歴史解説 赤壁の戦いその1(全6回)
これは別に連載している『学園戦記三国志』をより楽しむために、歴史上の三国時代の解説及び考察を行ったものです。本編では省略されてしまった部分やカットされてしまった部分をより詳しく紹介されています。 なお、この解説には独自の考察も含みます。ご了承ください。
作中に“本編”として紹介されているのは、別に連載している小説『学園戦記三国志』のことです。また、これが書かれたのは本編の106話時点なので、紹介されている情報も106話時点までの内容に基づいています。(この解説で本編未登場と紹介された人物がそれ以降の話数で登場することがあります)
↓学園戦記三国志リンク
https://ncode.syosetu.com/n2756fp/
◎まえがき
学園戦記三国志(以下、本編)の第五章にて行われた赤壁の戦いは、西暦208年(以下年はすべて西暦、月日はすべて旧暦)に実際に行われた同名の戦いが元になっている。
まずは古典小説・『三国志演義』(以下、『演義』)において赤壁の戦いはどのように書かれたか、簡単におさらいしておこう。
208年、曹操(本編、ソウソウ、1話より登場)は荊州に侵攻。時同じくして荊州の主・劉表(本編、リュウヒョウ、63話より本格登場)は急死し、重臣・蔡瑁(本編、サイボウ、63話より登場)らは長子・劉琦(本編、リュウキ、63話より登場)を差し置いて、次子・劉琮(本編、リュウソウ、63話より登場)を後継者に据え、彼を説得して荊州は戦わずして曹操に降伏することを決定させる。これに従えない荊州の客将・劉備(本編、リュービ、本編主人公)は逃走。途中、曹操の追撃に遭うが、家臣の趙雲(本編、チョーウン、18話より登場)が敵陣を突破して劉備の子・阿斗(本編未登場)を救い出し、義弟・張飛(本編、チョーヒ、1話より登場)が一喝して曹操軍を追い返し、事なきを得る。(長坂の戦い)
危機を脱した劉備は、義弟・関羽(本編、カンウ、1話より登場)、劉琦と合流。さらに呉(揚州)の孫権(本編、ソンケン、63話より登場)が派遣した使者・魯粛(本編、ロシュク、81話より登場)と面会し、孫権の協力を得ようと、軍師・諸葛孔明(以下、孔明)(本編、コウメイ、75話より登場)を呉へ送り出した。
呉での孫権の家臣の中では、曹操への降伏派が多数を占め、主戦派は劣勢であったが、孔明や呉の将軍・周瑜(本編、シュウユ、21話より登場)の説得により、孫権は開戦を決断。周瑜を大都督(司令官)に任命し、三万の軍を預ける。
曹操は降伏した荊州の水軍を吸収し、百万と言われる大軍勢で長江に布陣したが、周瑜は曹操の計略を利用し、水軍の司令官に任命されていた蔡瑁・張允(本編、チョーイン、63話より登場)を謀殺する。さらに周瑜は火計を用いて曹操軍を破ろうと考え、在野の賢者・龐統(本編、ホウトウ、75話名のみ登場)の連環の計で、敵軍の船を鎖で繋ぎ、一ヶ所に集めさせた。ただ、風向きが火計に適さず、実行できずにいたが、孔明の祈祷で東南の風を呼び起こし、呉将・黄蓋(本編、コウガイ、9話より登場)はこの風に乗って曹操軍に偽りの投降を行い、敵内部より放火。曹操軍の船が炎上する中、周瑜軍は総攻撃を開始、さらに劉備軍も追撃をかけ、曹操は大敗した。(赤壁の戦い)
以上が演義での赤壁の戦いのあらましである。
今回は、この赤壁の戦いが実際にどのように展開され、その後どうなったのかを史料の記述を追いながら、自身の考察も交えつつ解説していこうと思う。
◎序章・劉表政権の誕生
劉表は若くして著名な名士として知られていたが、党錮の禁(名士の弾圧事件)で追及を受けた人物の逃亡を助けたために自身も逃亡する身となった。
党錮の禁が解除されると、劉表は大将軍・何進(本編、カシン、5話名のみ登場)に招かれた。時に43歳(数え年、『劉鎮南碑』による、以下全て数え年)であった。
190年、荊州刺史として派遣された時、彼は49歳。既に壮年期は過ぎ、老境に差し掛かっている時であった。同年、曹操が36歳、劉備が30歳、袁紹(本編、エンショウ、7話より本格登場)・袁術(本編、エンジュツ、8話より本格登場)・孫堅(本編、ソンケン、3話より登場)らも同世代なので、他の群雄から見れば劉表は一回りも歳上であったが、キャリアは浅いという特異な存在であった。
おそらく、劉表はこの荊州派遣を年齢的に残り数少ないチャンスと考えていただろう。彼は荊州に来た時、家臣も兵士もいない状態であったが、荊州豪族の蔡瑁、蒯越(本編、カイエツ、63話より登場)、蒯良(本編、カイリョウ、63話名のみ登場)らの協力を得ることで荊州に基盤を築くことができた。
当時の荊州では無数の勢力が割拠し、朝廷に従わず、半ば無法地帯と化しており、後に劉表の本拠地となる襄陽城ですら他の豪族に占拠されている有り様であった。
襄陽周辺の一豪族に過ぎない蔡瑁らは劉表という錦の御旗を手に入れることで邪魔な勢力を一掃し、自身の権益をより拡大させることができた。劉表は彼ら荊州豪族のおかげで荊州の主になれたが、悪く言えば彼らに担がれた御輿に過ぎなかった。
この状況を劉表も良くは思っていなかったようで、官渡の戦いの折、袁紹だけでなく、曹操とも通じておくようにと蒯越らは助言したが、それに従わず袁紹一本に賭けたのは、少しでも自身の権勢を増すための抵抗だろう。
だが、この決断により、袁紹は敗れて袁氏が滅ぶと、劉表はその同盟者として曹操の次の標的となった。[正史三国志(以下、『正史』。以降、頭に書名のないものは全て『正史』のもの、注も含む)劉表伝、後漢書・劉表伝、劉鎮南碑]
◎劉表の対曹操戦略
かつて曹操は河北を治める袁紹と戦い、その時、荊州の劉表は袁紹と同盟を組み、劉備は袁紹方の武将として曹操と戦った。この戦いの結果、曹操は袁紹に勝利、さらに数年かけて河北より袁氏勢力を一掃した。この辺りの詳しい話は本編第四章及び『歴史解説 袁家の滅亡と博望の戦い』を読んでほしい。
袁氏が滅亡し、その同盟者である劉表、そして劉備と曹操の対決は避けられないものとなった。
『207年、(袁氏との決着をつけるために)曹操が烏丸征伐に向かうと、劉備は劉表にその隙に曹操の本拠地である許を襲撃するよう進言するが、劉表はこれを採用しなかった。後に曹操が帰還すると劉表は劉備の策を用いなかったことを後悔したが、劉備は「天下は乱れ、毎日が戦争なのだからこれが最後の機会ということはありません。次の機会に応じれば残念がるほどのことではありません」と励ました。』[先主伝(劉備伝)]
だが、次の機会が劉表に訪れることはなかった。劉表はこの年66歳、どうもこの頃より容態が良くなかったようである。
この頃、劉備は劉表によって居城を最前線の新野から劉表本拠地の襄陽城の北隣の樊城に移っている。劉備が樊城に移った具体的な時期は不明だが、『正史』によると劉備が徐庶(本編、ジョショ、75話より本格登場)と会見し、孔明の名を知った時は居城が新野であった。また註釈の『魏略』では孔明と出会ったのは樊城の出来事としている。孔明が劉備の軍師となるのは207年の出来事なので、彼を軍師に迎える前後に樊城に入ったのだろう。
劉表の本拠地・襄陽から沔水(川の名)を挟んで北隣に位置するのが樊城、樊城のさらに北にあるのが新野城。それより北は曹操と度々争っている地域だが、おそらく当時すでに曹操領となっていたのであろう。
劉備を最前線である新野から樊へ移したのは、前線指揮官からより広域の司令官へ格上げするためであろう。その具体的な指揮権限は不明だが、劉備軍に加えて新野に駐屯する劉表軍を加えた戦力で曹操を迎え撃つ予定だったのではないだろうか。
また、『先主伝』(『正史』にある劉備の伝記)の注に引く『英雄記』によると、この年か翌年には、劉表は病気が悪化し、劉備に荊州刺史を担当させたいと上奏したという。
この逸話に関連してか、『魏書』には劉表が劉備に荊州を任せたいと申し出、劉備がそれを辞退したという話を載せる。
この逸話は『演義』にも採用されたが、注を引用した裴松之からは、劉表は日頃から子の劉琮を後継ぎにしたいと考えていたのだから、劉備に荊州を与える理由がないと断言している。
だが、荊州を譲るという話は眉唾に思うが、劉備を荊州刺史にしようとした話はあり得るように思う。
まず、この当時の劉表の肩書きを整理しよう。
劉表は190年に董卓(本編、トータク、5話より登場)により荊州刺史に任命され、荊州に赴任した。192年、李傕(本編、リカク、7話より登場)らにより荊州牧・安南将軍に昇進し、196年頃に曹操により鎮南将軍とし、後に督交揚二州(一説に督交揚益三州)となった。
刺史と牧は便宜的にどちらも州の長官として紹介しているが、厳密には違う。
後漢は全土を十三の州(194年に涼州の西部が分割され雍州が設置されて十四州となる。その後も多数の変更あり)に分け、更に州を複数の郡に分け、郡を分けて県とした。現代日本に当てはめると、州が地方、郡が県、県が市町村に該当する。
本来、地方行政は郡の太守(郡の長官)や県の県令(大きな県の長官)・県長(中小県の長官)が務め、州の刺史はそれら地方官の監察、つまり不正等を追及するのが本来の役目で権力はそこまで強くはなかった。後漢中期以降、刺史が地方の反乱鎮圧にあたる等、その権限が徐々に拡大されてはいたが、元々は太守の方が格上である。
しかし、黄巾の乱をはじめとする地方の動乱や刺史・太守の腐敗等を理由に188年に地方安憮を目的に州牧が新設された。
州牧は州刺史の持っていた行政面の監察権に軍事面の監察権を加えた上位互換である。
これに将軍位による軍権が追加され、後漢群雄はその独立的な軍事政権を維持することが出来た。(厳密にはこれに加えて他にも権限が必要になるがややこしいので省略する)
つまり、地方の行政面の管理を担当するのが刺史、それに加えて地方の兵士の管理もするのが牧、実際に軍を動かすのが将軍の役割となる。
これに加えて、劉表は督交揚二州という肩書きを持っている。これは特例的な役職で、本来あるものではないので、具体的な権限は不明である。だが、この督◯州に劉表が本来治めている荊州が含まれていないことから、荊州牧が督◯州と同権限かもしくはそれ以上であることがわかる。つまり、州牧は本来複数兼任はできないのだが、特例として複数の州牧を兼ねたのと同じ扱いということで、この督交揚二州が与えられたということだ。これは事実上の荊州・交州・揚州の三牧兼務と同義に近い役割を担う。
話を戻すが、州牧+将軍位が群雄化するのに必要な役職である。だが、この時劉表が劉備に譲ろうとしたのは荊州刺史。荊州の軍事権は譲ろうとはしていない。
おそらく、劉備に譲ろうとした荊州刺史の権限は本来の行政の監察官の権限を超えるものではなく、自身の子を鎮南将軍とし、荊州刺史の上位者として君臨する予定だったのではないか。さらに言えば刺史の監察対象である荊州各地の太守は劉表の家臣であるから、劉備の権限はさらに縮小されると考えられる。
肩書だけに等しく、劉備からすればそんなに旨味のない条件といえる。結局、劉備はこの申し出は断ったようで、後に劉琮が曹操に降伏する時にこの荊州刺史の印綬を降伏の証として手渡している。また、赤壁の戦いの後、劉備は劉琦を荊州刺史に上奏していることからも劉備が荊州刺史ではなかったことが察せられる。
劉表が劉備を荊州刺史にしようとしたのは他に渡すものがなかったからだろう。劉備はこの時点で予州刺史・左将軍の肩書きを持っている。立場的には劉表の同僚となり、今さら劉表の部下の役職を与えられる相手ではない。それでも劉備に(自分の権力が制限されない範囲で)何か役職を任せるとなったら、かつて自分が就いて今もその印綬を持っている荊州刺史しかなかったのであろう。
そして、劉表が刺史の地位を譲ろうとしたのは、自分が生きている内になんとかして劉備を自分の勢力内に組み込みたかったのだろう。対曹操戦の指揮官の権限と荊州刺史の肩書きで劉備の取り込みを図った。かつては劉備を危険視して用いず、髀肉の嘆の故事を生ませた劉表であったが、自身の死期を悟り、そうも言ってられなくなり、こういった行動に出たのだろう。だが、彼の譲れるものが劉備を喜ばすに足るものではなかった。
だが、蔡瑁ら荊州豪族勢はこの一連の劉表が劉備を格上げして自身の勢力に組み込もうとする動きを快く思わなかったようだ。
『先主伝』の注に引く『世語』にはこうある。『劉備が樊城に駐屯していた頃、彼を招いて宴会を催した時、蒯越・蔡瑁は宴会を利用して劉備の暗殺を図った。劉備は企みに気付き、厠(トイレ)に行くと偽り、密かに逃走した。途中、襄陽城の西、檀溪の水中に落ちたが、愛馬・的盧に「今日は厄日だ、努力せよ」と急き立てると、的盧は飛び上がり逃げ延びることが出来た。』[先主伝]
この話は孫盛(東晋時代の歴史家)から、こんなことがあれば劉表との間に亀裂が入る、あり得ない話だ、と否定されている。だが、これは樊城時代の出来事とあるので、もしかしたら劉表の容態が悪化していた207年~208年頭までに起こったかもしれない。これが劉備の荊州時代序盤~中盤の出来事ならともかく、劉表が余命いくばくもない最終盤の頃ならあり得なくもないのではないか。
自分が生きている内に曹操に対抗するために劉備を勢力に組み込みたい劉表と、それを阻止したい蔡瑁ら荊州豪族勢の攻防が、劉表の容態悪化と相まって、この頃、かなりなりふり構わず展開されていたのではないだろうか。
北部に曹操が迫る一方、東部でも事変が起こる。208年春、荊州の江夏郡の太守(長官)・黄祖(本編、コウソ、63話より登場)が江東(長江東側の呼び名)の孫権によって討たれた。孫権軍は先代の孫策(本編、ソンサク、7話より登場)の頃より度々江夏郡に攻めてきていたが、曹操侵攻の直前についに防衛を担っていた黄祖が死んでしまった。[呉主伝(孫権の伝記)]
既に北部で曹操軍が結集している中でのこの変事は劉表陣営にとって一大事であっただろう。これを受けて劉表の長子・劉琦が行動を起こした。
『劉琦が劉備の軍師・孔明の助言を受けて自ら江夏太守を願い出た。』[諸葛亮伝]
『劉表は初め長子・劉琦を可愛がっていたが、次子・劉琮は蔡瑁の姪を娶ったため、蔡瑁らは劉琮を支持し、劉琦は次第に疎まれていった。劉琦は身の安全を図ろうと江夏太守となった。』[劉表伝、襄陽記]
劉琦本人が願い出たことではあるが、孫権との最前線にあたる江夏太守を劉琦とする判断は劉表が決定したことであろう。後述するが、後に劉琦が病床の劉表を見舞いに戻って来た時に、蔡瑁らが劉琦に対し、「将軍(劉表)が君に江夏の鎮撫を命じ…」と言っていることからも劉表の命であったことがわかる。
そして劉表はこの年に死去する。
黄祖が敗死したのは208年の春、劉表が死去したのは同年の8月のこと。劉表は死の間際まで外へと対策を講じていた。享年67歳。
◎曹操の荊州平定
では、次に曹操陣営を解説していこう。
袁氏が滅亡した今、曹操の次の標的はそれに協力していた劉表及び劉備であった。
208年正月、曹操が鄴(冀州にある都市)の玄武池にて水軍の訓練を行ったのも、長江と無数の支流が流れる荊州への進行準備であったのだろう。
『その曹操は大臣最高位であった三公を統合廃止し、丞相を設置、自身がその位についた。そして同年7月、曹操は劉表征討のため荊州へと赴いた。』[武帝紀]
『この劉表征討において、曹操の参謀・荀彧(本編、ジュンイク、16話より登場)は「今、中華の地が平定された以上、南方は追い詰められたことを自覚しております。公然と宛・葉に出兵する一方、間道づたいに軽装の兵を進め、敵の不意を突くのが良い」と進言した。』[荀彧伝]
葉県・宛県は荊州南陽郡に属し、曹操の本拠地・許都(許昌)からこれらの県を通過すると、かつて劉備が滞在していた新野県、さらに南下すると劉表の本拠地・襄陽へ至る。
この荀彧の言葉に従い曹操は荊州近郊に大部隊を集結させる。
『曹操はこの劉表征討に先立って、まず張遼(本編、チョーリョー、11話より登場)を長社(予州穎川郡に属す)に、楽進(本編、ガクシン、9話より登場)を陽翟(予州穎川郡に属す)に、于禁(本編、ウキン、10話より登場)を潁陰(予州穎川郡に属す)に駐屯させた。』[張遼伝、楽進伝、趙儼伝]
『この後、劉表征討に及んで張遼らの部隊を編成しなおし、趙儼(本編、チョウゲン、41話より登場)を章陵太守(荊州北部の郡)に任命し、都督護軍として、于禁、張遼、張郃(本編、チョーコー、18話より登場)、朱霊(本編、シュレイ、44話より登場)、李典(本編、リテン、10話より登場)、路招(本編、ロショウ、44話より登場)、馮楷(本編未登場)の七軍を統括させた。』[趙儼伝]
なお、本編ではこの陣容とほぼ同じ人員が南校舎征討軍の前軍として登場しているが、ただ馮楷のみ未登場となっている。馮楷は『正史』でもこの一ヵ所にしか登場せず、活躍も経歴も何もわからないため、代わりにコウラン(高覧)(本編、コウラン、54話より登場)を登場させた。張遼らと同列に語られているので、当時はそれなりに名の通った武将だったのだろうが、記録がないのでどうにもわからない。
これに加えて劉表征討から翌年の荊州戦あたりに参戦した記述のある人物は、曹仁(本編、ソウジン、9話より登場)、曹純(本編、ソウジュン、69話より登場)、賈詡(本編、カク、32話より登場)、婁圭(本編未登場)、程昱(本編、テイイク、16話より登場)、楽進、徐晃(本編、ジョコー、32話より登場)、阮瑀(本編未登場)、陳矯(本編、チンキョウ、102話より登場)、満寵(本編、マンチョウ、55話より登場)らがあげられる。[曹仁伝、曹純伝、賈詡伝、崔琰伝、程昱伝、楽進伝、徐晃伝、王粲伝、陳矯伝、満寵伝]
曹操の主力武将・参謀の多数が参戦しており、官渡の戦い以来の一大決戦を想定していたであろうことが察せられる。
大軍を揃えて葉に進出した曹操であったが、ここで敵の大将・劉表の急死という情報が入る。
7月、曹操が劉表征討に赴き、8月に劉表死去。このあまりにもタイミングの良い劉表急死だが、これが曹操にとって完全に偶然の出来事なのか、はたまた劉表の容態についてある程度情報を仕入れ、狙った上での出兵なのか判断が難しい。だが、その後の曹操の行動を見るに、案外、偶然だった可能性が高いのではないだろうか。少なくともその後の劉備の行動については曹操の予想外であったように思う。
◎劉琮の降伏
『劉表が死去すると、配下の蔡瑁らの支持を得て次子・劉琮が後継者となった。迫り来る曹操に対し、蒯越・韓嵩(本編、カンスウ、79話より登場)・傅巽(本編、フソン、79話より登場)らは曹操に帰順せよと劉琮に進言した。劉琮は「今諸君らと共に荊州全土を抑え、先代の事業を守って、天下の情勢を観望しよう。どうして良くないことがあろうか」と言った。
傅巽は「臣下の荊州が皇帝(を擁する曹操)に対抗するのは道理に外れ、劉備をもって曹操に対抗するのは難しいでしょう。中央に逆らうのは滅亡の道です。劉琮様は御自身と劉備を比べてどう思われますか?」と答え、劉琮は「私は劉備には及ばない」と返した。傅巽はさらに続けて「もし劉備が曹操に敵わないのであれば、荊州を保持していたとしても自力で存立することは出来ません。もし劉備が曹操に勝てるとしたら、劉備が劉琮様の家臣に収まっているはずがありません。どうか劉琮様はお迷いにならないように」と述べた。曹操の軍が襄陽に到達すると、劉琮は荊州をあげて降伏した。』[劉表伝]
一方、長子・劉琦の劉表死去前後の対応は以下のようであった。
『劉表が死去する前、劉表の病状が悪化したと聞き、孝心篤い劉琦は見舞いに訪れた。しかし、蔡瑁・張允は劉琦が劉表と面会し、劉表の気が変わって彼に後事を託すことを恐れ、「劉表様はあなたに江夏の鎮撫を命じられ、東の防衛を任せられました。その任務は極めて重く、今軍勢を放ってここに来られたと知れば、劉表様はご立腹なされるでしょう。親の機嫌を損ない、病を重くするのは親孝行ではありません」と言って、劉琦を戸の外で押し留め、決して中には入れなかった。劉琦は涙を流してその場を去った。』[劉表伝、後漢書・劉表伝、襄陽記]
『劉表が死去すると、後継者となった劉琮は、兄・劉琦に侯の印を授けた。劉琦は怒り、その印を地面に投げつけ、葬儀に参列するふりをして、蔡瑁・張允を討とうと考えた。だが、その時、曹操軍が新野に到達し、劉琮が降伏してしまったので、やむなく劉琦は江南へ逃走した。』[後漢書・劉表伝、襄陽記]
侯の印とは、劉表の持っていた列侯の爵位の証である。当時、後漢には爵位という身分制度があり、列侯は人臣としては最上位(その上は皇族)にあたる。列侯になると封地(領土)を貰え、その地名を取り、○○侯(劉表は成武県が封地であったので成武侯となる)と呼ばれる。そしてその封地は基本的に嫡男に受け継がれる。
つまり、弟の劉琮が劉表の軍勢や荊州を受け継ぐが、兄の劉琦には成武侯を譲るのでこれで納得しろということであったが、劉琦は納得できず、その証である印を投げつけたのである。
劉表の子、劉琦・劉琮については、『演義』では劉琦を温厚な二代目で、この翌年に亡くなることから病弱と描写する。一方、劉琮は劉表と後妻・蔡氏との間の子で、この年(208年)はまだ14歳であったとする。そのため、劉琮は少年のように描かれ、それに引っ張られてか、劉琦も青年のように描かれることが多い。
では、実際にはどうだったのか。年齢については史料がなくはっきりしたことはわからない。だが、劉表の享年が67歳であったことを考えるともっと上である可能性が高い。また、『後漢書』や『襄陽記』によると劉琮はその後妻に蔡瑁の姪を娶ったという(後妻・蔡氏(本編未登場)との子とするのは『演義』の設定)。つまり劉表が荊州に赴任した190年~208年の間に結婚適齢期を迎えていた。そして、それが後妻であるなら190年時点で既に成人していた可能性もある。
劉琦についてはその妻に関して言及がない。つまり荊州豪族の女性でなかった可能性が高いとも言え、190年時点で妻帯者であった可能性が高い。
これらを踏まえると208年時点で二人の年齢は20代後半~40代ぐらいが妥当ではないか。
また、兄・劉琦の性格について温厚なような描写があるが、実際には侯の印を投げつけ、蔡瑁らを討伐しようとする等、気性の激しさが見れる。一方、劉琮は降伏に反対でありながらも、家臣の意見に押され、結局降伏してしまう。実際に大人しかったのは劉琮の方で、だからこそ操り易いと見て、蔡瑁らに担がれることになったのではないだろうか。
◎劉表の遺志と蔡瑁らの思惑
劉表が死ぬと劉琮が後継者となり、曹操に降伏した。
だが、劉表は死ぬ直前まで劉備を樊城に移し、劉琦に東の防衛を任せる等、かなり精力的に対外政策を取っている。果たしてどこまでが劉表の遺志であったのだろうか。
まず劉琮が後を継いだ件だが、これも劉表の生前から合意があったのか怪しい。劉琦は侯の印を受けとると、これを投げつけ、蔡瑁らを討とうとした。もし、劉琮の後継が劉表生前より決まっていたのなら、劉琦が列侯を引き継ぐのも規定路線となり、拒否するのはあり得ない行動となる。
また、病床の劉表を見舞おうと、劉琦が訪ねると、蔡瑁らは劉表の気が変わって劉琦に後を託すのではないかと考え、会わせなかった。
つまり、劉琮後継は、劉表の生前には決まっていなかったか、その危篤寸前に決められ、劉琦(おそらく劉備も)は知らなかったのであろう。
また、劉琮は最初、曹操への降伏を渋っていることから、曹操への降伏も劉表の遺志に背くものであったのだろう。
これについては劉表の武将・文聘(本編、ブンペー、63話より登場)の伝記にもこうある。
『文聘は劉表の大将として北方の防衛に当たった。劉琮が継ぎ、曹操に降伏すると、文聘を呼ぼうとしたが、文聘は「私は州を守れませんでした。処罰を待つのが当然です」と述べ、曹操が漢江(川の名、別名、沔水、漢水とも)を渡るとようやく文聘は曹操のもとへ出頭した。曹操は「どうして来るのが遅かったのか」と訪ねると、文聘は「荊州は滅びましたが、常に漢江によって守備し、領土を保全し、生きては若き劉琮様を裏切らず、死しては地下の劉表に恥じないことを願っておりましたが、計画はどうにもならず、ここまで来ました。悲痛と慚愧の思いに会わせる顔がなかったのです」と涙を流した。曹操は文聘を真の忠臣と呼び、手厚い礼で彼を処遇した。』[文聘伝]
文聘は北方の防衛に当たったとある。樊城より北といえば新野であり、その先は曹操領となる。新野の西側の一帯もあるが、そこでは曹操の進行の妨げとはならない。おそらく劉備が新野から樊城に移った後、新野に入ったのがこの文聘だろう。
ここから読み取れるのは、曹操への降伏は、劉備どころか、劉表方の武将である文聘でさえ予期せぬことであった。
だから、文聘は劉琮から曹操へ降伏するようにという命令が出てもそれに完全に従うことが出来ず、曹操軍への攻撃も行わなかったが、開城もしなかった。曹操軍は新野の脇を素通りし、襄陽に至り劉琮が開城したのを見届けて始めて、文聘も曹操に降伏した。おそらく劉琮の命令が新野に届けられた時点で、それが劉琮の意思なのか信じきれなかったのだろう。
さらに言えば、この時投降した文聘の言葉に、死しては地下の劉表に恥じないことを願う、とあることから、曹操への降伏は劉表の本来の遺志ではなかったことが窺える。
劉表は本来、曹操との戦いを想定しており、降伏は思いもよらないことだった。
東の孫権には長子の劉琦を配置し、最大の敵である北の曹操にはその最前線に文聘を配置し、その後ろに劉備を控えさせていた。
そして、前述の劉琮の降伏説得にあたり傅巽としたやり取りに、劉備が曹操に敵うかどうかという話があることからも、対曹操戦の事実上の指揮官は劉備が担っていたのではないだろうか。
また、文聘に曹操に降った後、曹純と共に劉備を追撃し、長阪にて戦っている。この時の曹操の追撃について、『先主伝』では、曹操は精鋭の騎兵五千を率いて、一昼夜に三百余里の行程をかけて追撃したとある。三百里が約124km(後漢基準)なので、歩兵の行軍速度ではない。同行している曹純が率いていたのは虎豹騎と言われる精鋭部隊で“騎”と付くぐらいなのだから騎兵部隊であったのだろう。
曹操や曹純は騎兵部隊を率い、一日に三百余里の速さで進軍した。それについていったのだから、文聘が率いていたのもまた騎兵部隊だったのではないだろうか。だが、もし文聘が新野に籠城し、曹操軍を迎え撃つつもりなら、馬は餌を消費するだけのお荷物で、騎兵部隊までは必要としない。籠城なら歩兵を中心とした編成になるはずだろう。
もし、文聘軍に騎兵が編入されていたのであれば、劉表は新野に籠城させるつもりはなく、出撃し、平地にて曹操軍と会戦することを想定していたのではないだろうか。
※以下補足、『文聘伝』では、曹操が文聘に兵を授けた(原文、『授聘兵』)とあり、文聘には曹操の騎兵を与えられたようにも読める。だが、曹操の騎兵を割いて降伏したばかりの文聘を指揮官にするのは理由がなく、利にもかなっていない。これは文聘は降伏した時に自身が率いている兵も曹操に譲渡したが、その兵を返され、指揮官となることを許されたという意味だろう。徐晃や張郃等、降伏後に指揮官に再雇用された者にしばしば似たような表現がみられる。
以上の事から家臣主導による曹操への降伏は、亡き劉表の遺志をねじ曲げるものだったと見てよいのではないだろうか。
そして、その決定は襄陽城にいる者たちのみで行われ、劉備、劉琦、文聘といった襄陽外の対外戦争の主力となるはずだった人物たちには事後報告のみという状態であった。