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歴史解説 諸葛孔明前史 後編(青年期編)

 ※これは別に連載中の小説『学園戦記三国志』の歴史解説回を独立・編集して掲載するものです。


↓学園戦記三国志リンク

https://ncode.syosetu.com/n2756fp/


 三国志で最も有名な人物、諸葛亮(しょかつりょう)(あざな)孔明(こうめい)(以下、孔明(こうめい)で統一)。前編・中編では彼が荊州(けいしゅう)に来るまでの生い立ちや家族について解説した。この後編では孔明(こうめい)荊州(けいしゅう)についてから三顧(さんこ)の礼で劉備(りゅうび)に招かれる前までを解説していく。



 ◎孔明の学問



 さて、孔明(こうめい)は197年頃、保護者であった従父(おじ)諸葛玄(しょかつげん)を失い、姉弟と共に荊州(けいしゅう)へと移り住んだ。孔明(こうめい)、17歳頃の時の出来事である。


 この年から207年、三顧(さんこ)の礼で劉備(りゅうび)の軍師に迎えられるまでの約10年間を荊州(けいしゅう)で過ごすことになる。だが、その生活については学問に(はげ)みながらも、荊州(けいしゅう)の主・劉表(りゅうひょう)には仕えず、隠遁(いんとん)のような生活をしていたというのはよく知られていることである。


 この10年間、孔明(こうめい)の人生で特に大きなものは学問と交遊関係、そして結婚である。


 まずは学問を解説していこうと思う。


 孔明(こうめい)諸葛玄(しょかつげん)が亡くなると、自ら農耕を行い、『梁父吟(りょうほぎん)』(隠者の歌)を歌って暮らした。身長八尺(約184cm)、常に自分を管仲(かんちゅう)(春秋(しゅんじゅう)時代の宰相(さいしょう))・楽毅(がくき)(戦国時代の名将)になぞらえたが、これを認める者はいなかった。ただ、友人の崔州平(さいしゅうへい)(本編、サイシュウヘイ、92話名のみ登場)と徐庶(じょしょ)(本編、ジョショ、75話より本格登場)はその通りだと孔明(こうめい)を認めていた。[諸葛亮(しょかつりょう)伝]


 また、注釈によると、孔明(こうめい)荊州(けいしゅう)南陽郡(なんようぐん)鄧県(とうけん)隆中(りゅうちゅう)に暮らし[漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)]、建安(けんあん)初期、石韜(せきとう)(本編未登場)・徐庶(じょしょ)孟建(もうけん)(本編未登場)らと共に遊学した。[魏略(ぎりゃく)]


 孔明(こうめい)は自ら農耕を行ったとあるが、遊学したともあり、ある程度の財産があったことがわかる。この農耕というのも小作人や奴隷的なものではなく、自前で用意した農地であったのだろう。孔明(こうめい)荊州(けいしゅう)に来た時点で、裕福とまではいかなくても、ある程度余裕のある生活が送れるほどの財産を有していた。


 また、荊州(けいしゅう)に来た孔明(けいしゅう)は学問に励んだ。建安(けんあん)初期には学友と共に遊学したという。建安(けんあん)の年号は196年から220年(魏の場合)まで用いられた。孔明(こうめい)従父(おじ)諸葛玄(しょかつげん)が亡くなった197年は建安(けんあん)二年、孔明(こうめい)17歳の時である。年齢的にも充分であるから、この頃か少し落ち着いた頃に遊学してのであろう。


 孔明(こうめい)は学友と共に遊学したというが、具体的な遊学先や先生は不明である。演義(えんぎ)等の創作物では一般に司馬徽(しばき)(本編、シバキ、74話に登場)が先生として知られているが、実際に彼に師事したという記述はない。ただ、後に司馬徽(しばき)孔明(こうめい)劉備(りゅうび)に推薦していることから、二人に交流があったのは間違いない。


 この頃の荊州(けいしゅう)は中央の戦乱に比べれば比較的平和で、食糧もあったことから多くの人達が流れて来ていた。


 関西(かんせい)(函谷関(かんこくかん)より西)や兗州(えんしゅう)予州(よしゅう)の学者で荊州(けいしゅう)に移り住む者は千を数えた。劉表(りゅうひょう)は彼らを支援して、経済的に満足させ、学校を設立し、広く儒者(じゅしゃ)(儒教(じゅきょう)の学者)を求めた。綦毋闓(きぶかい)(本編未登場)・宋忠(そうちゅう)(本編、ソウチュウ、63話より登場)(荊州(けいしゅう)の学者の中心的な人たち)は『五経章句(ごきょうしょうく)』(儒教(じゅきょう)の書物である五経(ごきょう)の解釈書)を撰述(せんじゅつ)した。[劉表(りゅうひょう)伝注・英雄記(えいゆうき)後漢書(ごかんじょ)劉表(りゅうひょう)伝]


 荊州(けいしゅう)劉表(りゅうひょう)が学者を保護したことにより、荊州学(けいしゅうがく)と呼ばれる学派が誕生していた。荊州学(けいしゅうがく)は当時の儒学(じゅがく)は豊富な注釈等で複雑になっていたのに意義を唱え、本来の文章を重視するものであった。


 劉表(りゅうひょう)のお抱え学者でもある宋忠(そうちゅう)に対し、司馬徽(しばき)劉表(りゅうひょう)とは距離を取っていた。だが、宋忠(そうちゅう)司馬徽(しばき)に学びたいと州外からわざわざやってくる者もいるぐらいで(尹黙(いんもく)伝、李譔(りせん)伝)、この二人が荊州(けいしゅう)の学問の中心と言えるだろう。


 その学問は時代的に儒教(じゅきょう)が中心になるわけだが、孔明(こうめい)儒教(じゅきょう)には強い関心がなかったようで、後に劉備(りゅうび)が息子劉禅(りゅうぜん)(本編未登場)に対し、孔明(こうめい)は『申子(しんし)』『韓非子(かんぴし)』『管子(かんし)』『六韜(りくとう)』を書写しているので、求めて学ぶようにと述べている。[先主(せんしゅ)伝]


 ここで出てくる『申子(しんし)』『韓非子(かんぴし)』『管子(かんし)』は法治(ほうち)主義を説く法家(ほうか)の書(『管子(かんし)』は孔明(こうめい)が自らをなぞらえた管仲(かんちゅう)の著作と伝わる)、『六韜(りくとう)』は兵法書(へいほうしょ)である。わざわざ孔明(こうめい)自ら書写し、劉禅(りゅうぜん)に教えようという内容なのだから、特に重要視している書物であったと言えるだろう。


 孔明(こうめい)が自らを管仲(かんちゅう)楽毅(がくき)になぞらえた。これらから考えて孔明(こうめい)の目指した学問は法律を重視した政治家や兵法に通じた名将になることであったのだろう。


 管仲(かんちゅう)楽毅(がくき)の名からもわかるように、孔明は将来学者になろうとは思っていない。彼の学問は他の者が精密(せいみつ)さを求める中、その大筋を(つか)もうと(はげ)んだという。


 孔明(こうめい)は当時の荊州学(けいしゅうがく)の主流から外れながらも、その才能は高く評価され、司馬徽(しばき)が尊敬していた荊州の名士・龐徳公(ほうとくこう)(本編、ホウトクコウ、92話名のみ登場)は司馬徽(しばき)水鏡(すいきょう)(人を写す鏡)、孔明(こうめい)臥龍(がりゅう)(寝ている龍)、自身の従子(おい)龐統(ほうとう)(本編、ホウトウ、75話名のみ登場)を鳳雛(ほうすう)(鳳凰の(ひな))と評した。また、司馬徽(しばき)からも後に彼が劉備(りゅうび)孔明(こうめい)を推薦する時、「儒者(じゅしゃ)や俗人には時勢のことはわからない。時勢を知るには俊傑(しゅんけつ)でなければいけない」として孔明(こうめい)龐統(ほうとう)の二人を紹介している。[先主(せんしゅ)伝、諸葛亮(しょかつりょう)伝]


 司馬徽(しばき)孔明(こうめい)儒者(じゅしゃ)や俗人より上の“俊傑(しゅんけつ)”と評されているのは、彼の勉学に対する姿勢が評価されていたことの表れだろう。龐徳公(ほうとくこう)司馬徽(しばき)の二人の大物名士に評価された孔明(こうめい)は期待の若手と言え、引く手あまたとなっても不思議ではない存在であった。



 ◎孔明の交友



 では、次に孔明(こうめい)が学問に(はげ)む中で得た交友関係を解説していこう。


 先ほどの学問の項目にて、孔明の友人として崔州平(さいしゅうへい)徐庶(じょしょ)石韜(せきとう)孟建(もうけん)の名を上げた。


 『董和(とうわ)(本編未登場)伝』の中の孔明(こうめい)の言葉に、初め崔州平(さいしゅうへい)と付き合い、後に徐庶(じょしょ)と付き合ったとあり、『魏略(ぎりゃく)』には徐庶(じょしょ)は同郷の石韜(せきとう)と親しくなり、後に共に荊州(けいしゅう)に赴き、孔明(こうめい)と親しくなったとある。


 孔明(こうめい)荊州(けいしゅう)に来てまず崔州平(さいしゅうへい)と親しくなり、その後、徐庶(じょしょ)と友人となり、その徐庶(じょしょ)の仲介で石韜(せきとう)と交流することとなったのだろう。孟建(もうけん)が加わった時期は不明だが、出身の汝南(じょなん)郡は徐庶(じょしょ)石韜(せきとう)らの穎川(えいせん)郡の隣なので、彼も徐庶(じょしょ)石韜(せきとう)を介して知り合ったのかもしれない。この四人が荊州(けいしゅう)時代の孔明(こうめい)が特に親しくしていた友人であった。


 崔州平(さいしゅうへい)冀州博陵郡きしゅうはくりょうぐんの人。州平(しゅうへい)(あざな)。名は不明。後漢(ごかん)司徒(しと)(大臣最高位の一つ)・崔烈(さいれつ)(本編、サイレツ、92話名のみ登場)の子、西河(せいか)太守(たいしゅ)崔均(さいきん)(本編未登場)((きん)とも書く)の弟。


 父・崔烈(さいれつ)は要職を歴任したが、霊帝(れいてい)売官(ばいかん)(霊帝(れいてい)は役職を金銭で売買した)を行うと、大金で最高位の司徒(しと)の役職を買い、世間から批判された。兄・崔均(さいきん)もこの父の官位購入を激しく非難した。後に西河(せいが)太守(たいしゅ)となると袁紹(えんしょう)に同調。反董卓(とうたく)の軍に加わると、父である崔烈(さいれつ)董卓(とうたく)によって投獄(とうごく)された。その後、李傕(りかく)長安(ちょうあん)を攻めると王允(おういん)らとともに殺された。兄・崔均(さいきん)は父の復讐を願ったが、まもなく病死した。


 崔州平(さいしゅうへい)荊州(けいしゅう)に来たのは崔均(さいきん)の死後のことであろう。名家出身だが、父の売官で悪評を得て、荊州(けいしゅう)の名士とはあまり交際できず、また、父兄という保護者の失った崔州平(さいしゅうへい)はよそ者で保護者を失ったばかりの孔明(こうめい)と気が合ったのかもしれない。


 徐庶(じょしょ)予州穎川(よしゅうえいせん)郡の人。字は元直(げんちょく)。元の名は(ふく)。元々名家の出身ではなかった。若い頃、任侠(にんきょう)を好み剣の名手であった。人に頼まれて仇討(あだう)ちをし、役人に捕らえられたが、仲間によって助け出された。この事件の後、思うところあって服装を整え、学問に(はげ)んだ。(じゅく)では彼が以前無法者だったので学生は付き合おうとしなかったが、謙虚(けんきょ)な態度で行動を(つつし)んだ。初平(しょへい)年間(190~193年)に戦乱から逃れて荊州(けいしゅう)に移った。後に劉備(りゅうび)に招かれ、孔明(こうめい)を推薦した。


 徐庶(じょしょ)は名家の出身ではなかった。(これを正史では『単家(寒門)の出身』と書き、小説三国志演義ではこれを『単という姓の家の出身』と誤読し、物語当初、徐庶(じょしょ)単福(ぜんふく)の名で登場する)だが、学問に目覚めると私塾に通い、荊州(けいしゅう)に逃れても遊学しているところを見るに、この単家の出身というのも、先祖や親族に官僚になった者がいなかっただけで、家自体は裕福だったのではないだろうか。なお、『水経注図(すいけいちゅうず)』によると、荊州(けいしゅう)での徐庶(じょしょ)の家は襄陽(じょうよう)の城市外の西側、壇渓(たんけい)(劉備(りゅうび)蔡瑁(さいぼう)の暗殺から逃れて的盧(てきろ)で川を飛び越えた場所)の側、崔州平(さいしゅうへい)宅と並んで建っていた。


 石韜(せきとう)予州穎川(よしゅうえいせん)郡の人。字は広元(こうげん)。同郷の徐庶(じょしょ)と親しくなり、共に荊州(けいしゅう)に移った。


 孟建(もうけん)予州汝南(よしゅうじょなん)郡の人。字は公威(こうい)。ある時、孟建(もうけん)が故郷を懐かしみ、帰りたいと言うと、孔明(こうめい)は彼に「中原(ちゅうげん)には士大夫(したいふ)がたくさんいる。遊楽は故郷にあるとは限らない」と言った。


 石韜(せきとう)孟建(もうけん)の出自はよくわからない。徐庶(じょしょ)らと親しくしたところを見ると、そこまで名家でもないのかもしれない。なお、彼らの同郷で同姓(同郷同姓は親族の可能性が高い)の人物は正史には見当たらない。


 徐庶(じょしょ)石韜(せきとう)孟建(もうけん)らは、後に荊州(けいしゅう)曹操(そうそう)の領土となると、曹操(そうそう)の配下となり、後に徐庶(じょしょ)右中郎将(うちゅうろうしょう)(宮中の警備隊長の一つ)となり、御史中丞(ぎょしちゅうじょう)(官吏(かんり)の監察・弾劾(だんがい)を司る官)にまで昇進した。石韜(せきとう)は郡の太守(たいしゅ)典農校尉(てんのうこうい)(郡の屯田管理者)を歴任し、孟建(もうけん)涼州刺史(りょうしゅうしし)となり、最終的に征東将軍(せいとうしょうぐん)となった。


 なお、後に孔明(こうめい)()への北伐(ほくばつ)を決行し、涼州(りょうしゅう)へ侵攻するが、その時の涼州刺史(りょうしゅうしし)がこの孟建(もうけん)であった。


 崔州平(さいしゅうへい)のその後はよくわからない。『新唐書(しんとうじょ)』((とう)について書かれた正史)の宰相世系(さいしょうせいけい)(宰相(さいしょう)を務めた人物の系譜(けいふ))の崔氏(さいし)の系譜には、崔鈞(さいきん)(あざな)州平(しゅうへい)西河太守(せいがたいしゅ)とあるが、おそらく兄・崔均(さいきん)((きん)とも書く)の経歴と混同しているのであろう。曹操(そうそう)に降ったのかもわからない。あまり出世しなかったが、あるいは早くに亡くなったのかもしれない。前述の『魏略(ぎりゃく)』(()で書かれた歴史書)の記録に孔明(こうめい)の友人として徐庶(じょしょ)石韜(せきとう)孟建(もうけん)の名はあっても崔州平(さいしゅうへい)の名はないのは、彼が()で知名度がなかったからであろうか。



 ◎孔明の婚姻



 その名を龐徳公(ほうとくこう)司馬徽(しばき)らに認められた孔明(こうめい)は、具体的な年月は不明だが、結婚することとなった。


 相手は黄承彦(こうしょうげん)(本編未登場)の娘(本編、コウゲツエイ、75話より登場)である。


 黄承彦(こうしょうげん)高邁(こうまい)にして爽快(そうかい)、先の見通しがたち、(ほが)らかな人物で、沔南(べんなん)の名士であった。彼は孔明(こうめい)に「君は妻を探していると聞くが、私には(みにく)い娘がいる。赤毛で色黒だが、才知は君とお似合いだ」といった。孔明(こうめい)がこの話を承知したので、すぐさま車に乗せて娘を送り届けた。当時、この話は人々の笑いの種となり、郷里では「孔明(こうめい)の嫁選びを真似するな。黄承彦(こうしょうげん)醜女(しこめ)をもらうはめになるぞ」との(ことわざ)流行(はや)った。[諸葛亮(しょかつりょう)伝注・襄陽記(じょうようき)]


 孔明(こうめい)の嫁となった黄承彦(こうしょうげん)の娘についてはいくつもの伝説がある人物ではあるが、史料に見えない話が多いので彼女について詳述はしない。


 ここでは孔明(こうめい)の義父となった黄承彦(こうしょうげん)について解説していく。


 黄承彦(こうしょうげん)は前述した襄陽記(じょうようき)によると“沔南(べんなん)の名士”だそうだ。沔南(べんなん)とはややこしい言い方である。沔水(べんすい)(川の名前、、もしくは漢水(かんすい)、現漢江(かんこう))は漢中(かんちゅう)から流れ、江夏(こうか)(現武漢(ぶかん)付近)で長江(ちょうこう)に合流する、長江(ちょうこう)の最大の支流である。沔南(べんなん)とはつまりこの川の南側の地域を指すが、取りようによっては範囲が広くなりすぎてしまう。


 だが、黄承彦(こうしょうげん)襄陽(じょうよう)周辺の人という解釈で良いと思う。まず、参照した『襄陽記(じょうようき)』という本はその名のとおり、襄陽(じょうよう)にゆかりの人物や地理を紹介する本である。また、この『襄陽記(じょうようき)』に掲載された廖化(りょうか)(本編未登場)の紹介文では、『(襄陽(じょうよう)郡)中盧侯国(ちゅうろこうこく)の人。沔南(べんなん)の名家である』と襄陽(じょうよう)出身者を沔南(べんなん)と記載されている。なお、中盧侯国(ちゅうろこうこく)襄陽(じょうよう)県のすぐ隣に位置し、劉表(りゅうひょう)の重臣・蒯越(かいえつ)(本編、カイエツ、63話より登場)の出身地でもある。これらから見て、『襄陽記(じょうようき)』の沔南(べんなん)襄陽(じょうよう)周辺の地域程度の意味と解釈して良いのではないだろうか。


 さて、黄承彦(こうしょうげん)だが、『襄陽記(じょうようき)』には別の人物の箇所にも登場している。それは蔡瑁(さいぼう)(本編、サイボウ、63話より登場)に関する記事である。


 (かん)末は(さい)氏の最盛期である。蔡諷(さいふう)(本編未登場)は妹を太尉(たいい)張温(ちょうおん)(本編、チョーオン、8話より登場)に(とつ)がせ、上の娘を黄承彦(こうしょうげん)(とつ)がせ、下の娘を劉表(りゅうひょう)の後妻とした。これは蔡瑁(さいぼう)の妹である。[襄陽記(じょうようき)]


 蔡瑁(さいぼう)の姉妹のうち姉が黄承彦(こうしょうげん)に、妹は劉表(りゅうひょう)(とつ)いだ。つまり、蔡瑁(さいぼう)劉表(りゅうひょう)黄承彦(こうしょうげん)は義理の兄弟であった。そしてその黄承彦(こうしょうげん)の娘ということは蔡瑁(さいぼう)劉表(りゅうひょう)(めい)にあたる。この婚姻により孔明(こうめい)蔡瑁(さいぼう)劉表(りゅうひょう)らと親戚になったということでもあった。


 孔明(こうめい)の姻戚はこれだけではない。彼には姉が二人いた。


 蒯祺(かいき)(本編未登場)の妻は孔明(こうめい)の上の姉であった[襄陽記(じょうようき)]


 龐徳公(ほうとくこう)の子・山民(さんみん)(本編、ホウサンミン、92話名のみ登場)は高名があり、孔明(こうめい)の下の姉を(めと)り、()黄門吏部郎(こうもんりぶろう)となったが、早逝(そうせい)した[襄陽記(じょうようき)]



 蒯祺(かいき)は正史三国志にも『劉封(りゅうほう)(本編、リュウホウ、66話より登場)伝』に房陵太守(ぼうりょうたいしゅ)として登場している。襄陽記(じょうようき)に記載されていることから、襄陽(じょうよう)の人、おそらく劉表(りゅうひょう)の重臣・蒯越(かいえつ)蒯良(かいりょう)(本編、カイリョウ、63話名のみ登場)らの同族だろう。


 龐徳公(ほうとくこう)はすでに紹介している。孔明(こうめい)臥龍(がりゅう)と名付けた人物である。なお、同じく鳳雛(ほうすう)と名付けられた龐統(ほうとう)龐徳公(ほうとくこう)従子(おい)山民(さんみん)の従兄弟なので孔明(こうめい)龐統(ほうとう)も親戚である。龐氏(ほうし)もまた襄陽(じょうよう)の名家であった。また劉表(りゅうひょう)荊州(けいしゅう)に来たばかりの頃、襄陽(じょうよう)に居座る(ぞく)を説得しに赴いた使者として龐季(ほうき)(本編未登場)という人物が登場している。この龐季(ほうき)もおそらく襄陽(じょうよう)龐氏(ほうし)龐徳公(ほうとくこう)らの同族だろう。龐徳公(ほうとくこう)個人は劉表(りゅうひょう)に仕えなかったが、龐氏(ほうし)自体は劉表(りゅうひょう)に初期から協力する一族であった。


 孔明(こうめい)は婚姻関係を結び、荊州牧(けいしゅうぼく)劉表(りゅうひょう)襄陽(じょうよう)の名家・蔡氏(さいし)黄氏(こうし)蒯氏(かいし)龐氏(ほうし)と親族となっていた。


 さて、孔明(こうめい)は一般的には劉表(りゅうひょう)には仕えず、あえて距離を取っていたと言われている。


 だが、この婚姻関係を見て果たしてそうだと言えるだろうか。


 孔明(こうめい)は明らかに劉表(りゅうひょう)政権に接近している。また、孔明(こうめい)は自らを管仲(かんちゅう)楽毅(がくき)になぞられるほど、社会に出て自分の力を奮いたいと思っている。たまたま劉備(りゅうび)荊州(けいしゅう)にやってきて孔明(こうめい)を迎え入れたから世に出ることが出来たが、もし出会えなかったら、自分を管仲(かんちゅう)楽毅(がくき)になぞられるような青年がそのまま隠者(いんじゃ)のような生活を送るつもりだったのだろうか。


 むしろ、孔明(こうめい)劉表(りゅうひょう)に仕えようとしていたのではないだろうか。そして採用しなかったのは劉表(りゅうひょう)の方ではないか。



 ◎劉表の豪族連合政権



 では、なぜ劉表(りゅうひょう)孔明(こうめい)を採用しなかったのか。


 孔明(こうめい)は学業に優れ、劉表(りゅうひょう)から距離を取っているとはいえ荊州(けいしゅう)で知られた名士・龐徳公(ほうとくこう)司馬徽(しばき)らに高く評価され、また、劉表(りゅうひょう)荊州(けいしゅう)の名家の親戚でもある。なぜ、採用しないということがあるのだろうか。


 その一番の理由は荊州(けいしゅう)出身者ではないということではないだろうか。


 次にあげる一覧は孔明(こうめい)とほぼ同時期、つまり劉表(りゅうひょう)政権が安定し始めた190年代後半から200年代前半頃に荊州(けいしゅう)にいた人材とその出身地、そして劉表(りゅうひょう)政権で得た役職をまとめたものである。


韓嵩(かんすう)(本編、カンスウ、79話より登場)(荊州(けいしゅう)義陽(ぎよう)郡)→別駕(べつが)従事中郎(じゅうじちゅうろう)

向朗(しょうろう)(本編、ショウロウ、74話より登場)(荊州(けいしゅう)襄陽(じょうよう)郡)→臨沮(りんそ)県の長

潘濬(はんしゅん)(本編未登場)(荊州(けいしゅう)武陵(ぶりょう)郡)→江夏(こうか)郡の従事(じゅうじ)湘郷(しょうきょう)県の令

李厳(りげん)(本編、リゲン、63話より登場)(荊州(けいしゅう)南陽(なんよう)郡)→いくつかの郡県の長

劉先(りゅうせん)(本編未登場)(荊州(けいしゅう)零陵(れいりょう)郡)→別駕(べつが)

龐統(ほうとう)(荊州(けいしゅう)襄陽(じょうよう)郡)→郡の功曹(こうそう)


伊籍(いせき)(本編、イセキ、63話より登場)(兗州(えんしゅう)山陽(さんよう)郡)→記載なし

裴潜(はいせん)(本編、ハイセン、92話より登場)(司隷(しれい)河東(かとう)郡)→賓客(ひんきゃく)の礼で対応

和洽(かこう)(本編未登場)(予州(よしゅう)汝南(じょなん)郡)→賓客(ひんきゃく)の礼で対応

王粲(おうさん)(本編、オウサン、63話より登場)(兗州(えんしゅう)山陽(さんよう)郡)→劉表(りゅうひょう)は尊重せず

徐庶(じょしょ)(予州(よしゅう)穎川(えいせん)郡)→記載なし

崔州平(さいしゅうへい)(冀州(きしゅう)博陵(はくりょう)郡)→記載なし

石韜(せきとう)(予州(よしゅう)穎川(えいせん)郡)→記載なし

孟建(もうけん)(予州(よしゅう)汝南(じょなん)郡)→記載なし


 ここではその就任した役職の内容にまでは言及しない。


 以上から劉表(りゅうひょう)政権において荊州(けいしゅう)出身者(よりいうなら荊州(けいしゅう)豪族出身者)と他州出身者とでは扱いに大きな違いがあることがわかる。


 劉表(りゅうひょう)は初め荊州に来た時、単身で訪れ、配下と呼べる者はいなかった。そこへ襄陽(じょうよう)の豪族である蔡瑁(さいぼう)蒯越(かいえつ)蒯良(かいりょう)らが手を貸すことでようやく荊州(けいしゅう)をその支配下に置くことができた。劉表(りゅうひょう)政権を運営する上において荊州(けいしゅう)豪族の協力は不可欠であった。そして、荊州(けいしゅう)豪族は劉表(りゅうひょう)に協力することで自分たちの権益を守り、より力をつけることができた。


 このような協力体制であったために、劉表(りゅうひょう)政権での採用者は荊州(けいしゅう)豪族が優先されることとなった。


 もちろん、政権には非荊州(けいしゅう)人も参加していた。


 傅巽(ふそん)(本編、フソン、79話より登場)がその代表例だろう。彼は涼州(りょうしゅう)北地(ほくち)郡の出身だが、東曹掾(とうそうじょう)の役職に就いている。だが、彼は劉表(りゅうひょう)政権参与前にすでに朝廷に出仕し、尚書郎(しょうしょろう)を務めていた。


 また、上記にて賓客の例で対応されたとある和洽(かこう)荊州(けいしゅう)に来る前に故郷にて孝廉(こうれん)に上げられ、大将軍に招かれたが、応じなかった人物で、裴潜(はいせん)の家は代々名門として知られ、父裴茂(はいぼう)(本編未登場)は県令、郡太守を歴任した後、尚書(しょうしょ)となり、後に段煨(だんわい)(本編未登場)らと共に李傕(りかく)を討ち、その功で列侯(れっこう)となった。裴潜(はいせん)自身の前歴は不明だが、その出自からある程度の評判を持っていたのではなかろうか。


 なお、余談ではあるが、裴潜(はいせん)の一族は後世にも名門として繁栄し、(とう)代には17人もの宰相(さいしょう)を輩出した。また、その一族の中には正史『三国志』に注を付した裴松之(はいしょうし)(裴潜(はいせん)の弟の六世の孫)や飛鳥(あすか)時代に日本に来た裴世清(はいせいせい)(聖徳太子が(ずい)煬帝(ようだい)に送った『日出る(ところ)天子(てんし)…』の国書に対する返礼の使者を務めた)等がいる。


 話を戻すが、王粲(おうさん)の祖父・王暢(おうちょう)(本編、92話名のみ登場)は三公(さんこう)を務め、劉表(りゅうひょう)の青年時代の学問の先生であった。また、王粲(おうさん)自身も後漢(ごかん)の大学者・蔡邕(さいよう)(本編未登場)の評価を受け、17歳で司徒府(しとふ)に招かれたが、董卓(とうたく)の乱の真っ最中だったために就任せず、荊州(けいしゅう)へ避難してきた人物であった。だが、劉表はかつての先生の孫を風采が上がらない容姿と、大雑把な性格を嫌いあまり尊重しなかった。(ただ、王粲(おうさん)は後に荊州(けいしゅう)を継いだ劉琮(りゅうそう)に対し、曹操(そうそう)に帰服するよう説得しており、肩書きは不明ながら政権そのものには参加していた可能性が高い)


 このように劉表(りゅうひょう)政権においてよそ者が役職に就くことは(まれ)で、既に朝廷の役職に就いた経験者、郷里や都で名士の評価を受け、孝廉(こうれん)や役職の誘いがあった者といった荊州(けいしゅう)以前から名声のある者に限られていたのだろう。


 それでも多くは賓客(ひんきゃく)として尊重されても、具体的な役職は貰えず、荊州(けいしゅう)豪族以上の発言力を持つことはできなかった。上述の和洽(かこう)裴潜(はいせん)もそうだが、杜襲(としゅう)(本編、トシュウ、41話より登場)(予州穎川(よしゅうえいせん)の人)や趙儼(ちょうげん)(本編、チョウゲン、41話より登場)(予州穎川(よしゅうえいせん)の人)のように一度は劉表(りゅうひょう)の元に来ながら、結局去ってしまった者が多いのはこういった理由が大きかったのではなかろうか。


 (ひるがえ)って孔明(こうめい)を見てみると、荊州(けいしゅう)以前はまだ未成年なので仕方がないのだが、役職に就いた経験はなく、名声を得たのも荊州(けいしゅう)に着いてからのことである。孔明(こうめい)劉表(りゅうひょう)政権の募集要項に合致していない。劉表(りゅうひょう)政権にとってその人物が頭が良いとか有能であるとかは二の次三の次であり、まず第一に家であった。


 おそらく孔明(こうめい)は当初、学問に(はげ)み、名士の評価を得るという正攻法で世に出ようとしたが、劉表(りゅうひょう)政権の採用枠はほとんど荊州(けいしゅう)豪族の子弟で埋まり、採用されず、それならと婚姻関係によって親族となったが、諸葛(しょかつ)氏自体が権勢を持ったわけではないので、それでも採用されなかったのだろう。


 これにより孔明(こうめい)劉表(りゅうひょう)に就職出来ず、隆中(りゅうちゅう)(こも)ることとなった。彼のこの頃の胸中は知る由もないが、孔明(こうめい)はこれ以降、自らどこかに赴き仕官することはなかった。



 ◎まとめ


 後に三国志を代表する人物となる諸葛孔明(しょかつこうめい)劉備(りゅうび)と出会うまでの前半生を整理してみた。


 孔明(こうめい)は10歳ぐらいの頃に母を失い、12歳ぐらいで父を失い、13の頃に故郷を去った。その後は従父(おじ)に従い予章(よしょう)に移ったが、そこでも戦乱に巻き込まれ、結局、17歳で荊州(けいしゅう)にたどり着き、そこでようやく落ち着くことができた。そういう時代であったとはいえ、波乱万丈な少年期を過ごしたといえる。


 それでも腐ることなく、勉学に励み、積極的に人と交流していたのだから立派な人物といえるだろう。


 だが、たどり着いた劉表(りゅうひょう)政権下の荊州(けいしゅう)では豪族の力が強く、学問だけで身を立てることが叶わず、巧みに婚姻関係を結び、政権有力者の親族となってもなお、採用には至らなかった。


 だが、司馬徽(しばき)徐庶(じょしょ)ら、孔明(こうめい)の能力を知り、惜しむ者がいた。彼らによって孔明(こうめい)の名は劉備(りゅうび)の知るところとなり、207年、劉備(りゅうび)自ら三度草蘆(そうろ)を訪ね、孔明(こうめい)は遂に世に出る機会を得ることとなった。


 自ら管仲(かんちゅう)楽毅(がくき)(なぞら)える大志を持った孔明は、同じく大志を持つ劉備(りゅうび)と合致し、後に彼の軍師となり、その大業を助けることとなった。



 ◎孔明前半生略年表



174年、兄・諸葛瑾、生まれる

181年、諸葛孔明、生まれる

孔明1歳

184年2月、黄巾の乱勃発

孔明4歳

188年頃?、兄・諸葛瑾、洛陽へ遊学

孔明8歳

189年4月、霊帝崩御、少帝即位

9月、董卓、少帝を廃し、献帝を即位させる

孔明9歳

190年1月、反董卓連合挙兵、袁紹を盟主とする

2月、董卓、洛陽を捨てて、長安に遷都する

この頃?、孔明の母・章氏死去

孔明10歳

191年4月、董卓自ら長安に移動する

朱儁、反董卓連合と内通するが、董卓に発覚し、荊州に逃亡する

この頃、孫堅、朱儁とともに洛陽入り

7月、袁紹、韓馥を脅し、冀州を奪う

曹操、東郡太守となり、東武陽を本拠地とする

11月、泰山太守・応卲、攻めてきた青州黄巾賊を破る

青州黄巾賊、渤海を攻め、公孫瓚と東光で戦う、公孫瓚、これを破る

この年、朱儁、董卓打倒の檄文を出し、徐州刺史・陶謙、これに応ず

この年、袁術、孫堅に命じ、劉表を攻めさせる

この頃?、父・諸葛珪死去、

孔明11歳

192年1月、董卓の将・李傕、郭汜、朱儁を破る

孫堅、劉表との戦いで戦死(前年説あり)

曹操、黒山賊、於夫羅を破る

袁紹対公孫瓚、界橋の戦い、袁紹勝利

4月、董卓、王允・呂布に殺される

青州黄巾賊、東平にて兗州刺史・劉岱を討つ

東郡太守・曹操、寿張にて青州黄巾賊を討ち、冬、これを降伏させる

曹操、兗州牧となる

6月、李傕ら、長安を落とす

王允、殺害され、呂布、逃亡す

8月、李傕ら、馬日磾と太僕・趙岐を各地に派遣する

9月、李傕・車騎将軍、郭汜・後将軍、樊稠・右将軍、張済・鎮東将軍となる

10月、劉表、荊州牧に昇進する

この年、朱儁、李傕政権に参加する

孔明12歳

193年春、劉表、袁術を攻める

袁術、曹操・劉表らに敗れ、南陽を捨てて、揚州に逃走する

袁術、徐州伯と称する

この頃、陶謙を徐州牧に、趙昱を広陵太守に、王朗を会稽太守に任命する

6月、朱儁、太尉となる

陶謙、泰山郡の華・費を奪い、任城を攻略する

曹操の父曹嵩死去

秋、曹操、陶謙を征討す

劉備、陶謙の救援に赴く

この年、琅邪王劉容、薨去

この年、孫策、袁術の命で長江を渡る

この頃?、孔明ら故郷を去る

諸葛瑾20歳、孔明13歳

194年、陶謙、上表して劉備を予州刺史とする

夏、曹操、再び徐州征伐

呂布、曹操が留守の兗州を奪う

曹操、呂布と戦うが、飢餓のため引き上げる

この年、飢饉により穀物が高騰する

陶謙、死去。劉備、徐州を託される

7月、太尉・朱儁を罷免する

4月~7月、旱により飢饉となる

この年、揚州刺史・劉繇、孫策と曲阿で戦い、劉繇、破れる

この年、馬日磾、袁術に勾留され寿春にて死去

この頃?、孔明の従父・諸葛玄、袁術により予章太守に任命される

孔明14歳

195年春、李傕、樊稠を殺し、郭汜と争う

曹操、呂布を破り、呂布、劉備の元に走る

この頃?、朱儁憤死

7月、献帝、長安を脱出し、洛陽を目指す

冬、袁術、自ら帝位に登ろうとするが、臣下のの反対にあい、断念する

この年、諸葛玄、予章太守となるが、朱皓と太守の地位をめぐって争う

孔明15歳

196年7月、献帝、洛陽に到着する

曹操、洛陽に赴き、献帝を迎える。

9月、許に遷都する

曹操、大将軍・武平侯となる

10月、袁紹、太尉に任命されるも受けず、曹操、大将軍の位を袁紹に譲る

曹操、司空・車騎将軍となる

呂布、徐州を奪い、劉備、曹操の元に逃走する

この年、張済、南陽に逃走し、戦死する。甥・張繡が継ぎ、宛に駐屯する

この頃?、諸葛玄、劉表に属す

孔明16歳

197年1月、諸葛玄、死去

孔明、荊州に移住する

曹操、宛に赴き、張繡、降伏するが、反撃に遭い敗北する

春、袁術、皇帝を僭称する

この年、長江、淮南地域で飢餓

孔明17歳

198年4月、裴茂・段煨、李傕を討つ

12月、曹操、呂布を殺す

孔明18歳

199年6月、袁術死去

劉備、徐州で曹操に対し反乱を起こす

孔明19歳

200年4月、孫策死去、弟・孫権継ぐ

10月、官渡の戦い

この頃?、兄・諸葛瑾、孫権に仕える

諸葛瑾27歳、孔明20歳

201年9月、劉備、劉表の元に走る

孔明21歳

207年、劉禅、生まれる

三顧の礼、孔明、劉備に仕える

孔明27歳

208年、赤壁の戦い

孔明28歳



〔参考文献〕



・書籍

陳寿著 今鷹真・井波律子・小南一郎訳 『正史三国志』(全八巻) 筑摩書房 1993年

范曄撰 李賢等注 『後漢書』(全六巻) 中華書局出版 1965年

狩野直禎 『諸葛孔明』 人物往来社 1966年

植村清二 『諸葛孔明』 中央公論社 1985年

中林史朗 『諸葛孔明語録』 明徳出版社 1986年

宮川尚志 『諸葛孔明(新装版)』 光風社 1988年

中国綜合地図出版編 『中国綜合地図集』 中国綜合地図出版社 1990年

東晋次 『後漢時代の政治と社会』 名古屋大学出版会 1995年

渡邉義浩 『「三国志」の政治と思想 史実の英雄たち』 講談社 2012年

柿沼陽平 『劉備と諸葛亮 カネ勘定の「三国志」』 文藝春秋 2018年

長田康宏 『三国志群雄太守県令勢力図(上)』 同人誌 2018年


・論文

上田早苗 「後漢末期の襄陽の豪族」 『東洋史学』(28号) 1970年

狩野直禎 「後漢書列伝六十一朱儁伝訳稿」 『史窓』(58号) 2001年


・サイト

資治通鑑 維基文庫

https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E8%B3%87%E6%B2%BB%E9%80%9A%E9%91%91

三国志、全文検索 http://www.seisaku.bz/sangokushi.html

全三国文

https://zh.m.wikisource.org/zh-hans/%E5%85%A8%E4%B8%89%E5%9C%8B%E6%96%87

襄陽記

https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E8%A5%84%E9%99%BD%E8%A8%98

水経注

https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E6%B0%B4%E7%B6%93%E6%B3%A8?uselang=ja

讀史方輿紀要

https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E8%AE%80%E5%8F%B2%E6%96%B9%E8%BC%BF%E7%B4%80%E8%A6%81

むじん書院

http://www.project-imagine.org/mujins/

季漢書

http://blog.livedoor.jp/jominian/

てぃーえすのメモ帳

https://t-s.hatenablog.com/

思いて学ばざれば

https://mujin.hatenadiary.jp/

いつか書きたい『三国志』

http://3guozhi.net/

もっと知りたい!三国志

https://three-kingdoms.net


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