トランペット
「ふぅ…」
店の準備に追われる恵子が一息ついていると……
健司が近づいてきて…右手に持ったものを恵子に、突き出した。
それは、トランペットだった。
新品の新しいトランペット。
「どうしたの?」
恵子が、目を丸くすると、
健司は照れたように笑い、
「いいだろ?最高のやつだ!でも…金がないから、月賦で買ったんだ」
恵子はクスクスと笑い、
「見栄張って…ローンまでしなくても。他にあるでしょ…トランペットは」
健司は、右手に持った新品のトランペットを見つめた。
「他のは安物だ。音が違う!それに、見栄じゃねえよ。決意だ。絶対、後戻りしないと」
健司は、トランペットを恵子に向けた。
「一生…こいつとお前と…一緒にいるという誓いだ」
健司は笑い、
「それに…今度、お前とレコーディングするだろ?最高のお前の歌に、最高の音を残してやるよ!永遠に残る音を!」
また照れたように笑うと、健司はそれを隠すかのように、恵子に背を向け、
ステージに向かう。
恵子は、はっとして、
ステージに振り返った。
ステージ上には、武田や原田はいたけど、
健司はいなかった。
恵子が、ため息をつくと、
店の扉が開いた。
「山田さん…来るんだろ?今日は、俺が吹くよ」
店内に入ってきたのは、
啓介だった。
ほぼ貸切状態の店に、
啓介のブロウが、響き渡る。
練習を終えた明日香は、カウンターに座り、
音に、身を任せていた。
「まだ帰らなくていいの?」
カウンター内で、ドリンクをつくりながら、
恵子はきいた。
「大丈夫です」
明日香は、微笑みながらも、
全神経を、啓介の音に集中させていた。
啓介の音は、聴き逃してはいけない。
明日香にとって、とても勉強になる…特別な音だった。
そして、啓介の音に、身を任せていると……心が安らいで、嫌なことを忘れられた。
恵子は…
そんな明日香の姿を、
かつて、健司の音を同じように聴いていた…
自分に重ねていた。
その目線が、
明日香の隣に置いてある楽器ケースを、とらえた。
恵子はフッと、自嘲気味に笑った。
あんなに大切なものを、
あなたは置いていった。
啓介のサックスが、すすり泣く。
恵子はステージを見、
微笑んだ。
あの子は、そんなことはしない。
できない…優しい子…。
だから、
少し、恵子には心配だった。
何かの拍子で……
壊れることはないだろうか。
力強い音こそ…本当は、繊細なのだ。
それだけが…
息子に対する不安だった。
演奏が終わり、
拍手の中、啓介はステージを下りた。
真っ直ぐに、カウンターに向かい、
座ると、ワイルドターキーの入ったグラスが置かれた。
「お疲れ様」
恵子の笑顔に、啓介は笑顔で返すと、グラスを手に取った。
氷を転がしながら、啓介は目をつぶった。
ステージ上では、ピアノトリオとなった武田達の演奏が、始まった。
「素晴らしい…」
啓介の感嘆の呟きに、
明日香は振り返り、
ステージを見た。
まったく無駄がなく、
その癖、少し今までと、違うこともする。
彼らの音楽は、いつでも新鮮だった。
聴き惚れている明日香に、恵子が言った。
「時間、大丈夫なの?」
その言葉に、明日香ははっとして、携帯の時間を見た。
「やばい」
明日香は、カウンターから立ち上がると、鞄と楽器ケースを持って、店を出ようとする。
「途中まで、一緒にいこう」
啓介はそう言うと、一気にターキーを飲み干し、グラスをカウンターに置いた。
「今日の夜遅く…アイドルのレコーディングに、参加しなければならないから…」
啓介も立ち上がり、
驚いている明日香を追い抜き、
「行こうか」
扉の前で、微笑んだ。
店を出て、駅までの道を歩く啓介。
少し離れて、後ろを歩く……明日香。
少し空気が重い。
明日香が、無理やりでも、何か話そうとした刹那、
「最近どう?今度、音楽祭に出るんだって?」
啓介が、話しかけてきた。
「あ、えっと…」
いきなりで、口ごもる明日香に、
啓介は振り返り、優しい視線を送りながら、
「曲とか決まったの?」
「あっ、はい!一応は…」
「頑張ってるね」
啓介は、体を前に戻した。
「え…まだまだ…」
「努力が、音に出てるよ」
啓介と明日香は、歩き続けた。
「明日香ちゃんの音は、素直だね。今日、何かあったのかな?って…そんなこともわかる」
啓介は足を止めたが、振り返らずに、
「3日前…何かあった?」
「え…」
明日香も、足が止まった。
いや、動けなくなったのだ。
3日前…明日香は学校で、同じ学年の高橋に、襲われていた。
「ひどく、悲しくて、泣いてるんだけど…」
啓介はゆっくりと、振り返った。
「その悲しみは…自分のではなく、誰かの為のもの」
高橋は、里美の元彼だった。
「誰かの為の…優しい音。それが、明日香ちゃんの音なんだね」
啓介の言葉に、
明日香は、どう返していいのか…わからなかった。
戸惑っていると、駅に着いた。
「俺…二番線だから」
明日香は一番線だ。
手を上げて、去っていく啓介に、
明日香はやっと、正気に戻って、
思わず叫んだ。
「啓介さんの音!いつも、感動してます!」
「ありがとう」
啓介は微笑みながら、
明日香とは、違う電車に乗っていく。
明日香が、手を振ると、
啓介はずっと笑顔のまま、
軽く手を振った。
電車は、発車した。