第2部 ミュートの安らぎ
霞がかかったような店内に、恵子はいた。
kk…
ダブルケイという名のbar。
「これ、置いていくのね…」
恵子は、カウンターに置かれたトランペットを、
そっと撫でた。
「いらないからな…」
健司が呟いた。
最後のタバコに火をつけた瞬間、
店の扉が開いた。
逆光の中、佇む細身の女。
安藤理恵。
恵子から、すべてを奪っていく女。
理恵は、店内を一瞥すると、すぐに消えた。
恵子を、見ようともしないで。
「待つのが、嫌いな女だからな…」
健司は、吸いかけのタバコを、灰皿にねじ込むと、
カウンターから立った。
「俺を、憎んでもいい」
「お前に、憎まれている方が…俺の力になる」
健司は、店内を見回した。
「この店…そして、お前」
健司は、恵子を見つめた。
最後の視線…。
「すべてを捨てないと…俺は…あそこに、たどり着けない」
健司は、扉の向こうへ歩き出した。
もう…恵子を見ることはない。
扉の向こう…
理恵のもとへ。
静かに閉まる扉。
残されたトランペットに、
残された女…。
今…
タブルケイは、一人になった。
「どうして、姉さんが引き取るんだ!」
阿部の怒声が、ダブルケイに響き渡った。
「そんなに大声だしたら、びっくりするじゃない」
恵子の腕の中で、眠る赤ん坊。
安藤啓介。
健司と理恵の間に、産まれた子。
啓介が、目を覚ました。
「ほら、起きたじゃない。ごめんなさいね」
恵子は、啓介をあやす。
「見ろよ!こいつの目!あの女にそっくりだ!あの冷たい目に!」
「赤ん坊に、そんなこと言うものじゃないわ」
恵子の笑みに、これ以上ない笑みを返す啓介。
「この子は優しいわ。だって、こんなに笑顔が、素敵なんですもの。まるで天使のようだわ」
「あいつらの子供なんだ!ほっといたらいい!誰かが面倒みるさ」
「誰が?両親はいないのよ」
理恵が、自ら死を選んだ後、
健司も後を追うように亡くなった。
「だからといって、姉さんが…」
「この子に、罪はないのよ」
Midnight Blue。
この国は、夜さえ明るく、
ほんのり淡いブルー。
真っ暗な夜なんて、あるのかしら。
夕焼けを、追いやった夜の中、
香月明日香は、ネオンに飾られた街並みを、歩いていた。
学校から一旦、家に帰ると、デニムのパンツに着替え…明日香は、市で一番栄えている街の中心部に、向かった。
音楽を教えて貰っている…ママの息子であるサックス奏者のライブを、見に行く為に。
演奏は、店で聴いたことはあったけど、
内と外では、違うらしい。
繁華街から、少し離れた雑居ビルの地下。
階段を降り、ライブハウスの扉を開けた時、
明日香は、新たな運命と出会うことになる。
咲き誇る薔薇のように美しく、
散りゆく桜のように潔い…一人の女に。
河野和美。
もう一人のK。