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歴史解説 諸葛孔明前史 中編(従父・兄編)

 ※これは別に連載中の小説『学園戦記三国志』の歴史解説回を独立・編集して掲載するものです。


↓学園戦記三国志リンク

https://ncode.syosetu.com/n2756fp/




 三国志で最も有名な人物、諸葛亮(しょかつりょう)(あざな)孔明(こうめい)(以下、孔明(こうめい)で統一)。前編では彼の両親の死と故郷を去るまでを解説した。この中編では従父(おじ)諸葛玄(しょかつげん)とおまけとして兄・諸葛瑾(しょかつきん)が呉に仕える以前について解説していく。



  ◎従父・諸葛玄



 では、これより孔明(こうめい)の新たな保護者、従父(おじ)諸葛玄(しょかつげん)について解説しよう。


 諸葛玄(しょかつげん)予章(よしょう)太守(たいしゅ)任命以前の経歴は不明である。だが、荊州(けいしゅう)劉表(りゅうひょう)と旧知であったとあるので、もしかしたら朝廷(ちょうてい)に出仕したことがあったのかもしれない。


 予章(よしょう)太守(たいしゅ)時代の事績については、諸葛亮(しょかつりょう)伝本文、諸葛亮(しょかつりょう)伝注の『献帝春秋(けんていしゅんじゅう)』、劉繇(りゅうよう)伝注の『献帝春秋(けんていしゅんじゅう)』の三ヶ所に記録されている。では、その文章を比較してみよう。


 諸葛玄(しょかつげん)袁術(えんじゅつ)の任命により予章(よしょう)太守(たいしゅ)となり、孔明(こうめい)らを引き連れて赴任した。同じ頃、朝廷(ちょうてい)では朱皓(しゅこう)(本編未登場)を予章(よしょう)太守(たいしゅ)に任命し、諸葛玄(しょかつげん)と交代させた。諸葛玄(しょかつげん)は旧知であった荊州牧(けいしゅうぼく)劉表(りゅうひょう)を頼り、彼のもとに身を寄せた。諸葛玄(しょかつげん)が亡くなると、孔明(こうめい)は自ら農耕を行った。[諸葛亮(しょかつりょう)伝]


 初め予章(よしょう)太守(たいしゅ)周術(しゅうじゅつ)(本編未登場)が病死したので、劉表(りゅうひょう)諸葛玄(しょかつげん)予章(よしょう)太守(たいしゅ)とし、南昌(なんしょう)においた。一方、朝廷(ちょうてい)では周術(しゅうじゅつ)の後任として朱皓(しゅこう)を派遣した。朱皓(しゅこう)揚州牧(ようしゅうぼく)劉繇(りゅうよう)と協力し、諸葛玄(しょかつげん)を攻撃、諸葛玄(しょかつげん)は撤退し、西城(せいじょう)に駐屯し、朱皓(しゅこう)南昌(なんしょう)に入った。197年、西城(せいじょう)の民衆が反乱を起こし、諸葛玄(しょかつげん)を殺してその首を劉繇(りゅうよう)に届けた。[諸葛亮(しょかつりょう)伝注、献帝春秋(けんていしゅんじゅう)]


 劉繇(りゅうよう)彭沢(ほうたく)に軍営を置くと、笮融(さくゆう)(本編、サクユウ、22話より登場)を派遣し、朱皓(しゅこう)に加勢させて、諸葛玄(しょかつげん)を討伐させた。諸葛玄(しょかつげん)を追い出すと笮融(さくゆう)は、今度は朱皓(しゅこう)を殺し、自身が予章(よしょう)の支配者となった。[劉繇(りゅうよう)伝注、献帝春秋(けんていしゅんじゅう)]


 諸葛亮(しょかつりょう)伝の注も劉繇(りゅうよう)伝の注も共に『献帝春秋(けんていしゅんじゅう)』からの引用である。『献帝春秋(けんていしゅんじゅう)』自体は散佚(さんいつ)してしまっているので、元の文章がどういう構成であったのかは不明。なお、別の箇所ではあるが、引用を行った裴松之(はいしょうし)は、『献帝春秋(けんていしゅんじゅう)』の内容に対して、いい加減だとして批判している。


 しかし、諸葛亮(しょかつりょう)伝本文の内容も少ないので、本文を中心としながら、『献帝春秋(けんていしゅんじゅう)』で補う形で整理していこうと思う。


 まず、両書では任命者が袁術(えんじゅつ)劉表(りゅうひょう)と食い違っているが、これは袁術(えんじゅつ)で良いと思う。当時、袁術(えんじゅつ)揚州(ようしゅう)の他の太守(たいしゅ)を何人も無断で任命しているのに対し、劉表(りゅうひょう)揚州(ようしゅう)の太守を任命した例が他に見られない。


 また、この頃(193年~195年頃)の劉表(りゅうひょう)は、表向き朝廷(ちょうてい)(李傕(りかく)政権)とは友好関係にあり、それに真正面から対立する人事を行うように思えないからだ。おそらく後に諸葛玄(しょかつげん)劉表(りゅうひょう)を頼った結果の逆算から、『献帝春秋(けんていしゅんじゅう)』は劉表(りゅうひょう)を任命者としたのだろう。


 袁術(えんじゅつ)に任命された諸葛玄(しょかつげん)予章(よしょう)太守(たいしゅ)として南昌(なんしょう)(町の名前、南昌(なんしょう)県は予章(よしょう)郡の郡治(ぐんち)(現代で言うところの県庁所在地)になる)に入った後に、李傕(りかく)政権に任命された朱皓(しゅこう)予章(よしょう)郡に入ったが、諸葛玄の(しょかつげん)ために南昌(なんしょう)に入ることが出来なかった。


 この朱皓(しゅこう)とは先に登場した朱儁(しゅしゅん)の子である。


 李傕(りかく)政権に招かれた朱儁(しゅしゅん)太僕(たいぼく)(大臣の一つ)、そして太尉(たいい)(大臣最高位の一つ)と昇進していく。192年後半~193年のことである。しかし、195年に政変が起こる。195年2月、李傕(りかく)は同じく政権を運営していた樊稠(はんちょう)を殺し、郭汜(かくし)と対立する。朱儁(しゅしゅん)はこの対立の仲介を行おうとしたが、郭汜(かくし)に人質とされ、これに(いきどお)り、急死してしまう。


 李傕(りかく)郭汜(かくし)の対立は195年すぐのことで、朱儁(しゅしゅん)の死もそれから離れてはいないだろう。ならば、朱皓(しゅこう)が太守に任命されたのは、おそらく194年中であり、それより前に諸葛玄(しょかつげん)が任命されたことになる。


 そこへ孫策(そんさく)に敗れた揚州牧(ようしゅうぼく)劉繇(りゅうよう)予章(よしょう)へ逃げ込んできた。おそらく195年内のことだろう。


 劉繇(りゅうよう)は部下の笮融(さくゆう)を派遣し、朱皓(しゅこう)とともに諸葛玄(しょかつげん)を攻撃させ、これにより諸葛玄(しょかつげん)南昌(なんしょう)を追い出され、西城(せいじょう)(こも)った。


 『讀史方輿紀要(どくしほうよきよう)』によると、予章(よしょう)城の西に子城(しじょう)がある。諸葛玄(しょかつげん)が退いた西城(せいじょう)とはここだという。


 子城(しじょう)とは大城に付随(ふずい)した小城のこと。南昌(なんしょう)県の城市の北に鄱陽湖(はようこ)(湖の名)を要し、そこから流れる贛水(かんすい)(贛江(かんこう)、川の名)が南昌(なんしょう)のすぐ西側を南北に通っている。退却した先がすぐ隣では攻められてしまうので、あるいはこの川を挟んだ形で西城(せいじょう)南昌(なんしょう)と隣接していたのかもしれない。


 『献帝春秋(けんていしゅんじゅう)』の記述によれば、諸葛玄(しょかつげん)は197年までこの西城(せいじょう)にいるので、一年以上、この城で(ねば)ったことになる。


 それはこの川が防壁になったこともあるだろうが、それ以上に敵に内紛が起こったことが理由だろう。


 劉繇(りゅうよう)の命令を受け、諸葛玄(しょかつげん)を追い払った笮融(さくゆう)朱皓(しゅこう)を殺し、自らが予章(よしょう)の支配者となった。そのため劉繇(りゅうよう)笮融(さくゆう)と戦い、これを破り、笮融(さくゆう)は逃走中に住民によって殺された。[劉繇(りゅうよう)伝]


 この予章(よしょう)での内紛が展開されている間、諸葛玄(しょかつげん)袁術(えんじゅつ)に見切りを付け、劉表(りゅうひょう)鞍替(くらが)えして援助を得ることにしたのだろう。(おい)孔明(こうめい)らが荊州(けいしゅう)に逃れたのもこの頃の事かもしれない。


 諸葛玄(しょかつげん)袁術(えんじゅつ)を裏切ることにした。


 諸葛玄(しょかつげん)南昌(なんしょう)を追われた195年の冬、袁術(えんじゅつ)は自ら皇帝に即位すると発言した。この時は部下の閻象(えんしょう)(本編、エンショー、21話より登場)に反対され、取り止めとなったが、結局、197年に即位することとなる。[袁術(えんじゅつ)伝]


 こういった袁術(えんじゅつ)の皇帝僭称(せんしょう)に反感を持った面もあるかもしれないが、それ以上に現実的な問題があったのだろう。


 おそらく、諸葛玄(しょかつげん)劉繇(りゅうよう)予章(よしょう)に侵入してきた時や笮融(さくゆう)の侵攻時に再三、袁術(えんじゅつ)に救援を要請したことだろう。だが、袁術(えんじゅつ)からの援軍は来ず、西城(せいじょう)孤立無縁(こりつむえん)となった。諸葛玄(しょかつげん)がどの段階で劉表(りゅうひょう)を頼ったのかは不明だが、援軍が来ない以上、いつまでも袁術(えんじゅつ)だけを頼ることはできない。自分を見捨てた相手に義理もないだろうから、劉表(りゅうひょう)鞍替(くらが)えしたのだろう。


 南昌(なんしょう)より北西に進めば劉表(りゅうひょう)の治める江夏郡(こうかぐん)に出る。地理的な近さに加え、諸葛玄(しょかつげん)劉表(りゅうひょう)は旧知であったというなら、頼る先として適当であろう。


 ただ、諸葛玄(しょかつげん)劉表(りゅうひょう)と旧知なのは、諸葛玄(しょかつげん)予章(よしょう)太守(たいしゅ)として赴任して以降の可能性もある。諸葛玄(しょかつげん)のいる予章(よしょう)郡は荊州(けいしゅう)南部に隣接し、この頃、劉表(りゅうひょう)荊州(けいしゅう)南部を完全に支配下に置けておらず、また、袁術(えんじゅつ)とも対立関係にあった。そこで劉表(りゅうひょう)予章(よしょう)太守(たいしゅ)である諸葛玄(しょかつげん)に近づいたのかもしれない。


 諸葛玄(しょかつげん)劉表(りゅうひょう)と縁はいずれの頃かは定かではないが、ともかく諸葛玄(しょかつげん)劉表(りゅうひょう)を頼りとし、劉表(りゅうひょう)は彼を支援した。


 では、何故、劉表(りゅうひょう)諸葛玄(しょかつげん)を受け入れ、彼への支援を約束したのか。


 劉表(りゅうひょう)はかつて李傕(りかく)政権より安南将軍(あんなんしょうぐん)荊州牧(けいしゅうぼく)に任じられたことは前に述べた。劉表(りゅうひょう)李傕(りかく)に近しく、袁術(えんじゅつ)と対立しているのであるなら、本来なら、李傕(りかく)政権が任じた朱皓(しゅこう)(あるいは劉繇(りゅうよう))を支援し、袁術(えんじゅつ)が任じた諸葛玄(しょかつげん)と対立する関係である。だが、この頃になると天下の情勢が変わっていた。


 195年、政権を担っていた李傕(りかく)郭汜(かくし)らが対立したことは先ほど述べたが、それにより献帝(けんてい)長安(ちょうあん)を脱出、李傕(りかく)郭汜(かくし)らの追撃に()いながらも、196年の7月、洛陽(らくよう)に到着する。


 そして、献帝(けんてい)は各地の群雄に支援を要請、これに劉表(りゅうひょう)が応じ、董卓(とうたく)によって廃墟(はいきょ)となった洛陽(らくよう)の復興作業に乗り出した。しかし、同じく要請に応じた曹操(そうそう)は、同年9月、献帝(けんてい)を自身の拠点である許都(きょと)に移してしまった。


 この曹操(そうそう)の無断での献帝(けんてい)取り込みの一件は、洛陽(らくよう)を復興していた劉表(りゅうひょう)を激怒させたらしく、197年1月、南陽郡(なんようぐん)張繡(ちょうしゅう)劉表(りゅうひょう)が手を組み、曹操(そうそう)と対立し、以降、しばしば劉表(りゅうひょう)張繡(ちょうしゅう)曹操(そうそう)領へ侵攻することとなる。[武帝紀(ぶていき)後漢(ごかん)書・孝献帝紀(こうけんていき)趙岐(ちょうき)伝]


 この劉表(りゅうひょう)に対して、曹操(そうそう)は戦いもしたが、一方で懐柔(かいじゅう)し、和解しようと計っていたようである。


 曹操(そうそう)御史中丞(ぎょしちゅうじょう)(官吏(かんり)の監察・弾劾(だんがい)を司る官)・鍾繇(しょうよう)を派遣して、劉表(りゅうひょう)鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)に任じ、さらに左中郎将(さちゅうろうしょう)(宮中の警備隊長の一つ)・祝耽(しゅくたん)を派遣して(せつ)を授け、督交揚二州(とくこうようにしゅう)(一説に督交揚益三州とくこうようえきさんしゅうとする)とした。[劉鎮南碑(りゅうちんなんひ)]


 劉鎮南碑(りゅうちんなんひ)には誰が任じたかは書いていないが、鍾繇(しょうよう)御史中丞(ぎょしちゅうじょう)となるのは、献帝(けんてい)長安(ちょうあん)を脱出し、曹操(そうそう)と連絡を取って以降のことであるから、おそらく、曹操(そうそう)のよって行われた人事であろう。


 また、督交楊二州とくこうようえきさんしゅう(交州(こうしゅう)揚州(ようしゅう)の総督、または益州を含む三州の総督)としたのは、196年、曹操(そうそう)袁紹(えんしょう)大将軍(だいしょうぐん)の位を譲ったが、この時さらに袁紹(えんしょう)督青幽并三州とくきせいゆうへいよんしゅう(青州(せいしゅう)幽州(ゆうしゅう)并州(へいしゅう)の総督)としたことを受けてのことであろうから、これとほぼ同時期と見てよいだろう。


 しかし、劉表(りゅうひょう)は結局、曹操(そうそう)(なび)くことはなく、208年に曹操(そうそう)による荊州(けいしゅう)征伐を受けるまで対立は続くことになる。


 諸葛玄(しょかつげん)劉表(りゅうひょう)に投降したのは、まさにこういった情勢の最中であった。


 劉表(りゅうひょう)からすれば李傕(りかく)政権が潰れた今、劉繇(りゅうよう)を支援する理由はなく、劉表(りゅうひょう)自身は揚州(ようしゅう)(とく)となったが、実際に揚州(ようしゅう)を支配しているわけではない。そこで予章(よしょう)太守(たいしゅ)諸葛玄(しょかつげん)(よう)し、予章(よしょう)を手に入れれば、揚州(ようしゅう)支配の足掛かりになると判断したのだろう。


 諸葛玄(しょかつげん)勢が小城に(こも)り、197年まで耐えたのもこの劉表(りゅうひょう)からの援軍が来ることを信じたからだろう。


 だが、諸葛玄(しょかつげん)の記録では劉表(りゅうひょう)の援軍に関する記述がない。また、劉表(りゅうひょう)側にも劉繇(りゅうよう)と戦ったという記述もない。元々、記録が多くなく、書き()らしの可能性もあるが、もしかしたらこの時、劉表(りゅうひょう)から援軍は来なかったのかもしれない。


 ここからは想像だが、諸葛玄(しょかつげん)から劉表(りゅうひょう)と手を組んだと聞かされ、援軍の到着を信じて西城(せいじょう)(こも)ったのに、一年以上経過しても劉表(りゅうひょう)からの援軍は到着しない。当然、諸葛玄(しょかつげん)はその責任を追及される。ついに我慢の限界に達し、西城(せいじょう)の人たちは諸葛玄(しょかつげん)を殺したのではないだろうか。


 諸葛玄(しょかつげん)と共に西城(せいじょう)(こも)っていたのは、諸葛玄(しょかつげん)の縁者や使用人もいるだろうが、多くは南昌(なんしょう)の人たちではないだろうか。


 郡の官吏(かんり)や郡兵はその地域の出身者である場合が多い。郡の官吏(かんり)や郡兵、その家族を中心とした人達が諸葛玄(しょかつげん)に同行したのだろうが、彼らは諸葛玄(しょかつげん)に忠誠を誓って同行したわけではないだろう。


 南昌(なんしょう)に攻めてきた笮融(さくゆう)はこれまでも殺人や略奪を度々行い、評判の悪い人物であり、さらに率いている丹揚(たんよう)兵は勇猛で知られていた。そういった連中が攻めてくると聞けば、恐怖するのは自然だろう。


 南昌(なんしょう)の人たちは避難のつもりで諸葛玄(しょかつげん)に付き従い、西城(せいじょう)に移った。だが、諸葛玄(しょかつげん)が言っていた劉表(りゅうひょう)からの援軍はいつまで経っても来ず、一年以上が経過した。しかも、その間に恐れていた笮融(さくゆう)は死に、予章(よしょう)の支配者は劉繇(りゅうよう)に変わった。


 劉繇(りゅうよう)孫策(そんさく)と敵対した関係で小説等では悪役や無能な人物に描かれるが、皇族の血を引く名門の出身で、自身も清廉(せいれん)な人格者として知られていた。


 一度は諸葛玄(しょかつげん)に従った南昌(なんしょう)の人たちは、笮融(さくゆう)なら何をするかわからない恐怖があるが、劉繇(りゅうよう)なら頭を下げれば許されると考えたのではないだろうか。少なくとも一度でも諸葛玄(しょかつげん)に従った奴は許さん、皆殺しだとはならないだろう。そこで彼らは諸葛玄(しょかつげん)の首を手土産に劉繇(りゅうよう)に降伏したのではないだろうか。


 こうして諸葛玄(しょかつげん)は死に、予章(よしょう)劉繇(りゅうよう)の治めるところとなったが、劉繇(りゅうよう)もまもなく病死し(おそらく199年頃)、孫策(そんさく)に降伏した太史慈(たいしじ)(本編、タイシジ、19話より登場)によって劉繇(りゅうよう)の残党は吸収された。予章(よしょう)は新たに予章(よしょう)太守(たいしゅ)に任命された華歆(かきん)(本編、カキン、63話より登場)が治めたが、199年には孫策(そんさく)予章(よしょう)に侵攻し、華歆(かきん)は降伏。予章(よしょう)孫策(そんさく)領となった。[華歆(かきん)伝、諸葛亮(しょかつりょう)伝、孫策(そんさく)伝、劉繇(りゅうよう)伝、太史慈(たいしじ)伝、孫賁(そんほん)伝]


 余談になるが、何故、劉表(りゅうひょう)諸葛玄(しょかつげん)の援軍に現れなかったのか。可能性を考えて劉表(りゅうひょう)の弁護してみようと思う。


 もちろん、劉表(りゅうひょう)が全く援軍を出さなかった可能性もあるが、予章(よしょう)郡が孫策(そんさく)領になった後、劉表(りゅうひょう)は度々予章(よしょう)郡へ侵攻している。 


 しかし、それならば予章(よしょう)太守である諸葛玄(しょかつげん)が手元にいた方がより予章(よしょう)侵攻の大義名分を得て、有利に侵攻できたはずである。なのに何故、諸葛玄(しょかつげん)を見殺しにし、それでもなお予章(よしょう)を手に入れようとしたのか。


 おそらくだが、劉表(りゅうひょう)諸葛玄(しょかつげん)への援軍を出した。だが、なんらかの事情で到着しなかったのではないか。


 ここで少し予章(よしょう)郡の地理を整理しておこう。


挿絵(By みてみん)


 予章(よしょう)郡の中心地であり、諸葛玄(しょかつげん)の一連の戦いの舞台となった南昌(なんしょう)の北には鄱陽湖(はようこ)という湖がある。その湖の脇、北東の方角に進むと、劉繇(りゅうよう)が最初に駐屯した彭沢(ほうたく)に至り、さらに進むと後に()の首都となる建業(けんぎょう)(この頃の名前は秣陵(まつりょう))やこの当時、袁術(えんじゅつ)が本拠地にしていた寿春(じゅしゅん)へ行くことができる。


 反対に北西の方角に進むと、後に劉表(りゅうひょう)軍と孫策(そんさく)孫権(そんけん)軍が度々戦った(がい)西安(せいあん)海昏(かいこん)建昌(けんしょう)といった地域があり、さらに進むと劉表(りゅうひょう)領の江夏(こうか)郡にたどり着く。なお、南には交州(こうしゅう)があるが、予章(よしょう)郡の南部は山ばかりなので、南下しようとすると大変な苦労が予想される。


 さて、この劉表(りゅうひょう)領との間にある海昏(かいこん)建昌(けんしょう)等の地域だが、孫策(そんさく)伝に以下のような記述がある。


 袁術(えんじゅつ)の死後、その勢力を吸収した廬江(ろこう)太守(たいしゅ)劉勲(りゅうくん)(本編未登場)は意気盛んだったが、孫策(そんさく)は表向きは劉勲(りゅうくん)と同盟を結び、この当時、“予章(よしょう)上繚(じょうりょう)宗民(そうみん)(独立勢力)たちが万余”いたので、孫策(そんさく)劉勲(りゅうくん)をけしかけ、宗民(そうみん)を攻撃させてその武力を手に入れるよう勧めた。劉勲(りゅうくん)宗民(そうみん)討伐に出発すると、孫策(そんさく)はその隙に廬江(ろこう)を攻め落とした。[孫策(そんさく)伝]


 ここに出てくる上繚(じょうりょう)とは繚水(りょうすい)(川の名)の上流地域という意味で、海昏(かいこん)建昌(けんしょう)(がい)等を含む地域一帯を指す。


 また注に引く『江表伝(こうひょうでん)』にはこうある。劉勲(りゅうくん)袁術(えんじゅつ)の勢力を吸収したが、食糧が不足したので、従弟(いとこ)劉偕(りゅうかい)(本編未登場)をやって予章(よしょう)太守(たいしゅ)華歆(かきん)に食糧の買い入れを申し込んだ。華歆(かきん)のところも食糧が不足していたので、“海昏(かいこん)上繚(じょうりょう)にて、その地の宗帥(そうすい)(独立勢力のボス)”から三万石の米を得ようとした。だが、劉偕(りゅうかい)はこの地に赴いて1ヶ月余り経ったが、わずか数千石を手に入れただけであった。そこで劉偕(りゅうかい)劉勲(りゅうくん)海昏(かいこん)を軍で攻めて食糧を奪うよう提案、劉勲(りゅうくん)海昏(かいこん)を攻めたが、宗帥(そうすい)(むら)を空っぽにして逃げ隠れ、劉勲(りゅうくん)は何も得ることができなかった。[孫策(そんさく)伝]


 これらの記述によれば、当時の予章(よしょう)海昏(かいこん)の地域一帯には宗帥が率いる宗民(そうみん)という集団がいたようである。この宗民(そうみん)についてちくま学芸文庫版の訳本の注では、地方独立勢力で、宗教的な結社とも、異民族との関係を持つともいうが、詳しくは不明とある。


 どういった集団なのか具体的にはわからないが、海昏(かいこん)の地域一帯には宗民(そうみん)(宗族とも)と言われる万余の人たちを率いる独立勢力がいたようだ。


 また、先ほどの孫策(そんさく)劉勲(りゅうくん)海昏(かいこん)宗民(そうみん)をせめるよう勧めた時の逸話(いつわ)にて、孫策(そんさく)はこの海昏(かいこん)地域について、交通が不便と述べており、さらに当時、劉勲(りゅうくん)の許にいた劉曄(りゅうよう)(本編、リューヨー、64話より登場)は「上繚(じょうりょう)は小さいとはいえ、城は固く(ほり)は深く、攻めるに難しく、守るに(やす)いところです」と述べ、劉勲(りゅうくん)上繚(じょうりょう)征伐に反対した[劉曄(りゅうよう)伝]


 実際に地図を見てみると、この海昏(かいこん)建昌(けんしょう)あたりの予章(よしょう)郡北西部は長江(ちょうこう)鄱陽湖(はようこ)からの支流がいくつも流れ、山脈に囲まれた地域である。おそらく孫策(そんさく)が述べた「交通が不便」とはこういった地形を指しているのだろう。この地形が天然の要塞(ようさい)となり、独立性の高い地域となっていたのだろう。


 さらに劉曄(りゅうよう)の言葉から、その中に堅固な城が建っていたことがわかる。その堅固な城に万の人が暮らし、独立状態を保っていたのである。


 話を戻すが、おそらく、劉表(りゅうひょう)の軍は諸葛玄(しょかつげん)の救援に赴きたくても、この海昏(かいこん)一帯の地域を通過できなかったのではないだろうか。


 劉表(りゅうひょう)の勢力については過去に『歴史解説 袁家の滅亡と博望の戦い』にて触れたので詳しいことはそちらに譲るが、劉表(りゅうひょう)の勢力が荊州(けいしゅう)全域に及ぶのは200年頃、長沙(ちょうさ)太守(たいしゅ)張羨(ちょうせん)(本編、チョーゼン、91話名のみ登場)を倒して以降のことで、この頃はまだ荊州(けいしゅう)北部の三郡+αぐらいにしか勢力が及んでいない。


 その劉表(りゅうひょう)が201年に南陽(なんよう)郡攻略に出した兵力が約一万程度なので、この時の諸葛玄(しょかつげん)への救援はそれと同程度か、より少ない数であったろう。


 前述したように山川に囲まれた海昏(かいこん)一帯は、おそらく軍隊が通れるルートも限られており、迂回(うかい)して南昌(なんしょう)にたどり着くことができなかったのだろう。後に予章(よしょう)郡が孫策(そんさく)領になって以降の話だが、劉表(りゅうひょう)孫策(そんさく)予章(よしょう)郡を巡る攻防についてこのような記述がある。


 劉表(りゅうひょう)従子(おい)劉磐(りゅうばん)(本編、リュウバン、62話より登場)はしばしば予章(よしょう)郡の(がい)西安(せいあん)などの諸県に攻め込んできた。そこで孫策(そんさく)予章(よしょう)郡の海昬(かいこん)建昌(けんしょう)の近辺六県を割き、太史慈(たいしじ)建昌都尉(けんしょうとい)に任じ、海昏(かいこん)にその役所を置き、六県の統治と劉磐(りゅうばん)からの防衛を行わせた。[太史慈(たいしじ)伝]


 これは200年頃の出来事だろう。劉表(りゅうひょう)側からは劉磐(りゅうばん)が攻め込み、孫策(そんさく)側からは太史慈(たいしじ)が赴き防いでいる。


 劉磐(りゅうばん)(がい)西安(せいあん)といった予章(よしょう)郡北西部を荒らすのみで、その先にある南昌(なんしょう)にまで踏み込めていない。太史慈(たいしじ)がよく防いでいたとも読めるが、もしかしたらこの時もまだ海昏(かいこん)地域の宗民(そうみん)により(はば)まれていたのかもしれない。


 また、孫策(そんさく)もわざわざ海昏(かいこん)地域の六県を別に割き、予章(よしょう)郡から切り離して建昌都尉(けんしょうとい)を設置し、太史慈(たいしじ)に任せたのも、劉磐(りゅうばん)からの侵攻もあるだろうが、この地域の特殊性によるところも大きいのではないだろうか。


 しかし、海昏(かいこん)一帯がこういった排他的で独立性の高い地域であるなら、当然、地元民である南昌(なんしょう)の人達は知っていたはずで、諸葛玄(しょかつげん)劉表(りゅうひょう)へ援軍を求める時にそのことを伝えているはずである。


 これを諸葛玄(しょかつげん)は楽観的に考えていたのだろう。あるいは甥の孔明(こうめい)や救援の使者らが荊州(けいしゅう)に無事にたどり着いているので安心したのかもしれない。だが、少数で移動するのと軍隊が動くのではわけが違う。結局、劉表(りゅうひょう)からの援軍は海昏(かいこん)一帯に(はば)まれ到着せず、南昌(なんしょう)の人達が指摘した通りになったことで、諸葛玄(しょかつげん)は信用を失い、見捨てられることになったのではないだろうか。




 ◎兄・諸葛瑾の行方



 ここで荊州(けいしゅう)へ移った孔明(こうめい)に行く前に彼の兄・諸葛瑾(しょかつきん)のことについて先に解説しておこう。


 孔明(こうめい)の兄・諸葛瑾(しょかつきん)は、(あざな)子瑜(しゆ)孔明(こうめい)より七歳年長の174年生まれ。彼が若い頃、洛陽(らくよう)で学び、後に帰郷したことは前編に書いた。孔明(こうめい)が故郷を去り、従父(おじ)諸葛玄(しょかつげん)とともに予章(よしょう)に行く時に、彼は別行動を取ることになる。


 諸葛瑾(しょかつきん)は漢末、戦乱を避け江東(こうとう)に移住した。その頃ちょうど孫策(そんさく)が死去した頃で、孫権(そんけん)(本編、ソンケン(チュー坊)、64話より登場)の姉の婿(むこ)弘咨(こうし)(本編未登場)によって評価され、孫権(そんけん)に推挙された。[諸葛瑾(しょかつきん)伝]


 諸葛瑾(しょかつきん)伝の記述には不可解なことが二点ある。まず一つは、何故、孔明(こうめい)諸葛玄(しょかつげん)らと別行動して江東(こうとう)に移ったのか。そして、もう一つは孫権(そんけん)(つか)えた時期である。


 孔明(こうめい)らが故郷を去ったのは193年頃、その翌年頃には諸葛玄(しょかつげん)予章(よしょう)太守(たいしゅ)に就任していたと思われる。対して、孫策(そんさく)が死んで孫権(そんけん)に代替わりした頃なら、諸葛瑾(しょかつきん)孫権(そんけん)に仕えたのは、早くても200年頃の出来事となる。彼は長い期間無職だったのだろうか?


 確かに何のコネもなく江東(こうとう)に来たのなら、すぐ孫権(そんけん)(つか)えられないのは仕方がない。しかし、わざわざ諸葛玄(しょかつげん)から離れて、数年無為(むい)に過ごしたのだろうか。


 考えられるのは、従父(おじ)諸葛玄(しょかつげん)袁術(えんじゅつ)によって予章(よしょう)太守(たいしゅ)に任命されたのように、諸葛瑾(しょかつきん)もまた袁術(えんじゅつ)(つか)えていたのではないだろうか。


 彼らが故郷を去ったと思われる193年の時、諸葛瑾(しょかつきん)は20歳(数え年)、大人として扱われる年齢だ。袁術(えんじゅつ)から何かしら仕事を与えられても不思議はない。


 しかし、20歳成り立ての、そこまで名門というわけでもない(おそらく袁術(えんじゅつ)陣営には諸葛(しょかつ)氏以上の名門がいくらも加わっていただろう)若者に大役が任せられるとも思えない。その彼一人に弟たちの面倒までは大変であろうから、孔明(こうめい)たちは従父(おじ)諸葛玄(しょかつげん)についていったのだろう。


 そして、袁術(えんじゅつ)が死亡した199年前後に江東(こうとう)に渡ったとすれば、年数的にも辻褄(つじつま)が合うのではないか。


 ただ、記録のないことであるので、これはあくまでも辻褄(つじつま)合わせのための仮説にすぎない。


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