる。
でも、苦にはならなかった。
和美の笑顔と笑い声は、どんな歌よりも、素敵に感じていたからだ。
綺麗なストレートの髪は、和美を抱くのに邪魔だから、ばっさりと切った。
服装は、派手なドレスなど着ることはなくなり、質素になった。
誰も、安藤理恵だと思わない。
今は、河野理恵だから。
その代わり、和美にはいっぱいおしゃれを、させたかった。
この子は、あたしの未来だから。
しかし…
ある日、夫の母親が家に来た。
理恵が、買い物にいく間、和美を見てくれるという。
いつもは…和美を抱えて、買い物にいくのだが、
理恵は言葉に甘え、一人で出かけた。
久々の一人。身軽に買い物はすぐに、済ませた。
嬉しくって、いつもより余計に、買ってしまった。
少し休憩しょうと、茶店に入った。
初めて入る店。
小綺麗な店内に、流れるジャズ。
ゆっくりと、ジャスミンティーを楽しんでいた。
ゆっくりと、音楽に包まれることなんて、長いこと忘れていた。
かかっている音が、
デューク・エリントンであることも気に入った。
ひばりが完コピーしたことで、有名な曲…A列車でいこう。
スキャットが心地よい…。
まどろむ時を、引き裂くように…
いきなり、扉が開いた。
それは、運命の扉だった。
両手に、紙袋を持った二人の男と女…。
男はトランペッターで、
女は、歌手だった…
KK…
ダブルケイと、
二人は名乗った。
唐突に…茶店で、2人は演奏を始めた。
理恵は、衝撃を受けた。
完璧だからこそ
やめた音楽だけど…。
あたしには、かけていた。
あたしは足りなかった。
あたしは、一人だった。
CDを、手売りし出したから、
理恵も、買うことにした。
CDを、渡す女の笑顔が…憎らしかった。
あたしより、下手な癖に。
家に帰り、鏡を見た理恵は、
大声で笑った。
そこには、
みすぼらしい女が、一人いた。
(これがあたし!?)
理恵の笑いは、止まらない。
完璧なあたし。
完璧な主婦。
完璧な母親。
そして、
完璧な歌手。
違った…。
あたしは、違ったのよ。
完璧でなければ、
何もできない。
あたしは、
主婦も母親も…。
理恵は、すぐに電話した。
レコード会社に。
会社は喜び、
すぐに、アルバムを作りたいと言ってきた。
理恵は、作るにあたり…使いたいミュージシャンを、指定した。
トランペッター、阿部健司。
完璧な歌手になり、すぐに完璧な主婦…
完璧な母親に、戻るはずだった。
しかし、
2人の天才の出会いは、激しく絡み合い、運命を解けなくした。
もう戻れない程に。
未来の歌詞は、他愛もないものだった。
家族の為に、買い物をして、料理をし、子供とともにいて、
成長を見守ること。
普通の生活。
しかし、それこそが理恵の未来だった。
望みだったのだ。
彼女が捨てた幸せこそが、
未来だった…。
明日香は、CDをそっと、ケースに戻す。
また…エリス・レジーナのアルバムをかけ、
目を閉じた。
明日香は、思った。
音楽には、いろんな思いが込められていることを。
今までは、漠然としか…気付いていなかった。
友達とたまに、カラオケにいったり、歌番組は見ていたけど。
あたしの歌には、何があるんだろう。
多分…あたしの音は、しゃぼん玉。
ふわふわ飛んでいくけど、
中身のない…すぐに壊れてしまう。
翼がほしい。
暖かい翼。
理恵の未来を、包める暖かさ。
(あたしは!)
明日香はもう一度、理恵のアルバムをセットし、
未来と向き合った。