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歴史解説 赤壁の戦いその1(全6回)

 これは別に連載している『学園戦記三国志』をより楽しむために、歴史上の三国時代の解説及び考察を行ったものです。本編では省略されてしまった部分やカットされてしまった部分をより詳しく紹介されています。 なお、この解説には独自の考察も含みます。ご了承ください。


 作中に“本編”として紹介されているのは、別に連載している小説『学園戦記三国志』のことです。また、これが書かれたのは本編の106話時点なので、紹介されている情報も106話時点までの内容に基づいています。(この解説で本編未登場と紹介された人物がそれ以降の話数で登場することがあります)


↓学園戦記三国志リンク

https://ncode.syosetu.com/n2756fp/



 ◎まえがき



 学園戦記三国志(以下、本編)の第五章にて行われた赤壁(せきへき)の戦いは、西暦208年(以下年はすべて西暦、月日はすべて旧暦)に実際に行われた同名の戦いが元になっている。


 まずは古典小説・『三国志演義(さんごくしえんぎ)』(以下、『演義(えんぎ)』)において赤壁の戦いはどのように書かれたか、簡単におさらいしておこう。


 208年、曹操(そうそう)(本編、ソウソウ、1話より登場)は荊州(けいしゅう)に侵攻。時同じくして荊州(けいしゅう)の主・劉表(りゅうひょう)(本編、リュウヒョウ、63話より本格登場)は急死し、重臣・蔡瑁(さいぼう)(本編、サイボウ、63話より登場)らは長子・劉琦(りゅうき)(本編、リュウキ、63話より登場)を差し置いて、次子・劉琮(りゅうそう)(本編、リュウソウ、63話より登場)を後継者に据え、彼を説得して荊州(けいしゅう)は戦わずして曹操(そうそう)に降伏することを決定させる。これに従えない荊州(けいしゅう)の客将・劉備(りゅうび)(本編、リュービ、本編主人公)は逃走。途中、曹操(そうそう)の追撃に遭うが、家臣の趙雲(ちょううん)(本編、チョーウン、18話より登場)が敵陣を突破して劉備(りゅうび)の子・阿斗(あと)(本編未登場)を救い出し、義弟・張飛(ちょうひ)(本編、チョーヒ、1話より登場)が一喝して曹操(そうそう)軍を追い返し、事なきを得る。(長坂(ちょうはん)の戦い)


 危機を脱した劉備(りゅうび)は、義弟・関羽(かんう)(本編、カンウ、1話より登場)、劉琦(りゅうき)と合流。さらに()(揚州(ようしゅう))の孫権(そんけん)(本編、ソンケン、63話より登場)が派遣した使者・魯粛(ろしゅく)(本編、ロシュク、81話より登場)と面会し、孫権(ソンケン)の協力を得ようと、軍師・諸葛孔明(しょかつこうめい)(以下、孔明(こうめい))(本編、コウメイ、75話より登場)を()へ送り出した。


 ()での孫権(そんけん)の家臣の中では、曹操(そうそう)への降伏派が多数を占め、主戦派は劣勢であったが、孔明(こうめい)()の将軍・周瑜(しゅうゆ)(本編、シュウユ、21話より登場)の説得により、孫権(そんけん)は開戦を決断。周瑜(しゅうゆ)大都督(だいととく)(司令官)に任命し、三万の軍を預ける。


 曹操(そうそう)は降伏した荊州(けいしゅう)の水軍を吸収し、百万と言われる大軍勢で長江(ちょうこう)に布陣したが、周瑜(しゅうゆ)曹操(そうそう)の計略を利用し、水軍の司令官に任命されていた蔡瑁(さいぼう)張允(ちょういん)(本編、チョーイン、63話より登場)を謀殺(ぼうさつ)する。さらに周瑜(しゅうゆ)火計(かけい)を用いて曹操(そうそう)軍を破ろうと考え、在野(ざいや)賢者(けんじゃ)龐統(ほうとう)(本編、ホウトウ、75話名のみ登場)の連環(れんかん)の計で、敵軍の船を(くさり)(つな)ぎ、一ヶ所に集めさせた。ただ、風向きが火計(かけい)に適さず、実行できずにいたが、孔明(こうめい)祈祷(きとう)で東南の風を呼び起こし、呉将(ごしょう)黄蓋(こうがい)(本編、コウガイ、9話より登場)はこの風に乗って曹操(そうそう)軍に(いつわ)りの投降を行い、敵内部より放火。曹操(そうそう)軍の船が炎上する中、周瑜(しゅうゆ)軍は総攻撃を開始、さらに劉備(りゅうび)軍も追撃をかけ、曹操(そうそう)は大敗した。(赤壁(せきへき)の戦い)


 以上が演義(えんぎ)での赤壁(せきへき)の戦いのあらましである。


 今回は、この赤壁(せきへき)の戦いが実際にどのように展開され、その後どうなったのかを史料の記述を追いながら、自身の考察も交えつつ解説していこうと思う。



 ◎序章(じょしょう)劉表(りゅうひょう)政権の誕生



 劉表(りゅうひょう)は若くして著名な名士(めいし)として知られていたが、党錮(とうこ)(きん)(名士(めいし)弾圧(だんあつ)事件)で追及を受けた人物の逃亡を助けたために自身も逃亡する身となった。


 党錮(とうこ)(きん)が解除されると、劉表(りゅうひょう)大将軍(だいしょうぐん)何進(かしん)(本編、カシン、5話名のみ登場)に招かれた。時に43歳(数え年、『劉鎮南碑(りゅうちんなんひ)』による、以下全て数え年)であった。


挿絵(By みてみん)


 190年、荊州刺史(けいしゅうしし)として派遣された時、彼は49歳。既に壮年期(そうねんき)は過ぎ、老境(ろうきょう)に差し掛かっている時であった。同年、曹操(そうそう)が36歳、劉備(りゅうび)が30歳、袁紹(えんしょう)(本編、エンショウ、7話より本格登場)・袁術(えんじゅつ)(本編、エンジュツ、8話より本格登場)・孫堅(そんけん)(本編、ソンケン、3話より登場)らも同世代なので、他の群雄から見れば劉表(りゅうひょう)は一回りも歳上であったが、キャリアは浅いという特異な存在であった。


 おそらく、劉表(りゅうひょう)はこの荊州(けいしゅう)派遣を年齢的に残り数少ないチャンスと考えていただろう。彼は荊州(けいしゅう)に来た時、家臣も兵士もいない状態であったが、荊州豪族(けいしゅうごうぞく)蔡瑁(さいぼう)蒯越(かいえつ)(本編、カイエツ、63話より登場)、蒯良(かいりょう)(本編、カイリョウ、63話名のみ登場)らの協力を得ることで荊州(けいしゅう)に基盤を築くことができた。


 当時の荊州(けいしゅう)では無数の勢力が割拠(かっきょ)し、朝廷(ちょうてい)に従わず、半ば無法地帯と化しており、後に劉表(りゅうひょう)の本拠地となる襄陽城(じょうようじょう)ですら他の豪族(ごうぞく)占拠(せんきょ)されている有り様であった。


 襄陽(じょうよう)周辺の一豪族(ごうぞく)に過ぎない蔡瑁(さいぼう)らは劉表(りゅうひょう)という(にしき)御旗(みはた)を手に入れることで邪魔な勢力を一掃(いっそう)し、自身の権益をより拡大させることができた。劉表(りゅうひょう)は彼ら荊州豪族(けいしゅうごうぞく)のおかげで荊州(けいしゅう)の主になれたが、悪く言えば彼らに(かつ)がれた御輿(みこし)に過ぎなかった。


 この状況を劉表(りゅうひょう)も良くは思っていなかったようで、官渡(かんと)の戦いの折、袁紹(えんしょう)だけでなく、曹操(そうそう)とも通じておくようにと蒯越(かいえつ)らは助言したが、それに従わず袁紹(えんしょう)一本に()けたのは、少しでも自身の権勢を増すための抵抗だろう。


 だが、この決断により、袁紹(えんしょう)は敗れて袁氏(えんし)が滅ぶと、劉表(りゅうひょう)はその同盟者として曹操(そうそう)の次の標的となった。[正史(せいし)三国志(以下、『正史(せいし)』。以降、頭に書名のないものは全て『正史(せいし)』のもの、注も含む)劉表(りゅうひょう)伝、後漢書(ごかんじょ)劉表(りゅうひょう)伝、劉鎮南碑(りゅうちんなんひ)]



 ◎劉表(りゅうひょう)の対曹操(そうそう)戦略



 かつて曹操(そうそう)河北(かほく)を治める袁紹(えんしょう)と戦い、その時、荊州(けいしゅう)劉表(りゅうひょう)袁紹(えんしょう)と同盟を組み、劉備(りゅうび)袁紹(えんしょう)方の武将として曹操(そうそう)と戦った。この戦いの結果、曹操(そうそう)袁紹(えんしょう)に勝利、さらに数年かけて河北(かほく)より袁氏(えんし)勢力を一掃(いっそう)した。この辺りの詳しい話は本編第四章及び『歴史解説 袁家(えんけ)の滅亡と博望(はくぼう)の戦い』を読んでほしい。


 袁氏(えんし)が滅亡し、その同盟者である劉表(りゅうひょう)、そして劉備(りゅうび)曹操(そうそう)の対決は()けられないものとなった。


 『207年、(袁氏(えんし)との決着をつけるために)曹操(そうそう)烏丸征伐(うがんせいばつ)に向かうと、劉備(りゅうび)劉表(りゅうひょう)にその(すき)曹操(そうそう)の本拠地である(きょ)を襲撃するよう進言するが、劉表(りゅうひょう)はこれを採用しなかった。後に曹操(そうそう)が帰還すると劉表(りゅうひょう)劉備(りゅうび)の策を用いなかったことを後悔したが、劉備(りゅうび)は「天下は乱れ、毎日が戦争なのだからこれが最後の機会ということはありません。次の機会に応じれば残念がるほどのことではありません」と励ました。』[先主(せんしゅ)伝(劉備(りゅうび)伝)]


 だが、次の機会が劉表(りゅうひょう)に訪れることはなかった。劉表(りゅうひょう)はこの年66歳、どうもこの頃より容態が良くなかったようである。


 この頃、劉備(りゅうび)劉表(りゅうひょう)によって居城を最前線の新野(しんや)から劉表(りゅうひょう)本拠地の襄陽城(じょうようじょう)の北隣の樊城(はんじょう)に移っている。劉備(りゅうび)樊城(はんじょう)に移った具体的な時期は不明だが、『正史(せいし)』によると劉備(りゅうび)徐庶(じょしょ)(本編、ジョショ、75話より本格登場)と会見し、孔明(こうめい)の名を知った時は居城が新野(しんや)であった。また註釈(ちゅうしゃく)の『魏略(ぎりゃく)』では孔明(こうめい)と出会ったのは樊城(はんじょう)の出来事としている。孔明(こうめい)劉備(りゅうび)の軍師となるのは207年の出来事なので、彼を軍師に迎える前後に樊城(はんじょう)に入ったのだろう。


 劉表(りゅうひょう)の本拠地・襄陽(じょうよう)から沔水(べんすい)(川の名)を挟んで北隣に位置するのが樊城(はんじょう)樊城(はんじょう)のさらに北にあるのが新野城(しんやじょう)。それより北は曹操(そうそう)と度々争っている地域だが、おそらく当時すでに曹操(そうそう)領となっていたのであろう。


 劉備(りゅうび)を最前線である新野(しんや)から(はん)へ移したのは、前線指揮官からより広域の司令官へ格上げするためであろう。その具体的な指揮権限は不明だが、劉備(りゅうび)軍に加えて新野(しんや)駐屯(ちゅうとん)する劉表(りゅうひょう)軍を加えた戦力で曹操(そうそう)を迎え撃つ予定だったのではないだろうか。


 また、『先主(せんしゅ)伝』(『正史(せいし)』にある劉備(りゅうび)の伝記)の注に引く『英雄記(えいゆうき)』によると、この年か翌年には、劉表(りゅうひょう)は病気が悪化し、劉備(りゅうび)荊州刺史(けいしゅうしし)を担当させたいと上奏(じょうそう)したという。


 この逸話(いつわ)に関連してか、『魏書(ぎりゃく)』には劉表(りゅうひょう)劉備(りゅうび)荊州(けいしゅう)を任せたいと申し出、劉備(りゅうび)がそれを辞退したという話を載せる。


 この逸話(いつわ)は『演義(えんぎ)』にも採用されたが、注を引用した裴松之(はいしょうし)からは、劉表(りゅうひょう)は日頃から子の劉琮(りゅうそう)を後継ぎにしたいと考えていたのだから、劉備(りゅうび)荊州(けいしゅう)を与える理由がないと断言している。


 だが、荊州(けいしゅう)を譲るという話は眉唾(まゆつば)に思うが、劉備(りゅうび)荊州刺史(けいしゅうしし)にしようとした話はあり得るように思う。


 まず、この当時の劉表(りゅうひょう)の肩書きを整理しよう。


 劉表(りゅうひょう)は190年に董卓(とうたく)(本編、トータク、5話より登場)により荊州刺史(けいしゅうしし)に任命され、荊州(けいしゅう)に赴任した。192年、李傕(りかく)(本編、リカク、7話より登場)らにより荊州牧(けいしゅうぼく)安南将軍(あんなんしょうぐん)に昇進し、196年頃に曹操(そうそう)により鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)とし、後に督交揚二州(とくこうようにしゅう)(一説に督交揚益三州とくこうようえきさんしゅう)となった。


 刺史(しし)(ぼく)便宜的(べんぎてき)にどちらも州の長官として紹介しているが、厳密には違う。


 後漢(ごかん)は全土を十三の州(194年に涼州(りょうしゅう)の西部が分割され雍州(ようしゅう)が設置されて十四州となる。その後も多数の変更あり)に分け、更に州を複数の郡に分け、郡を分けて県とした。現代日本に当てはめると、州が地方、郡が県、県が市町村に該当する。


 本来、地方行政は郡の太守(たいしゅ)(郡の長官)や県の県令(けんれい)(大きな県の長官)・県長(けんちょう)(中小県の長官)が務め、州の刺史(しし)はそれら地方官の監察、つまり不正等を追及するのが本来の役目で権力はそこまで強くはなかった。後漢(ごかん)中期以降、刺史(しし)が地方の反乱鎮圧(ちんあつ)にあたる等、その権限が徐々に拡大されてはいたが、元々は太守(たいしゅ)の方が格上である。


 しかし、黄巾(こうきん)(らん)をはじめとする地方の動乱や刺史(しし)太守(たいしゅ)腐敗(ふはい)等を理由に188年に地方安憮(あんぶ)を目的に州牧(しゅうぼく)が新設された。


 州牧(しゅうぼく)州刺史(しゅうしし)の持っていた行政面の監察権に軍事面の監察権を加えた上位互換である。


 これに将軍位による軍権が追加され、後漢(ごかん)群雄はその独立的な軍事政権を維持することが出来た。(厳密にはこれに加えて他にも権限が必要になるがややこしいので省略する)


 つまり、地方の行政面の管理を担当するのが刺史(しし)、それに加えて地方の兵士の管理もするのが(ぼく)、実際に軍を動かすのが将軍の役割となる。


 これに加えて、劉表(りゅうひょう)督交揚二州(とくこうようにしゅう)という肩書きを持っている。これは特例的な役職で、本来あるものではないので、具体的な権限は不明である。だが、この督◯州に劉表(りゅうひょう)が本来治めている荊州(けいしゅう)が含まれていないことから、荊州牧(けいしゅうぼく)が督◯州と同権限かもしくはそれ以上であることがわかる。つまり、州牧(しゅうぼく)は本来複数兼任はできないのだが、特例として複数の州牧(しゅうぼく)を兼ねたのと同じ扱いということで、この督交揚二州とくこうようにしゅうが与えられたということだ。これは事実上の荊州(けいしゅう)交州(こうしゅう)揚州(ようしゅう)の三(ぼく)兼務と同義に近い役割を担う。


 話を戻すが、州牧(しゅうぼく)+将軍位が群雄化するのに必要な役職である。だが、この時劉表(りゅうひょう)劉備(りゅうび)に譲ろうとしたのは荊州刺史(けいしゅうしし)荊州(けいしゅう)の軍事権は譲ろうとはしていない。


 おそらく、劉備(りゅうび)に譲ろうとした荊州刺史(けいしゅうしし)の権限は本来の行政の監察官の権限を超えるものではなく、自身の子を鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)とし、荊州刺史(けいしゅうしし)の上位者として君臨(くんりん)する予定だったのではないか。さらに言えば刺史(しし)の監察対象である荊州(けいしゅう)各地の太守(たいしゅ)劉表(りゅうひょう)の家臣であるから、劉備(りゅうび)の権限はさらに縮小されると考えられる。


 肩書だけに等しく、劉備(りゅうび)からすればそんなに旨味(うまみ)のない条件といえる。結局、劉備(りゅうび)はこの申し出は断ったようで、後に劉琮(りゅうそう)曹操(そうそう)に降伏する時にこの荊州刺史(けいしゅうしし)印綬(いんじゅ)を降伏の(あかし)として手渡している。また、赤壁(せきへき)の戦いの後、劉備(りゅうび)劉琦(りゅうき)荊州刺史(けいしゅうしし)上奏(じょうそう)していることからも劉備(りゅうび)荊州刺史(けいしゅうしし)ではなかったことが察せられる。


 劉表(りゅうひょう)劉備(りゅうび)荊州刺史(けいしゅうしし)にしようとしたのは他に渡すものがなかったからだろう。劉備(りゅうび)はこの時点で予州刺史(よしゅうしし)左将軍(さしょうぐん)の肩書きを持っている。立場的には劉表(りゅうひょう)の同僚となり、今さら劉表(りゅうひょう)の部下の役職を与えられる相手ではない。それでも劉備(りゅうび)に(自分の権力が制限されない範囲で)何か役職を任せるとなったら、かつて自分が()いて今もその印綬(いんじゅ)を持っている荊州刺史(けいしゅうしし)しかなかったのであろう。


 そして、劉表(りゅうひょう)刺史(しし)の地位を譲ろうとしたのは、自分が生きている内になんとかして劉備(りゅうび)を自分の勢力内に組み込みたかったのだろう。対曹操(そうそう)戦の指揮官の権限と荊州刺史(けいしゅうしし)の肩書きで劉備(りゅうび)の取り込みを図った。かつては劉備(りゅうび)を危険視して用いず、髀肉(ひにく)(たん)故事(こじ)を生ませた劉表(りゅうひょう)であったが、自身の死期を(さと)り、そうも言ってられなくなり、こういった行動に出たのだろう。だが、彼の譲れるものが劉備(りゅうび)を喜ばすに足るものではなかった。


 だが、蔡瑁(さいぼう)荊州豪族(けいしゅうごうぞく)勢はこの一連の劉表(りゅうひょう)劉備(りゅうび)を格上げして自身の勢力に組み込もうとする動きを(こころよ)く思わなかったようだ。


 『先主(せんしゅ)伝』の注に引く『世語(せご)』にはこうある。『劉備(りゅうび)樊城(はんじょう)駐屯(ちゅうとん)していた頃、彼を招いて宴会を催した時、蒯越(かいえつ)蔡瑁(さいぼう)は宴会を利用して劉備(りゅうび)の暗殺を図った。劉備(りゅうび)は企みに気付き、(かわや)(トイレ)に行くと偽り、密かに逃走した。途中、襄陽城(じょうようじょう)の西、檀溪(だんけい)の水中に落ちたが、愛馬・的盧(てきろ)に「今日は厄日(やくび)だ、努力せよ」と急き立てると、的盧(てきろ)は飛び上がり逃げ延びることが出来た。』[先主(せんしゅ)伝]


 この話は孫盛(そんせい)(東晋(とうしん)時代の歴史家)から、こんなことがあれば劉表(りゅうひょう)との間に亀裂(きれつ)が入る、あり得ない話だ、と否定されている。だが、これは樊城(はんじょう)時代の出来事とあるので、もしかしたら劉表(りゅうひょう)の容態が悪化していた207年~208年頭までに起こったかもしれない。これが劉備(りゅうび)荊州(けいしゅう)時代序盤~中盤の出来事ならともかく、劉表(りゅうひょう)が余命いくばくもない最終盤の頃ならあり得なくもないのではないか。


 自分が生きている内に曹操(そうそう)に対抗するために劉備(りゅうび)を勢力に組み込みたい劉表(りゅうひょう)と、それを阻止(そし)したい蔡瑁(さいぼう)荊州豪族(けいしゅうごうぞく)勢の攻防が、劉表(りゅうひょう)の容態悪化と相まって、この頃、かなりなりふり構わず展開されていたのではないだろうか。


 北部に曹操(そうそう)が迫る一方、東部でも事変が起こる。208年春、荊州(けいしゅう)江夏郡(こうかぐん)太守(たいしゅ)(長官)・黄祖(こうそ)(本編、コウソ、63話より登場)が江東(こうとう)(長江(ちょうこう)東側の呼び名)の孫権(そんけん)によって討たれた。孫権(そんけん)軍は先代の孫策(そんさく)(本編、ソンサク、7話より登場)の頃より度々江夏郡(こうかぐん)に攻めてきていたが、曹操(そうそう)侵攻の直前についに防衛を(にな)っていた黄祖(こうそ)が死んでしまった。[呉主(ごしゅ)伝(孫権(そんけん)の伝記)]


 既に北部で曹操(そうそう)軍が結集している中でのこの変事は劉表(りゅうひょう)陣営にとって一大事であっただろう。これを受けて劉表(りゅうひょう)の長子・劉琦(りゅうき)が行動を起こした。


 『劉琦(りゅうき)劉備(りゅうび)の軍師・孔明(こうめい)の助言を受けて自ら江夏太守(こうかぐん)を願い出た。』[諸葛亮(しょかつりょう)伝]


 『劉表(りゅうひょう)は初め長子・劉琦(りゅうき)を可愛がっていたが、次子・劉琮(りゅうそう)蔡瑁(さいぼう)(めい)(めと)ったため、蔡瑁(さいぼう)らは劉琮(りゅうそう)を支持し、劉琦(りゅうき)は次第に(うと)まれていった。劉琦(りゅうき)は身の安全を図ろうと江夏太守(こうかたいしゅ)となった。』[劉表(りゅうひょう)伝、襄陽記(じょうようき)]


 劉琦(りゅうき)本人が願い出たことではあるが、孫権(そんけん)との最前線にあたる江夏太守(こうかたいしゅ)劉琦(りゅうき)とする判断は劉表(りゅうひょう)が決定したことであろう。後述するが、後に劉琦(りゅうき)が病床の劉表(りゅうひょう)を見舞いに戻って来た時に、蔡瑁(さいぼう)らが劉琦(りゅうき)に対し、「将軍(劉表(りゅうひょう))が君に江夏(こうか)鎮撫(ちんぶ)を命じ…」と言っていることからも劉表(りゅうひょう)の命であったことがわかる。


 そして劉表(りゅうひょう)はこの年に死去する。


 黄祖(こうそ)が敗死したのは208年の春、劉表(りゅうひょう)が死去したのは同年の8月のこと。劉表(りゅうひょう)は死の間際まで外へと対策を講じていた。享年67歳。



 ◎曹操(そうそう)荊州(けいしゅう)平定



 では、次に曹操(そうそう)陣営を解説していこう。


 袁氏(えんし)が滅亡した今、曹操(そうそう)の次の標的はそれに協力していた劉表(りゅうひょう)及び劉備(りゅうび)であった。


 208年正月、曹操(そうそう)(ぎょう)(冀州(きしゅう)にある都市)の玄武池(げんぶち)にて水軍の訓練を行ったのも、長江(ちょうこう)と無数の支流が流れる荊州(けいしゅう)への進行準備であったのだろう。


 『その曹操(そうそう)は大臣最高位であった三公(さんこう)を統合廃止し、丞相(じょうしょう)を設置、自身がその位についた。そして同年7月、曹操(そうそう)劉表(りゅうひょう)征討のため荊州(けいしゅう)へと赴いた。』[武帝紀(ぶていき)]


 『この劉表(りゅうひょう)征討において、曹操(そうそう)の参謀・荀彧(じゅんいく)(本編、ジュンイク、16話より登場)は「今、中華の地が平定された以上、南方は追い詰められたことを自覚しております。公然と(えん)(しょう)に出兵する一方、間道づたいに軽装の兵を進め、敵の不意を突くのが良い」と進言した。』[荀彧(じゅんいく)伝]


 葉県(しょうけん)宛県(えんけん)荊州南陽郡けいしゅうなんようぐんに属し、曹操(そうそう)の本拠地・許都(きょと)(許昌(きょしょう))からこれらの県を通過すると、かつて劉備(りゅうび)が滞在していた新野県(しんやけん)、さらに南下すると劉表(りゅうひょう)の本拠地・襄陽(じょうよう)へ至る。


 この荀彧(じゅんいく)の言葉に従い曹操(そうそう)荊州(けいしゅう)近郊に大部隊を集結させる。


 『曹操(そうそう)はこの劉表征討に先立って、まず張遼(ちょうりょう)(本編、チョーリョー、11話より登場)を長社(ちょうしゃ)(予州穎川郡(よしゅうえいせんぐん)に属す)に、楽進(がくしん)(本編、ガクシン、9話より登場)を陽翟(ようてき)(予州穎川郡(よしゅうえいせんぐん)に属す)に、于禁(うきん)(本編、ウキン、10話より登場)を潁陰(えいいん)(予州穎川郡(よしゅうえいせんぐん)に属す)に駐屯させた。』[張遼(ちょうりょう)伝、楽進(がくしん)伝、趙儼(ちょうげん)伝]


 『この後、劉表(りゅうひょう)征討に及んで張遼(ちょうりょう)らの部隊を編成しなおし、趙儼(ちょうげん)(本編、チョウゲン、41話より登場)を章陵(しょうりょう)太守(たいしゅ)(荊州(けいしゅう)北部の郡)に任命し、都督護軍(ととくごぐん)として、于禁(うきん)張遼(ちょうりょう)張郃(ちょうこう)(本編、チョーコー、18話より登場)、朱霊(しゅれい)(本編、シュレイ、44話より登場)、李典(りてん)(本編、リテン、10話より登場)、路招(ろしょう)(本編、ロショウ、44話より登場)、馮楷(ふうかい)(本編未登場)の七軍を統括させた。』[趙儼(ちょうげん)伝]


 なお、本編ではこの陣容とほぼ同じ人員が南校舎征討軍の前軍として登場しているが、ただ馮楷(ふうかい)のみ未登場となっている。馮楷(ふうかい)は『正史』でもこの一ヵ所にしか登場せず、活躍も経歴も何もわからないため、代わりにコウラン(高覧(こうらん))(本編、コウラン、54話より登場)を登場させた。張遼(ちょうりょう)らと同列に語られているので、当時はそれなりに名の通った武将だったのだろうが、記録がないのでどうにもわからない。


 これに加えて劉表(りゅうひょう)征討から翌年の荊州(けいしゅう)戦あたりに参戦した記述のある人物は、曹仁(そうじん)(本編、ソウジン、9話より登場)、曹純(そうじゅん)(本編、ソウジュン、69話より登場)、賈詡(かく)(本編、カク、32話より登場)、婁圭(ろうけい)(本編未登場)、程昱(ていいく)(本編、テイイク、16話より登場)、楽進(がくしん)徐晃(じょこう)(本編、ジョコー、32話より登場)、阮瑀(げんう)(本編未登場)、陳矯(ちんきょう)(本編、チンキョウ、102話より登場)、満寵(まんちょう)(本編、マンチョウ、55話より登場)らがあげられる。[曹仁(そうじん)伝、曹純(そうじゅん)伝、賈詡(かく)伝、崔琰(さいえん)伝、程昱(ていいく)伝、楽進(がくしん)伝、徐晃(じょこう)伝、王粲(おうさん)伝、陳矯(ちんきょう)伝、満寵(まんちょう)伝]


 曹操(そうそう)の主力武将・参謀の多数が参戦しており、官渡(かんと)の戦い以来の一大決戦を想定していたであろうことが察せられる。


 大軍を揃えて(しょう)に進出した曹操(そうそう)であったが、ここで敵の大将・劉表(りゅうひょう)の急死という情報が入る。


 7月、曹操(そうそう)劉表(りゅうひょう)征討に赴き、8月に劉表(りゅうひょう)死去。このあまりにもタイミングの良い劉表(りゅうひょう)急死だが、これが曹操(そうそう)にとって完全に偶然の出来事なのか、はたまた劉表(りゅうひょう)の容態についてある程度情報を仕入れ、狙った上での出兵なのか判断が難しい。だが、その後の曹操(そうそう)の行動を見るに、案外、偶然だった可能性が高いのではないだろうか。少なくともその後の劉備(りゅうび)の行動については曹操(そうそう)の予想外であったように思う。



 ◎劉琮(りゅうそう)の降伏



 『劉表(りゅうひょう)が死去すると、配下の蔡瑁(さいぼう)らの支持を得て次子・劉琮(りゅうそう)が後継者となった。迫り来る曹操(そうそう)に対し、蒯越(かいえつ)韓嵩(かんすう)(本編、カンスウ、79話より登場)・傅巽(ふそん)(本編、フソン、79話より登場)らは曹操(そうそう)に帰順せよと劉琮(りゅうそう)に進言した。劉琮(りゅうそう)は「今諸君らと共に荊州(けいしゅう)全土を抑え、先代の事業を守って、天下の情勢を観望しよう。どうして良くないことがあろうか」と言った。


 傅巽(ふそん)は「臣下の荊州(けいしゅう)が皇帝(を擁する曹操(そうそう))に対抗するのは道理に外れ、劉備(りゅうび)をもって曹操(そうそう)に対抗するのは難しいでしょう。中央に逆らうのは滅亡の道です。劉琮(りゅうそう)様は御自身と劉備(りゅうび)を比べてどう思われますか?」と答え、劉琮(りゅうそう)は「私は劉備(りゅうび)には及ばない」と返した。傅巽(ふそん)はさらに続けて「もし劉備(りゅうび)曹操(そうそう)に敵わないのであれば、荊州(けいしゅう)を保持していたとしても自力で存立することは出来ません。もし劉備(りゅうび)曹操(そうそう)に勝てるとしたら、劉備(りゅうび)劉琮(りゅうそう)様の家臣に収まっているはずがありません。どうか劉琮(りゅうそう)様はお迷いにならないように」と述べた。曹操(そうそう)の軍が襄陽(じょうよう)に到達すると、劉琮(りゅうそう)荊州(けいしゅう)をあげて降伏した。』[劉表(りゅうひょう)伝]


 一方、長子・劉琦(りゅうき)劉表(りゅうひょう)死去前後の対応は以下のようであった。


 『劉表(りゅうひょう)が死去する前、劉表(りゅうひょう)の病状が悪化したと聞き、孝心(あつ)劉琦(りゅうき)は見舞いに訪れた。しかし、蔡瑁(さいぼう)張允(ちょういん)劉琦(りゅうき)劉表(りゅうひょう)と面会し、劉表(りゅうひょう)の気が変わって彼に後事を(たく)すことを恐れ、「劉表(りゅうひょう)様はあなたに江夏(こうか)鎮撫(ちんぶ)を命じられ、東の防衛を任せられました。その任務は極めて重く、今軍勢を放ってここに来られたと知れば、劉表(りゅうひょう)様はご立腹なされるでしょう。親の機嫌を損ない、病を重くするのは親孝行ではありません」と言って、劉琦(りゅうき)を戸の外で押し留め、決して中には入れなかった。劉琦(りゅうき)は涙を流してその場を去った。』[劉表(りゅうひょう)伝、後漢書(ごかんじょ)劉表(りゅうひょう)伝、襄陽記(じょうようき)]


 『劉表(りゅうひょう)が死去すると、後継者となった劉琮(りゅうそう)は、兄・劉琦(りゅうき)(こう)の印を授けた。劉琦(りゅうき)は怒り、その印を地面に投げつけ、葬儀に参列するふりをして、蔡瑁(さいぼう)張允(ちょういん)を討とうと考えた。だが、その時、曹操(そうそう)軍が新野(しんや)に到達し、劉琮(りゅうそう)が降伏してしまったので、やむなく劉琦(りゅうき)江南(こうなん)へ逃走した。』[後漢書(ごかんじょ)劉表(りゅうひょう)伝、襄陽記(じょうようき)]


 侯の印とは、劉表(りゅうひょう)の持っていた列侯(れっこう)爵位(しゃくい)(あかし)である。当時、後漢(ごかん)には爵位(しゃくい)という身分制度があり、列侯(れっこう)は人臣としては最上位(その上は皇族)にあたる。列侯(れっこう)になると封地(ほうち)(領土)を貰え、その地名を取り、○○侯(劉表(りゅうひょう)成武県(せいぶけん)封地(ほうち)であったので成武侯(せいぶこう)となる)と呼ばれる。そしてその封地(ほうち)は基本的に嫡男(ちゃくなん)に受け継がれる。


 つまり、弟の劉琮(りゅうそう)劉表(りゅうひょう)の軍勢や荊州(けいしゅう)を受け継ぐが、兄の劉琦(りゅうき)には成武侯(せいぶこう)を譲るのでこれで納得しろということであったが、劉琦(りゅうき)は納得できず、その(あかし)である印を投げつけたのである。


 劉表(りゅうひょう)の子、劉琦(りゅうき)劉琮(りゅうそう)については、『演義(えんぎ)』では劉琦(りゅうき)を温厚な二代目で、この翌年に亡くなることから病弱と描写する。一方、劉琮(りゅうそう)劉表(りゅうひょう)と後妻・蔡氏(さいし)との間の子で、この年(208年)はまだ14歳であったとする。そのため、劉琮(りゅうそう)は少年のように描かれ、それに引っ張られてか、劉琦(りゅうき)も青年のように描かれることが多い。


 では、実際にはどうだったのか。年齢については史料がなくはっきりしたことはわからない。だが、劉表の享年が67歳であったことを考えるともっと上である可能性が高い。また、『後漢書(ごかんじょ)』や『襄陽記(じょうようき)』によると劉琮(りゅうそう)はその後妻に蔡瑁(さいぼう)(めい)(めと)ったという(後妻・蔡氏(さいし)(本編未登場)との子とするのは『演義(えんぎ)』の設定)。つまり劉表(りゅうひょう)荊州(けいしゅう)に赴任した190年~208年の間に結婚適齢期を迎えていた。そして、それが後妻であるなら190年時点で既に成人していた可能性もある。


 劉琦(りゅうき)についてはその妻に関して言及がない。つまり荊州(けいしゅう)豪族(ごうぞく)の女性でなかった可能性が高いとも言え、190年時点で妻帯者であった可能性が高い。


 これらを踏まえると208年時点で二人の年齢は20代後半~40代ぐらいが妥当ではないか。


 また、兄・劉琦(りゅうき)の性格について温厚なような描写があるが、実際には(こう)の印を投げつけ、蔡瑁(さいぼう)らを討伐しようとする等、気性の激しさが見れる。一方、劉琮(りゅうそう)は降伏に反対でありながらも、家臣の意見に押され、結局降伏してしまう。実際に大人しかったのは劉琮(りゅうそう)の方で、だからこそ(あやつ)(やす)いと見て、蔡瑁(さいぼう)らに(かつ)がれることになったのではないだろうか。



 ◎劉表(りゅうひょう)の遺志と蔡瑁(さいぼう)らの思惑(おもわく)



 劉表(りゅうひょう)が死ぬと劉琮(りゅうそう)が後継者となり、曹操(そうそう)に降伏した。


 だが、劉表(りゅうひょう)は死ぬ直前まで劉備(りゅうび)樊城(はんじょう)に移し、劉琦(りゅうき)に東の防衛を任せる等、かなり精力的に対外政策を取っている。果たしてどこまでが劉表(りゅうひょう)の遺志であったのだろうか。


 まず劉琮(りゅうそう)が後を継いだ件だが、これも劉表(りゅうひょう)の生前から合意があったのか怪しい。劉琦(りゅうき)(こう)の印を受けとると、これを投げつけ、蔡瑁(さいぼう)らを討とうとした。もし、劉琮(りゅうそう)の後継が劉表(りゅうひょう)生前より決まっていたのなら、劉琦(りゅうき)列侯(れっこう)を引き継ぐのも規定路線となり、拒否するのはあり得ない行動となる。


 また、病床の劉表(りゅうひょう)を見舞おうと、劉琦(りゅうき)が訪ねると、蔡瑁(さいぼう)らは劉表(りゅうひょう)の気が変わって劉琦(りゅうき)に後を託すのではないかと考え、会わせなかった。


 つまり、劉琮(りゅうそう)後継は、劉表(りゅうひょう)の生前には決まっていなかったか、その危篤(きとく)寸前に決められ、劉琦(りゅうき)(おそらく劉備(りゅうび)も)は知らなかったのであろう。


 また、劉琮(りゅうそう)は最初、曹操(そうそう)への降伏を渋っていることから、曹操(そうそう)への降伏も劉表(りゅうひょう)の遺志に背くものであったのだろう。


 これについては劉表(りゅうひょう)の武将・文聘(ぶんへい)(本編、ブンペー、63話より登場)の伝記にもこうある。


 『文聘(ぶんへい)劉表(りゅうひょう)の大将として北方の防衛に当たった。劉琮(りゅうそう)が継ぎ、曹操(そうそう)に降伏すると、文聘(ぶんへい)を呼ぼうとしたが、文聘(ぶんへい)は「私は州を守れませんでした。処罰を待つのが当然です」と述べ、曹操(そうそう)漢江(かんこう)(川の名、別名、沔水(べんすい)漢水(かんすい)とも)を渡るとようやく文聘(ぶんへい)曹操(そうそう)のもとへ出頭した。曹操(そうそう)は「どうして来るのが遅かったのか」と訪ねると、文聘(ぶんへい)は「荊州(けいしゅう)は滅びましたが、常に漢江(かんこう)によって守備し、領土を保全し、生きては若き劉琮(りゅうそう)様を裏切らず、死しては地下の劉表(りゅうひょう)に恥じないことを願っておりましたが、計画はどうにもならず、ここまで来ました。悲痛と慚愧(ざんき)の思いに会わせる顔がなかったのです」と涙を流した。曹操(そうそう)文聘(ぶんへい)を真の忠臣と呼び、手厚い礼で彼を処遇した。』[文聘(ぶんへい)伝]


挿絵(By みてみん)


 文聘(ぶんへい)は北方の防衛に当たったとある。樊城(はんじょう)より北といえば新野(しんや)であり、その先は曹操(そうそう)領となる。新野(しんや)の西側の一帯もあるが、そこでは曹操(そうそう)の進行の妨げとはならない。おそらく劉備(りゅうび)新野(しんや)から樊城(はんじょう)に移った後、新野(しんや)に入ったのがこの文聘(ぶんへい)だろう。


 ここから読み取れるのは、曹操(そうそう)への降伏は、劉備(りゅうび)どころか、劉表(りゅうひょう)方の武将である文聘(ぶんへい)でさえ予期せぬことであった。


 だから、文聘(ぶんへい)劉琮(りゅうそう)から曹操(そうそう)へ降伏するようにという命令が出てもそれに完全に従うことが出来ず、曹操(そうそう)軍への攻撃も行わなかったが、開城もしなかった。曹操(そうそう)軍は新野の脇を素通りし、襄陽(じょうよう)に至り劉琮(りゅうそう)が開城したのを見届けて始めて、文聘(ぶんへい)曹操(そうそう)に降伏した。おそらく劉琮(りゅうそう)の命令が新野(しんや)に届けられた時点で、それが劉琮(りゅうそう)の意思なのか信じきれなかったのだろう。


 さらに言えば、この時投降した文聘(ぶんへい)の言葉に、死しては地下の劉表(りゅうひょう)に恥じないことを願う、とあることから、曹操(そうそう)への降伏は劉表(りゅうひょう)の本来の遺志ではなかったことが(うかが)える。


 劉表(りゅうひょう)は本来、曹操(そうそう)との戦いを想定しており、降伏は思いもよらないことだった。


 東の孫権(そんけん)には長子の劉琦(りゅうき)を配置し、最大の敵である北の曹操にはその最前線に文聘(ぶんへい)を配置し、その後ろに劉備(りゅうび)を控えさせていた。


 そして、前述の劉琮(りゅうそう)の降伏説得にあたり傅巽(ふそん)としたやり取りに、劉備(りゅうび)曹操(そうそう)に敵うかどうかという話があることからも、対曹操(そうそう)戦の事実上の指揮官は劉備(りゅうび)(にな)っていたのではないだろうか。


 また、文聘(ぶんへい)曹操(そうそう)に降った後、曹純(そうじゅん)と共に劉備(りゅうび)を追撃し、長阪(ちょうはん)にて戦っている。この時の曹操(そうそう)の追撃について、『先主(せんしゅ)伝』では、曹操(そうそう)は精鋭の騎兵五千を率いて、一昼夜に三百余里の行程をかけて追撃したとある。三百里が約124km(後漢(ごかん)基準)なので、歩兵の行軍速度ではない。同行している曹純(そうじゅん)が率いていたのは虎豹騎(こひょうき)と言われる精鋭部隊で“騎”と付くぐらいなのだから騎兵部隊であったのだろう。


 曹操(そうそう)曹純(そうじゅん)は騎兵部隊を率い、一日に三百余里の速さで進軍した。それについていったのだから、文聘(ぶんへい)が率いていたのもまた騎兵部隊だったのではないだろうか。だが、もし文聘(ぶんへい)新野(しんや)籠城(ろうじょう)し、曹操(そうそう)軍を迎え撃つつもりなら、馬は(えさ)を消費するだけのお荷物で、騎兵部隊までは必要としない。籠城(ろうじょう)なら歩兵を中心とした編成になるはずだろう。


 もし、文聘(ぶんへい)軍に騎兵が編入されていたのであれば、劉表(りゅうひょう)新野(しんや)籠城(ろうじょう)させるつもりはなく、出撃し、平地にて曹操(そうそう)軍と会戦することを想定していたのではないだろうか。


 ※以下補足、『文聘(ぶんへい)伝』では、曹操(そうそう)文聘(ぶんへい)に兵を授けた(原文、『授聘兵』)とあり、文聘(ぶんへい)には曹操(そうそう)の騎兵を与えられたようにも読める。だが、曹操(そうそう)の騎兵を割いて降伏したばかりの文聘(ぶんへい)を指揮官にするのは理由がなく、利にもかなっていない。これは文聘(ぶんへい)は降伏した時に自身が率いている兵も曹操(そうそう)に譲渡したが、その兵を返され、指揮官となることを許されたという意味だろう。徐晃(じょこう)張郃(ちょうこう)等、降伏後に指揮官に再雇用された者にしばしば似たような表現がみられる。


 以上の事から家臣主導による曹操(そうそう)への降伏は、亡き劉表(りゅうひょう)の遺志をねじ曲げるものだったと見てよいのではないだろうか。


 そして、その決定は襄陽城(じょうようじょう)にいる者たちのみで行われ、劉備(りゅうび)劉琦(りゅうき)文聘(ぶんへい)といった襄陽(じょうよう)外の対外戦争の主力となるはずだった人物たちには事後報告のみという状態であった。

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