温かい場所
渡り廊下から、南館に戻らず、グラウンドのそばにのびる階段を、小走りで駆け下り、
ドキドキしている心臓を押さえ、一度深呼吸した明日香は、渡り廊下の下をくぐり、
正門まで歩こうとする。
真下から、渡り廊下を見たけど、少年の姿は見えなかった。
角度の問題か。
明日香は諦め、とぼとぼと歩き出す。
俯き…正門までの真っ直ぐな100メートル程の距離を歩く。
「遅い!」
遠くの方から、声がした。
顔を上げた明日香の視線の先に、正門にもたれる少女がいた。
親友の里美だった
ショートカットの髪に、男の子のように、精悍な顔立ちが、
思いっきり、明日香を睨んでいた。
「いつもより遅いぞお。ああ~親友が、男に見とれてる間…健気に待つア☆タ☆シ!なんて…かわいそうなの」
大層な物言いに、明日香は呆れた。
つかつかと早足で、里美に近づき、
「あんたも、部活の帰りじゃない!」
里美は苦笑すると、明日香を見ずに呟いた。
「高橋君…いた?」
明日香は、里美の微妙な変化に気づかない。
「いたわよ。シュート決めてた」
「ふ〜ん」
里美は、正門から離れると、歩き出した。
遠く夕陽が沈む前に、一段と輝いていた。
駅までの道のりは、遠い。
一本向こうに、土手があり、階段を登ると、川にそってのびる道がある。
テニス部などが、走り込みをする場所だ。
その土手から、風が吹き込んでくる。
風に、髪を靡かせながら、明日香と里美は歩く。
タイミング悪く、踏み切りが閉まった。
2人で、踏み切りの前で待っていると、
里美が、ぼそっと呟いた。
「今日…いくんだ…」
電車が目の前を通った為、明日香には聞こえなかった。
「好きなんだ…」
次の電車が、通り過ぎるまでの、少しの間の中、
里美はまた口を開いた。
「えっ?」
微かに聞こえた…好きという言葉に、
明日香は、里美を見た。
里美は、明日香を見ない。
次の電車が、通り過ぎるまで、里美は前を向いたまま、
決して、明日香を見ようとしなかった。
少しして、次の電車が前を通り過ぎようとした時、
「音楽!」
里美は、大声で叫んだ。
電車が通り過ぎる風と、踏み切りが上がる音に、
里美の言葉は、かき消された。
踏み切りが開いた。
多くの人が行き交う。
歩き始める2人。
明日香は、並んで歩きながら、里美の横顔を見つめた。
淡々と歩く里美。
ふっと明日香は、後ろからの視線を感じた。
振り返ろうとした明日香と
里美を、自転車が追い抜いていく。
すれ違う視線が、
一瞬…
明日香に絡みつく。
じっと、見つめられているように、感じた。
永い一瞬。
「高橋くん…」
里美が、去り行く自転車の背中を見つめた。
「え?」
明日香は、思わず里美の言葉に反応した。
里美の切なく、見送る瞳。
明日香も、高橋が去った方を見た。
すれ違った…高橋のあの瞳。
明日香を見ていたと思う瞳。
それは、とても強い意志をもった瞳だった。
駅についても、里美は、あまりしゃべろうとしなかった。
里美とは、反対の車線に乗る為…明日香は別れた。
俯いたままの里美が、先に電車に乗って、
ドアにもたれるのが、確認できた。
明日香は、手を振ってみたけど…里美は、こちらを見ようとはしなかった。
明日香の乗る電車も来た。
明日香も飛び乗ると、向こう側のドアに走る。
ガラスとガラスの向こうに、里美がいる。
俯いたままの里美を乗せた電車は、発車した。
明日香を乗せた電車も、動き出した。
1駅向こうで、地下鉄に乗りかえ、2駅目で降りると、
もう山は、目の前だった。
改札をでてから、2分程…山頂向かって歩くと、
一軒のBARがあった。
KK…と書いて、ダブルケイ。
明日香は、クローズと…まだプレートがかかっている扉を開けた。
店は7時オープンの為、店内にお客はいない。
「おはよう」
少しけだるいが、
凛とした声が響く。
「おはようございます」
頭を下げた明日香の向こう…カウンターの中にいる女性。
ショートカットに大きな瞳。
化粧気はないが、
どこか色っぽいかった。
恵子ママ。
明日香の音楽の師匠だ。
「今日は、遅かったわね」
少し厚い唇の端に、ねじ込んでいた煙草を、灰皿に置くと、
恵子は、いつものようにコーヒーを入れてくる。
少し苦くて、ビターなコーヒー。
これでも、甘くしてくれているみたい。
恵子から、カップを受け取り、一口コーヒーを啜った明日香は、思わず顔をしかめた。
そんな明日香を、優しく見つめる恵子。
店の奥にあるステージ。
決して広くはない。
ドラムとピアノが置いてあるだけで、ギュウギュウになってしまっている。
だけど、その狭い空間が、明日香にとって、特別な空間だった。
ステージ上では、ドラマーで、無口な武田が、小刻みにリズムを刻んでいる。
小太りで、愛敬のあるクリッとした目をした原田は、ピアニスト。
そして、
「明日香ちゃん。時間がもったいないから…あわそうか」
トイレにいっていたらしく、阿部がステージ左奥から、でてきた。
180以上ある身長に、細身のすらっとした体型が、まさしくベーシストだ。
明日香は、コーヒーを飲み干すと、
少し舌を出し、顔をしかめたまま、
急いで、ステージ右横の通路に、置いてあるトランペットを取りにいく。
古びたケースから、取り出したトランペットに、マウスをつけると、
ステージに上がった。
家にあった一枚のCD。
カフェを経営していた祖母が、所有していたものだった。
KKとだけ書かれたシンプルな黒一色のアルバムは、
ジャズアルバムだった。
高校受験の間…何となくかけていたアルバムは、いつのまにか…
流れていなければ、落ち着かなくなる程の…なくてはならない音になっていた。
無事に受験が終わった…ある日。
明日香は、決心した。
CDのジャケットの裏に、載ってある電話番号を見つめながら。
アルバムの中にある1曲。
マイフーリッシュハート。
という曲に、心を奪われていた。
恋は、まるで夢のようだから…
夜と夢の間で迷わないで、
あたしの恋心。
恋の痛みなんて知らない。
ただ、夜と夢の間というイメージが、
明日香には、大好きな夕暮れを思わせた。
電話をしたら、長いコールの後…どこかの事務所に通じた。
電話に出た事務的な社員に、KKについて尋ねると、その事務員は知らず、
次にかわった社員が、少し考え込んだ後…もう解散したことを告げた。
だけど、
歌は聴けるかもしれない。
思い出した社員は、名簿をめくり、確認すると、
今、KKがいる場所を教えてくれた。
電話番号は分からなかったけど、KKが解散する前に、演奏場所として建てた…
BARの住所を、ゲットすることができた。
ネットで検索すると…明日香の通う学校から、そんなに離れていないことが、わかった。
次の日。
授業の上の空で、家から持ってきたKKのCDを…机からチラッと出すと、下を見ては、
明日香は、軽い興奮状態になる。
我慢できない。
明日香は、授業がすべて終わると、
胸にCDを握り締めたまま、教室を飛び出した。
「明日香!どこ行くの!」
今日は、部活をさぼろうと考えていた里美をおいて、明日香は走り出した。
里美の声など、耳に入っていなかった。
廊下を駆け抜ける明日香は、慌てていた為、
角から出てきた生徒と、ぶつかりそうになる。
しかし、生徒は身軽な動きで、それをかわした。
「す、すいません!」
立ち止まり、頭を下げる明日香に、
生徒は微笑みながら、
「大丈夫」
と、一言だけ言った。
また頭を下げ、走り去っていく明日香の後ろ姿を、生徒は見送った。
「明日香!…って、もういない!」
追いかけて来た里美は、
見送っている生徒に気づいた。
「高橋くん…」
もしかしたら、学校で一番最初に、駅に着いたかもしれない。
帰る方向とは、反対方向の為、切符を買おうとするけど、
小銭をなかなか出せない。
それ程、興奮し過ぎて、気が焦っていた。
電車が来た。
何とか買えた切符を、改札に通し、
明日香は、電車に飛び乗った。
次の駅で、地下鉄に乗り換え、
降りた駅から、改札を出た明日香は、
目の前に聳える山に、圧倒された。
こんな所に、BARという所があるのだろうか。
まだ、比較的なだらかな道を、明日香が歩いていると、
山に夕暮れが訪れた。
オレンジの光のシャワーに、あらゆるものが、満遍なく染められる中、
一際、輝くものがあった。
明日香は、光り輝くものに、引き寄せられるように、山道を歩き出した。
それは、木造の扉にかかった…一枚のプレートだった。
クローズとなっている扉。
其処こそが、KKだった。
深呼吸をし、意を決して
開けた扉…BARという空間に、呆気に取られてしまう。
扉を開いたまま、立ち竦む明日香に、
誰かが、後ろから声をかけてきた。
「何か、御用?」
はっとして振り返ると、長身の阿部がいた。
阿部の高さに見上げながら、さらに呆気に取られてしまう。
そんな明日香のことを、訝しげに見ていた阿部は、あるものに気付いた。
明日香が、ぎゅっと抱き締めているCD。
阿部はああと納得すると、店内に向って叫んだ。
「ママ!ママのファンが来たよ!」
その声に、カウンターの奥から、姿を現した人物は…
CDのジャケットよりも、年は取っているけど、
紛れもなく、
あの人だった。
明日香を、ここまで導いた歌声の人。
「今は歌ってないの」
明日香の腕の中のCDを、目を細めて見つめながら…
恵子は、呟くように言った。
しばらく続く、長い沈黙…。
そんな空気に気を使って、慌てて阿部が、言葉を切り出した。
「ここBARだけど…ママ、コーヒーあったよね」
「コーヒーはあたし用」
恵子は視線をCDから、明日香に向け、じっと瞳を見つめた。
そのあまりにも強い視線に、明日香は俯き、無言になってしまう。
「ブラックだけど…いい?」
恵子の言葉に、
明日香は顔を上げた。
恵子は微笑み、
「まずは座って」
「は、はい!」
慌てて、明日香はカウンターに座った。
恵子は、コーヒーカップを棚から取り出した。
カップに、コーヒーが注がれる。
「はい。どうぞ」
明日香は、置かれたカップを、両手で持つと、
緊張して、震えながら飲んだ。
苦い。
思わず顔をしかめる。
恵子は苦笑すると、
「歌を聴きにきた…だけじゃないわね?どうして、ここがわかったの?」
明日香は話しだした。
昔、祖母が経営していたカフェに、あなたが来られた時、
祖母が、このCDを手に入れたと。
恵子は…
CDを明日香から借りると、じっと無表情に見つめていた。
やがて、フッと笑うと、
CDを明日香に返した。
しばらく、無言が続く。
恵子は、徐に煙草を取り出すと、火を点けた。
煙がゆっくりと、店内に漂う。
「昔の話よ…」
恵子の指先、に挟まれた煙草の先…
赤い炎が、明日香には、暗いカウンターの中で、とても悲しげに思えた。
恵子は語り出した。
やっと出せたCDは、まったく売れなかった。
自主制作に近い為、アルバムは、自分で売らなくてはならなかった。
商店街で、ダンボールのステージの上で、歌ったけども…。
忙しい主婦たちは、見向きもしてくれない。
疲れ果て、いっしょに付いてきた…メンバーの健司とともに、帰路につく。
両手に抱えた紙袋が、重たい。
自分たちのアルバムだから、捨てるわけにはいかなかった。
まったく減らない重さが、自分たちの限界のように感じ、恵子の気持ちは沈んでいった。
しばらく歩くと、目の前にカフェがあった。
流れてくるジャズが、心地よくて、
疲れ果てた2人は店に入り、少し休むことにした。
テーブル席が7…後はカウンターという狭い店内。
奥のテーブル席には、女性が1人。
後は、若いカップルばかり。
カウンターは、ほぼ埋まっていた。
2人は、あいている一番入口寄りのテーブル席に、座った。
注文を取りにきた…優しそうなおばあちゃんの笑顔が、さらに心地よかった。
商売なのは、わかっているけど、さっきまでの冷たい視線に、比べると、
どれだけ優しいことだろうか。
これこそ、接客業だなと、恵子は受け取ったおしぼりで、手をふきながら、
感心した。
店内は、シンプルで余計な装飾がない。
ただ、壁に飾っている数枚の、ブルーノートのレコードジャケットだけが、空間を演出していた。
「ケニー・バレルか…」
健司が呟いた。
ケニー・バレルのミッドナイト・ブルー。
レコードジャケットの中では、最高にクールなデザイン。
恵子は、コーヒーが来るまで、その淡い色のジャケットを眺めた。
ジャケットを眺めていると、コーヒーを運んできたおばあさんは、恵子の足元にある紙袋から、覗いた大量のCDに、気付いて…
このCDは、何かときいてきた。
恵子が説明すると、
おばあさんは、コーヒーをテーブルに置いた後、じっと恵子の顔を見つめた。
程なくして、
おばあさんは、笑顔になると、
一枚買うと言いだした。
恵子は驚いた。
嬉しい言葉であるけど、
自分の分身であるCDを、同情で買ってほしくなかった。
断る恵子に、おばあさんはこう言った。
「出会いは、一期一会だよ。それに…いい歌手は、顔を見ればわかる」
おばあさんの顔はさらに、優しくなり、疲れた恵子を包む。
「あんたは、いい歌手だよ。間違いない」
その後、おばあさんは、恵子の手を握ると、
ぜひ買いたいと、力強く言い、満面の笑みを見せた。
「それじゃ悪いから…。その場で、歌うことにしたの…」
恵子は、煙草の灰を落とした。
「健司と2人だったから…ペットと歌声だけで。そしたら…そこにいたお客さんまで、買うって!今までで、一番売れたわ」
恵子は笑う。
明日香は、唇をきゅと引き締めると…カウンターから身を乗り出し、
「このアルバムの!…歌に寄り添うような…やさしい音が知りたくて…。トランペットと書いてあるから、他のアルバムも調べたけど…音が違うんです!やさしくて、消えそうなのに、暖かい。あたしは、この音が知りたくって…」
感情が、溢れてきそうな明日香の言葉を、
ただ黙って、きいていた恵子は、
一言だけ…。
「ペットよ」
発すると、再び煙草を吹かした。
明日香は、目を見張る。
「ミュートをつけたペット」
煙草を灰皿にねじ込むと、
恵子は、カウンターから出た。
ステージの右奥から、何かを持ってきた。
それは、古びた楽器ケース。
カウンターの上、明日香の横で開けた。
トランペットが入ってあった。
「あのアルバムで、使ったペットよ」
恵子は、それを明日香に差し出す。
「知りたければ、これをあげる。言葉では伝えられないから…あなた自身が感じるしかないわ」
「え...」
「もう歌ってはいないけど…教えることはできるわ。明日からでも、教えてあげる。店が開くまでなら、時間があるから」
突然の恵子の言葉に、戸惑い、言葉がでない明日香。
中に入ってあったトランペットは…きちんと、手入れされているからなのか…
ものすごく綺麗に、輝いていた。
シンデレラのガラスの靴は、多分…こんな風にキラキラしてるんだろうなと、明日香は思った。
恵子は、トランペットに見とれる明日香に、自然と微笑んでいた。
あたしも昔は…。
恵子はそんな感傷が浮かんだ自分に、苦笑した。
「ただし…マウスだけは、自分のを、買ってちょうだい」
恵子は視線を、明日香とトランペットから外して、
呟くように言った。
「マウスは…あいつの口づけだから」
まだ、あまり吹けない。
原田が、イントロを軽快に弾くと、
いきなり、リズムがスウィングする。
曲は、CMで昔聴いたことがあるとの理由で…
BYE BYE BLACKBIRD。
お小遣いをためたお金で、マウスピースを、楽器店に買いに行った。
初めて入る楽器店に、ドキドキしながら、明日香はマウスを選んだ。
興奮状態のまま、明日香は帰りに、その隣にあるCDショップに飛び込んだ。
真っ先に、ジャズコーナーを覗き、ジャケットが気に入ったという理由で、
1枚のCDを購入した。
そのアルバムに入っていた曲。
マイルスディビスのラウンドアバウトミッドナイト。
赤と黒の中でトランペットを持ち、佇むジャケットは、
まるで、夕焼けのように綺麗。
それが、理由だった
恵子は呆れた。
阿部がアルバムをみて、頷いた。
「名盤ですね。全部スタンダードだ」
「スタンダード?」
明日香の問いに、阿部はこたえた。
「音楽。特に、ジャズをやっているやつは、みんな知っている曲のこと」
恵子は、曲名を見ると、
「これからやりましょう」
本当は、KKのアルバムからやりたかったけど…
恵子の言うことには、逆らえない。
拙い音で、明日香は吹き出す。
あっという間に、時間は過ぎ…練習は終わった。
明日香がステージを降り、カウンターでトランペットをしまうのと、同時に、
音を立てて、扉が開いた。
7時ちょうど、開店時間だ。
お客さんが入ってくると、店の雰囲気が、一瞬にして変わる。
それは、雰囲気だけではなく…阿部たちの演奏も。
営業の始まりを告げるかのように、原田が鍵盤を激しく叩き、ピアノがいきなりスウィングする。
3人の先程までと違う本気が、店内に響く。
軽快な音だ。
明日香は、ステージに微笑みかけると、カウンターでドリンクを作り出す恵子に、頭を下げた。
「またね。気をつけて、帰りなさいよ」
「はあい。おやすみなさい。ママ」
扉を開け、外にでた明日香は、今聴いていた3人の音の余韻にのるように、
軽やかな足取りで、駅へと向った。
駅までの真っ暗な道も、
音楽にのっていれば、不思議と怖くなかった。