未来へ続く音
「今日は、お昼までだから、来ないと思ってたわ。泣き虫さん」
七時は、まわっていたけど、
恵子は、突然ドアを開けた明日香に、いつものように、コーヒーをいれてくれた。
「今日は、おめかししてるじゃない」
いつもと違い、私服に着替えた明日香に、恵子は微笑んだ。
明日香は一旦、家に帰り、
今できる最高に、おしゃれな格好をしていた。
「ママ!あたし、歌いたいの!本当は、ママのように!トランペットを、吹きたかったのは…やさしさを知りたかったから。トランペットは、口づけの優しさ…愛する人への。あたしには、まだ…そんな風に吹けないけど…歌いたいの!ただ、ママのように歌いたいの」
恵子は、目を見張り、
やがて、
優しく微笑んだ。
「じゃあ。何か歌えるのかい?」
カウンターに座っていた啓介が、グラスを傾けながら、きいた。
「あれなら、歌えるわ!マイフーリッシュハート」
明日香は、ステージに向って、歩く。
お客さんがいるテーブル席をすり抜け、
演奏が終わった、一瞬の隙に、
ステージに上がった明日香は、一言。
「マイフーリッシュハート」
阿部は驚いたが、
すぐに苦笑し、原田達と、アイコンタクトを取った。
明日香は、静かに切なく、
でも、
力強く、歌い始めた。
恋は、まるで夢のようだから、
迷わないで、
あたしの恋心。
歌うこと。
それが、
新しいあたしの始まり。
ゆうと出会えて、
あたしが得たこと。
ゆうとの口づけの優しさが、あたしに…歌う力をくれた。
あなたへの切なさを、
あなたへの気持ちを、
あたしは、歌の中に、残していけるから。
想いは、終わらないから。
例え、
時が過ぎても、
この想いは…
あたしの体に、染み込んでいるから。
いつでも、この気持ちを思い出せる。
歌として、表現できる。
「ママ…」
啓介は、カウンターにグラスを置いた。
「俺を生んだお袋は…天才だった。音楽も、あの人を愛した…でも、あの人は、音楽を愛さずに、自分の才能と…歌うことに絶望して、死んだ」
啓介は、明日香の歌声を聴きながら、
グラスを見つめた。
「俺を育てた、あなたは…音楽を愛したが…」
啓介の言葉の後を、
恵子は続けた。
「愛する人をなくして…歌えなくなった。いいのよ。あたしは、音楽に愛されなかった。でも…」
恵子はカウンターから、ステージ上を見、
「あの子はまっすぐで、素直」
明日香の歌は決してまだ、うまくはない。
でも、
まっすぐで、心地よい歌声。
恵子と啓介は、自然に微笑んだ。
「音楽をやるやつには、いろいろいる。もてたいやつ、格好つけたいやつ、有名になりたいやつ…自分が楽しければ、いいやつ。天才だと、勘違いしてるやつ。そして、俺みたいに何かを…親をこえたいやつ!」
「あの子は…あたしに、なりたいんでしょうね」
恵子は、クスッと笑う。
明日香の歌が、終わった。
「仕方ないわね」
恵子は、カウンターをでて、ステージに向う。
ゆっくりと、ステージに上がり、歌い終わった明日香の頭を撫で、
そっと、抱き締めた。
「よかったわ…とっても、素敵だった」
恵子は、明日香にウィンクし、
「歌手…香月明日香の、誕生祝いに、一曲…プレゼントしてあげる」
恵子の言葉に、
店中の人が驚き、
騒めく。
恵子が歌うなんて…。
恵子は、後ろを向き、
「大した演奏じゃなかったら、減給だからね」
阿部達を、冗談まじりで睨む。
「曲は、ジャズじゃないけど…キャロルキングのナチュラルウーマン」
KKに、歓声が沸き起こった。
恵子が、マイクの前に、立つと、
その隣に、
啓介が立った。
「音…必要だろ?」
啓介は、アルトサックスを掲げた。
「だけど、俺は、おやじのように、甘くはないぜ」
啓介の言葉に、
恵子は苦笑した。
「生意気ね」
恵子の体が、カウントを取ると、ゆっくりと、歌い出した。
まるで、
初めて歌う、少女のように。
戸惑い…
そして、喜び、
次第に、
震え、
嬉しさが溢れてくる。
この歌は、愛を知って、
女の子が、女になる歌。
だけど、
恵子は、
それ以上を、歌を通して、明日香に語りかける。
愛には、いろいろあるわ。
一途な愛。
幸せな愛。
悲し過ぎる愛。
一方通行な愛。
他人を傷つける愛。
押し付けがましい愛。
失した愛…。
これからの愛。
すべてが、
あなたを、成長させてくれるから…
決して、
愛することから、逃げないで。
恵子は歌いながら、苦笑したかった。
それは、あたしのことね。
逃げてたのは、あたし。
あたしのことね。
明日香ちゃん…
ありがとうね。
あたしに、会いに来てくれて、
本当にありがとう。
恵子の歌声に、絡みつくように、
啓介のサックスが、鳴る。
健司のトランペットは、
やさしく、包み込むようだったけど、
啓介のサックスは、包み込み、
それを、さらに、前へ押し出すような音。
(未来へ続く音だ!)
明日香は、恵子と啓介のそばで、音を聴きながら、
ただ涙した。
感動とうれしさ。
二人の音…。
そこに、
明日香が、目指すものがある気がした。
歌が終わると、明日香は、恵子に抱きついた。
「ママは、やっぱり特別よ」
その時、
店の扉が開き、誰かが店内に、入ってきた。
「里美!」
明日香は、恵子から離れると、ステージを下り、駆け寄ると、
里美を抱き締めた。
「携帯つながらなかったから…あんたの家に、電話したら…ここだって言うから」
明日香は、ぎゅっと里美を抱き締め、
「あたし…里美の気持ち、全然、わかってあげられなかった…」
里美は、首を横に降り、
「あたしこそ…あんたは、ちっとも悪くないのに…嫉妬してた」
「里美…」
「ごめんね、明日香」
「あたしこそ、ごめんなさい」
やがて、2人は泣きながら、笑い合うと、
お互いの涙を、拭った。
「そうだ!里美。あんた…あたしの演奏、聴いたことないでしょ」
明日香は、ステージの奥にあるものを、取りに行った。
トランペット。
「あら。もう…いらないんじゃないの?」
いたずらぽく、恵子が言う。
「これで最後!」
ステージを下りる恵子と、
ペットを持って上がる明日香が、すれ違う。
マイクの前に立つ明日香。
「何をやるんだ?」
啓介がアルトサックスをチェックしながら、きいた。
明日香は、前を向いたまま、
「バイバイブラックバード」
凛として答えた。
軽快に、演奏が始まる。
明日香は、トランペットに口づけした。
里美に向けて、
ここにいるすべての人に向けて、
音を奏でる。
明日香はまだ、
気づいていない。
彼女の音もまた、
未来へと続く、音だということを。