黄昏の中の憂い
体育館と南館をつなぐ、広い渡り廊下に向う為、
香月明日香は全力で、走っていた。
いつもより遅れている。
渡り廊下は正門から離れている為、放課後はほとんど人が、寄り付かない。
でも、そこからは、夕焼けに照らされたグラウンドを、一望することができた。
部活を眺める為。
特にサッカー。
躍動するリズムは、どこか音楽を想像させた。
いつのまにか興味を持った…音楽。
明日香は、グラウンドの動きを眺めながら、
リズムの中から、メロディを探すことが、日課となっていた。
校舎内を走りぬけ、
激しい鼓動を抑えながら、渡り廊下に着いた。
校舎から飛び出すと、
夕焼けに染まった体育館と、目の前に広がるグランド。
その少し向こうに広がる山々さえ、赤い。
美術の授業の時、明日香はこの景色を描こうとしたけど…描けなかった。
いつも見ている癖に、毎日照らされてる癖に、
単なる赤や、オレンジとは違う光の色…。
いや、光が大気に反射して、色を出しているなら…
空気というキャンパスに、太陽が塗った色という光。
夕陽に照らされてる自分も、キャンパスなんだ。
明日香は、大きく息を吸い込んだ。
目をつぶると、聞こえてくる…
グランドに響くバットの快音に、駆け抜ける足音。
すべてが想像できる…
いつもと、変わらない風景のはずだったのに。
目を開いた明日香の、動きが止まってしまう。
いつも一人のはずのその場所に、誰かがいた。
男の子。
吹き抜ける風と、照らす夕日が、男の子を…淡く浮かび上がらせていた。
それは……
明日香にとって、幻想的で、近寄り難く感じさせた。
男の子。
手摺りの佇む男の子の周り…そこだけが、周りのオレンジの光より、さらに濃く…
まるで、夕陽のスポットライトに照らされてるように、輝いていた。
それは、手を伸ばせば、掴める…夕陽そのものに、思えた。
男の子の表情は、わからないけど、
なぜか…
とても切なく、
泣いているように感じた。
それは、もうすぐ沈んでしまう夕陽のように…。
消えることを、おそれているみたいに。
夕陽はまた、明日もあるというけど…、
昨日と今日が同じとは、限らない。
ただ…男の子は、グランドを見つめながら、悲しげだった。
だけど、その悲しげな姿に、
どこか切なさと、美しさを、明日香は…感じ取っていた。
ほんの少しだけでも…立ち止まってしまった自分に驚き、戸惑いながら、
明日香は、男の子から少し距離をとり、
グラウンドを、眺めることにした。
渡り廊下は大体、マンションでいうと三階くらいの高さがあり、広々としたグラウンド上の人々の動きを、眺めるには、ちょうどよかった。
歓声が、一際熱くなる。
サッカー部のエース…高橋にボールが、渡ったからだ。
明日香とは、同じ学年であり、クラスはちがうけど、その人気、知名度は…学校中で、知らない者は、いないくらい有名だった。
リズムが変わる。
明日香は、古くて少しガタガタする手摺りを引きちぎるような勢いで、
体をぶつけた。
足元を見ず、ただ相手と、ゴールだけを見据えた動きは、
まるで音の旋律のように、
次々と人を抜いていく。
そして、自らのソロは終わったとばかりに、
隣を併走していた味方の選手に、絶妙なパスを出す。
チッ。
ボールを奪おうとした選手の舌打ちが、きこえてきそうだ。
ソロは終わらなかった。
ほんの少しのアクセント。
ボールは再び、高橋の足元に引き寄せられるように、戻っていく。
甲高い声がした。
ゴールネットが、天に帰ろうとするかの如く、ボールは、ネットに突き刺さった。
高橋の足から、煙でも立ち上っているような…錯覚を覚えるシュート。
ゴールキーパーは、一歩も動けず、しばらくして、推進力を失ったボールが、キーパーの足元に転がった。
高橋は、シュートが決まっても、当然とばかりに、表情を変えず、クールにゴールに背を向けて、歩き出す。
やることは終わった。
その姿は、自分のパートは終わったからと、
観客に背を向けて、ステージを去る…帝王マイルス・ディビスを彷彿させた。
マイルス・ディビス…。
明日香の目指す…音を奏でる音楽家。
クール過ぎだ。
と…普段の明日香なら、知ったかぶって、分析するところだが、
「あっ…。ゴール…決まったんだ…」
シュートが決まったことさえ、認識できなかった。
見ていても、見ていない。
(どうしたんだ!あたし!)
自分の頭を、叩いてしまった明日香は、
近くに男の子がいることを思い出し、手を止めて、
徐に…隣を見ようとした。
グラウンドでは、
高橋が、ハーフラインに戻るところだった。
明日香の視線が、男の子をとらえようとした瞬間、
校内にチャイムが鳴り響き、部活の終了を告げた。
グラウンドから引き上げてくる高橋と、一瞬、
明日香は目が合ったように感じた。
首をひねり、
もう一度、高橋の方を見たけど、
もうこっちを、見てはいなかった。
明日香は、グラウンドにある時計に目を移した。
(やばい!)
明日香はいきなり、慌て出した。
(五時半だ!)
手摺りから慌てて、体を離した明日香の目が、
勝手に、意識を離れて、男の子を映し…明日香の記憶に、焼き付けようとする。
クローズアップされたかのように、夕陽に照らされ、あどけなさが残る…
少女のような綺麗な横顔が、明日香の頭に、飛び込んでくる。
睫が長く、憂いを帯びた表情。
明日香の心の奥が、観察し、報告する。
この男の子は…特別だ。
戸惑い、惹かれる明日香の目が、男の子から離れない。
その刹那、
古い…手で回す映写機が、映し出す映像のように、スローモーシュンで、
男の子はゆっくりと、明日香の方に、顔を向けた。
綺麗な少年…から、明日香に向けられた
やさしい眼差しと微笑み。
先ほどの悲しげな表情とは違い、…とてもうれしそうに…。
明日香は驚きながら、
映写機の回りが、突然よくなった…早回しの映像のように、
明日香の意識の上で、再生される。
(なんて…綺麗な人)
明日香の全身が、駒送りのような動きとなり、
スローモーションのように、渡り廊下を後にした。