歴史解説 諸葛孔明前史 前編(父母編)
これは別に連載している『学園戦記三国志』をより楽しむために、歴史上の三国時代の解説及び考察を行ったものです。本編では省略されてしまった部分やカットされてしまった部分をより詳しく紹介されています。
なお、この解説には独自の考察も含みます。ご了承ください。
作中に“本編”として紹介されているのは、別に連載している小説『学園戦記三国志』のことです。また、これが書かれたのは本編の106話時点なので、紹介されている情報も106話時点までの内容に基づいています。(この解説で本編未登場と紹介された人物がそれ以降の話数で登場することがあります)
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◎まえがき
学園戦記三国志(以下、本編)の五章77話にて、ついにコウメイが、三顧の礼でリュービの軍師として迎えられた。
コウメイの元になった人物は、諸葛亮、字(本名以外にもつ別名)は孔明。おそらく三国志でもっとも有名な人物ではないだろうか。
今回の解説では、この孔明(以下、名前は本編に合わせ孔明に統一する)が劉備(本編、リュービ、主人公)陣営に加わるまでの前半生を紹介する。
しかし、孔明の前半生は史料が乏しく、推測が多く混じることご了承いただきたい。あくまで一つの可能性として読んでほしい。
◎孔明の家
孔明は徐州琅邪国陽都県(太守(長官)ではなく国王(皇族)が封じられた郡を国と呼ぶ)(この当時の後漢では州→郡・国→県の順に行政区分が小さくなる)の人で、西暦181年(以下年はすべて西暦、月日はすべて旧暦)に生まれた。漢の司隷校尉(首都圏警視総監)・諸葛豊(本編未登場)の子孫である。父の諸葛珪(本編未登場)、字は君貢は漢末の泰山郡の丞(郡副長官)であった。孔明は幼い頃に父を亡くした。
兄・諸葛瑾(本編、ショカツキン、91話より本格登場)は174年生まれ、孔明の7歳年長である。他に弟に諸葛均(本編未登場)、名称不明の姉が二人いる。[正史三国志(以下、頭に書名のないものは全て正史三国志のもの、注も含む)諸葛亮伝、諸葛瑾伝、襄陽耆旧記(以下、襄陽記)]
孔明の先祖・諸葛豊は前漢時代の人。剛直な性格で、司隷校尉として貴門権勢の者も恐れず取締り、当時の皇帝・元帝の寵臣まで逮捕しようとしたため怒りを買い、左遷されたが、それでも不正摘発の態度を改めなかったため、庶民に落とされたという。
その後、孔明の父・諸葛珪に至るまで琅邪諸葛氏は歴史に名を残すような人物は輩出していないが(出自不明の諸葛姓の者はいる)、諸葛珪は泰山郡の丞となり、従父の諸葛玄(本編未登場)は後に予章太守(郡長官)となり、また一族の諸葛誕(本編未登場)も魏で用いられた。
おそらく、全国区ではないが、郡や県の役人を多数輩出した地元では知られた一族だったのではないだろうか。
また孔明の生まれた181年と同じ年に後に献帝(本編、リューキョー、5話より登場)となる霊帝(本編、(先代)学園長、5話名のみ登場)の第二皇子・劉協が生まれた。他にこの年は国境では異民族が侵攻し、戦争になる最中、宮中では霊帝が模擬店を作り、宮女を売り子にして酒宴を楽しむ有り様であった。
そして、その3年後の184年に黄巾の乱が勃発する。孔明が生まれた頃には既に後漢は衰退へと向かっていた。
孔明の父・諸葛珪については泰山郡の丞であったことと、早くに亡くなったことしか諸葛亮伝からはわからない。
兄・諸葛瑾も正史に伝がある。その注の『呉書』に云う、諸葛瑾は若い頃、京師に出て『毛詩』(詩経)、『尚書』(書経)、『左氏春秋』の学問を修めた。母が死ぬと心を尽くして喪に服し、継母にも謹み深く仕えた。[諸葛瑾伝]
京師は当時の首都・洛陽のことでいいだろう。情報が少ないので断定は難しいが、太学で学んだのであろうか。
太学は洛陽にあった高等教育機関で、年齢に明確な規定はないが、大体、15歳~20歳ぐらいの時に入学する。諸葛瑾が15歳(以下、年齢は全て数え年)~20歳となると、188年~193年のことである。
しかし190年、董卓(本編、トータク、5話より登場)が暴政を行い、反董卓連合が起こると、董卓は長安に遷都し、洛陽に火を放ち、街は廃墟と化した。当然、太学も無くなった。
だが、諸葛瑾がこの戦乱に巻き込まれたという記述はない。また学問を修めながら、すぐ官吏にはなっていない。このことから、彼は卒業することなく、190年より前に帰郷したのではないだろうか。
あるいは母の死で帰郷することになったのかもしれない。当時、両親が死ぬと三年喪に服すことになっていた。
ということは、諸葛瑾や孔明の母は190年頃に亡くなったことになる。孔明が10歳頃のことである。
またその後、継母、つまり諸葛珪が後妻を迎えているのであるから、母の死が先で、父・諸葛珪の死はその後のこととなる。
◎父・諸葛珪の死
さて、ここでこの頃の情勢を解説しよう。
189年、董卓は後漢皇帝・少帝(本編未登場)を廃し、その弟・劉協を即位させた。これが献帝である。
そして、董卓は暴政を行うと、翌190年、地方の官吏たちが反董卓を掲げて連合軍を発足。董卓はその攻勢をかわすため、河南尹(首都長官)・朱儁(本編未登場)ら群臣の反対を押しきり、首都を洛陽から、より西の都市・長安へと遷都した。
一方、その頃、最初こそ意気盛んだった反董卓連合に参加していた群雄は、次第に打倒董卓よりも自勢力の拡大へと興味を移していた。
連合の袁紹(本編、エンショウ、7話より本格登場)は韓馥(本編、カンフク、6話名のみ登場)を脅して、彼の地位であった冀州牧(州長官)を譲り受け、曹操(本編、ソウソウ、1話より登場)を上表して東郡太守として、北に拠点を作り出した。
また、袁紹の弟(従弟とも)・袁術(本編、エンジュツ、8話より本格登場)は太守のいなくなった南陽の主に収まり、孫堅(本編、ソンケン、3話より本格登場)を仲間に引き込み、彼を上表して予州刺史(州長官)とした。
上表とは朝廷に文書を奉ることで、言うなれば推薦状である。推薦状であるのだから、当然返事があって初めて実行されるのだが、当時の朝廷の実権は董卓にあり、当然、許可は下りないので、彼らは上表したという形だけとり、勝手に任命していった。
この時、袁紹はさらに領土を拡大しようと、孫堅とは別に周喁(本編未登場)を予州刺史に任命し、孫堅が洛陽攻略に赴いている隙に予州を占領。洛陽より戻った孫堅は袁術とともに周喁を追い出した。これにより袁紹と袁術の対立は決定的となった。
さらにこの頃、袁術の元に公孫瓚(本編、コウソンサン、7話より本格登場)の従弟・公孫越(本編未登場)が対陣していたが、彼もこの予州戦に加わり、戦死してしまう。これに公孫瓚は激怒し、袁紹を恨み、北方では公孫瓚対袁紹の戦いが勃発する(界橋の戦い)。[公孫瓚伝・孫堅伝]
これに加えて袁術は南の荊州へと勢力を拡大しようと、孫堅に命じて荊州刺史の劉表(本編、リュウヒョウ、63話より本格登場)を攻めさせた。だが、この戦いで運悪く孫堅は戦死し、袁術の荊州侵攻は失敗に終わった。[孫堅伝]
かなりややこしくなってきたが、ざっくりまとめると袁紹ー曹操ー劉表が結びつき、袁術ー孫堅ー公孫瓚と対立状態となり、反董卓連合は事実上の消滅へと向かっていた。
さて、ここで一度、孔明の父・諸葛珪の話に戻そう。
これより未来の記述となるが、諸葛亮伝には、孔明の従父・諸葛玄は袁術の任命により予章太守となり、孔明とその弟・諸葛均を連れて赴任したとあり、その兄の諸葛瑾伝では、諸葛瑾は漢の末年、戦乱を避けて江東に移住したとある[諸葛亮伝、諸葛瑾伝]
孔明や諸葛瑾が避けた戦乱が具体的に何を指すか諸説あるが、一般には193年の曹操の徐州侵攻のこととされている。
諸葛玄が予章太守に任命されたのは195年頃なので、年数的にも妥当ではないだろうか。
また、この時孔明は従父である諸葛玄に従っているので、父・諸葛珪が亡くなったのは避難する193年以前ではないだろうか。
つまり、諸葛珪もこの頃に亡くなったと推測できるのである。では、この頃に何があったのだろうか。
諸葛珪は泰山郡の丞であった。この泰山郡は兗州に属すが、徐州に属す孔明の故郷・琅邪国のすぐ隣にある。
189年より泰山郡太守(郡長官、諸葛珪の上司)は応卲(本編未登場)が勤めていた。191年、隣の青州より黄巾賊の残党三十万が食料を求めて泰山郡に侵攻した。応卲は文官・武官を率いて勇戦し、数千の首級を上げ、賊を退けた。[後漢書・応卲伝]
この時の青州黄巾賊はその後、青州に戻ったが、今度は公孫瓚に追い返され、翌192年、再び兗州に入り、任城国(兗州に属す)の相(太守ではなく国王(皇族)が治める郡を国と呼び、その地の内政担当者(事実上の長官)を相と呼んだ)・鄭遂(本編未登場)を殺害し、更に北隣の東平国(兗州に属す)へ侵攻した。兗州刺史・劉岱(本編、リュウタイ、6話より登場)はこれを迎え撃ったが、敵わず戦死してしまう。
これを受け済北国(兗州に属す)の相・鮑信(本編、ホウシン、6話名のみ登場)は当時、東郡(兗州に属す)太守であった曹操を迎えて兗州牧とした。曹操は黄巾賊と戦い、彼らを降伏させ、兵士三十万、その家族百万を受け入れ、これを青州兵と名付けた。[武帝紀(曹操伝)]
また先の話になるが、193年には徐州牧・陶謙(本編、トウケン、24話より登場)が泰山郡に侵攻し、華県と費県を奪い、さらに任城国を攻略した。[武帝紀]
孔明の父・諸葛珪のいた泰山郡は、191年・193年にそれぞれ黄巾賊・陶謙の侵攻を受けており、あるいはこの時に諸葛珪も戦死したのかもしれない。
これはあくまでも可能性の話で、事実は諸葛珪は早くに亡くなった以上のことはわからない。だが、彼が亡くなったのは、孔明の母の死から疎開までの間の事であり、孔明が11歳~13歳頃の出来事と推測される。
そして、190年~193年頃に相次いで両親を失った孔明少年は、従父・諸葛玄に連れられて故郷から逃げ出すこととなった。あるいは諸葛玄が予章太守に任じられたのを受け、この孤児らを連れていくことにしたのかもしれない。
◎孔明、故郷を去る
では、次は孔明が故郷から避難することになった193年頃の情勢を解説していこう。
話は少し遡るが、191年、董卓は長安へ遷都すると、旧首都・洛陽の守りに残された朱儁は反董卓連合と内通し、出奔してしまった。[後漢書・朱儁伝]
朱儁は過去の黄巾討伐で活躍した将軍である。演義(古典小説)でも優れた将軍として描かれる一方、吉川英治の小説や横山光輝の漫画では傲慢な将軍として描かれ、こちらの印象が強い人も多いかもしれない。
だが、彼は当時を代表する将軍の一人であった。
そんな朱儁が反董卓に参加した。加わった朱儁は早速、諸州に激を飛ばすと、これに徐州刺史・陶謙らが応え、朱儁の元に兵を派遣した。[後漢書・朱儁伝]
先の反董卓連合が袁紹、袁術の二組に大きく別れ、打倒董卓よりも自勢力の拡大に躍起になっていた頃、この朱儁を中心に新反董卓連合軍が誕生した。
だが、朱儁らが新たな反董卓連合を発足させようとしていた頃、長安で事件が起きる。
192年、董卓を、司徒(大臣最高位の一つ)・王允(本編、オーイン、8話より登場)と董卓配下の呂布(本編、リョフ、5話より登場)が殺害するという事件が発生。しかし、董卓の将軍・李傕(本編、リカク、13話より本格登場)、郭汜(本編、カクシ、13話より本格登場)らはすぐに呂布を破り、王允を殺し、新たな権力者となった。[武帝紀、董卓伝]
新たに李傕政権(李傕・郭汜・樊稠(本編未登場)・張済(本編、チョウセイ、15話名のみ登場)らの連合政権だが、便宜上、李傕を中心に話を進める)が発足すると、朱儁らの新反董卓連合軍は、徐州刺史・陶謙が朱儁に太師(皇帝を補佐する役、本来は名誉職、前任者は董卓)になることを薦め、李傕らを討ち、献帝を迎えるよう進言した。
この提案に陶謙の他、前揚州刺史・周乾(本編未登場)、琅邪国の相・陰徳(本編未登場)、東海国の相・劉馗(本編未登場)、彭城国の相・汲廉(本編未登場)、北海国の相・孔融(本編、コウユウ、15話より登場)、沛国の相・袁忠(本編未登場)、泰山郡太守・応卲(前述の諸葛珪上司)、汝南郡太守・徐璆(本編、ジョキュウ、45話より登場)、前九江郡太守・服虔(本編未登場)、博士・鄭玄(本編、ジョウゲン、45話名のみ登場)らが賛同した。[後漢書・朱儁伝]
この内、琅耶国・東海国・彭城国は徐州に属し、北海国は青州、泰山郡は兗州、沛国・汝南郡は予州、九江郡は揚州に属す。徐州・青州・兗州・予州・揚州の五州に股がる大同盟であった。
この頃の情勢を整理すると、長安に発足した李傕政権、それに対し打倒李傕政権を掲げる朱儁同盟、そんなこと知ったことかと自勢力拡大に躍起な袁紹組の三勢力に大きく分けられる。
他に曹操、劉表は袁紹と協力関係に、袁術、公孫瓚はこの後の行動から推測するに、朱儁同盟に接近していたようだ。
この他に益州の劉焉や関中(大陸西部)諸侯の馬騰(本編、バトウ、67話より登場)・韓遂(本編未登場)なんかもいるが、今回の解説には関係ないので割愛する。
なお、我らが主人公・劉備だが、当時は公孫瓚の配下的な立ち位置にいた。
李傕らから見れば、打倒李傕政権を標榜する朱儁同盟も、勝手に領土を拡大し、刺史や太守を任命する袁紹も、政権を運営していく上で邪魔であることに代わりはない。
そんな時、李傕らに太尉(大臣最高位の一つ)・周忠(本編未登場)、尚書(内政官)・賈詡(本編、カク、32話より登場)は進言した。[後漢書・朱儁伝]
それは朱儁らを懐柔し、袁紹組を滅ぼそうという策であった。
なお、余談だが、周忠は後の呉の将軍・周瑜(本編、シュウユ、21話より登場)の従父にあたり、賈詡は後に曹操の参謀になる。
李傕はこの策に乗り、太傅(皇帝の教育係、名誉職)・馬日磾(本編未登場)、太僕(大臣の一つ)・趙岐(本編未登場)を東方へ派遣した。二人はまず洛陽に赴いて後、馬日磾は東方面に赴き、趙岐は別に河北方面(黄河北部)に赴いた。[袁紹伝、袁術伝、後漢書・趙岐伝]
おそらく、洛陽に赴いた時、その付近に駐屯していた朱儁と接触したのだろう。彼らは朱儁に詔勅(皇帝の命令書)を下し、入朝(つまり皇帝のいる長安に戻れ)するよう伝えた。
朱儁の部下は陶謙らに合流し、同盟の盟主になることを勧めたが、朱儁は、皇帝の招聘なら従わねばならない、また、李傕・郭汜らは若僧に過ぎず、彼らでは自分に何かするような策はないと言い、陶謙らの同盟から離脱し、長安へと入った。[後漢書・朱儁伝]
盟主になるはずであった朱儁を失った陶謙は、部下の王朗(本編、オウロウ、63話より登場)や趙昱(本編未登場)の進言に従い、李傕政権へ接近していくこととなる。これを受けて、おそらく馬日磾は徐州に向かったのだろう。徐州刺史であった陶謙を安東将軍・徐州牧・溧陽侯に昇進させ、趙昱を広陵太守に、王朗を会稽太守へと任命した。[陶謙伝、王朗伝]
一方、河北に赴いた趙岐は袁紹の元を訪れ、未だ戦争中である公孫瓚との停戦を命じ、公孫瓚にも書状を送って同様に命じた。[袁紹伝]
李傕らは袁紹には停戦を命じる一方、陶謙らの元朱儁同盟組には官職を与え、彼らを懐柔していった。ここで彼らがこの頃に受け取ったと思わしき官職をまとめると
陶謙:安東将軍・徐州牧・溧陽侯
公孫瓚:前将軍・易侯
袁術:左将軍・陽翟侯
劉表:安南将軍(『劉鎮南碑』による。『正史三国志』及び『後漢書』では鎮南将軍とする)・荊州牧・成武侯
となる。[袁術伝、公孫瓚伝、陶謙伝、劉表伝、後漢書・劉表伝、劉鎮南碑]
一方、袁紹・曹操には停戦命令こそ出したが、何の官職も与えてはいない。
劉表は袁紹と同盟関係にあったが、彼は元々董卓に任命された正式な荊州刺史であったし、袁術に攻められたため、袁紹に接近することとなっただけで、荊州支配が優先事項であった。劉表は密かに李傕らとも連絡を取り合っていた。
李傕は陶謙らを手懐け、彼らを使って密かに袁紹・曹操包囲網を完成させていた。
北は幽州の公孫瓚と、その協力関係にある常山(冀州に属す)の黒山賊と匈奴(北方異民族)の於夫羅(本編未登場)、東は徐州の陶謙、南は荊州の袁術(拠点は南陽郡)と劉表(拠点は南郡)、そして西には李傕らと、冀州の袁紹・兗州の曹操への包囲網が完成した。
李傕らは、袁紹の代わりの冀州牧・壺寿(本編未登場)を黒山賊の元に、曹操の代わりの兗州刺史・金尚(本編未登場)を袁術の元に派遣した。
袁術は金尚と共に曹操領の陳留郡に進出した。この動きに北方では黒山賊や匈奴の於夫羅が呼応し、公孫瓚は劉備を高唐(青州平原国に属す)に、単経を平原(青州平原国に属す)に駐屯させ、陶謙(おそらく本人ではなく彼の軍隊だろう)は発干(兗州東郡に属す)に進出し、袁紹・曹操らを圧迫した。[武帝紀、袁紹伝、袁術伝、公孫瓚伝、呂布伝、後漢書・袁紹伝]
曹操は陳留郡の隣、済陰郡の鄄城県に駐屯していたが、袁術が彭丘(陳留郡に属す)に駐屯し、さらに将軍の劉祥(本編未登場)を匡亭(陳留郡平丘県に属し、彭丘県の北東に位置する)に駐屯させた。
おそらく、この袁術の動きに連動したのだろう。陶謙は兗州の泰山郡に侵攻し、任城国を攻略した(前述の諸葛珪の話で出た193年の戦いのこと)[武帝紀]
この時の陶謙の侵攻で、曹操の父・曹嵩(本編未登場)が殺されている。泰山郡太守・応卲はかつて陶謙とともに朱儁同盟に参加した人物であったが、あっさりと同盟が崩壊し、打倒するはずの李傕らについたのが許せなかったのか、どうもこの頃、袁紹・曹操陣営についたようだ。
曹嵩はこれより前、曹操が反董卓の挙兵をする時に徐州琅邪国に避難していたが、曹操と陶謙との関係悪化により、泰山郡へと移動する最中の出来事であった。応卲は曹操の怒りを恐れて、袁紹の元に逃走した。[武帝紀]
一方、曹操は南下して袁術の将・劉祥を攻撃、そこへ袁術が救援に駆け付けるとこれも撃破した。さらに荊州の劉表が侵攻し、袁術軍の糧道を絶った。袁術は曹操の追撃を受けながら、逃げに逃げ、最終的に揚州の九江郡にまで逃走した。[武帝紀]
劉表は袁紹と李傕、どちらにも友好的な態度で接していた。彼は荊州の全域を支配下におくことが優先事項であり、そのために荊州北部の南陽郡に居座る袁術が邪魔だった。劉表の侵攻により、袁術は南陽に帰れなくなり、彼は揚州へと逃走することとなった。
一方、曹操は袁術が揚州まで撤退すると、自身は引き返し、父の仇である陶謙のいる徐州へ侵攻。徐州十余城を陥落させ、彭城で陶謙軍と大会戦となった。陶謙軍は敗走し、その死者は万単位にのぼり、泗水(徐州にある川)はこのために流れが塞き止められた[武帝紀、陶謙伝]
さて、話がだいぶ長くなってしまったが、ここで話を孔明ら諸葛一家に戻す。
これらの戦いは、包囲網の形成から曹操対袁術の戦いが192年の暮れ~193年の春にかけて、曹操の徐州侵攻が193年の秋に行われた。
この戦いの頃、諸葛一家は故郷を離れ、南へと避難したのではないだろうか。
理由として上げられるのは3つ。
まず、①曹操の脅威である。
曹操は陶謙との会戦後、奪われていた泰山郡の費県・華県を取り戻し、さらに即墨県・開陽県を攻撃した。[曹仁伝]
このうち開陽県は徐州琅邪国に属し、孔明の本籍地である陽都県のすぐ側にある。(即墨県(正しくは即墨侯国)は青州北海国に属す、あるいは琅邪国即丘侯国の誤りか)
この時の曹操は食糧不足で引き上げたが、戦いの火種は残っており、いつ再び徐州に侵攻してくるかわからない状況であった。(実際、翌年夏に再討伐を行う)
曹操の侵攻は、諸葛一家の故郷付近まで迫ってきており、またいつ攻めてくるかわからない状況であった。次こそ陽都県まで侵攻してくるかもしれないということから、曹操が引き上げたうちに、彼らは故郷を去ったのであろう。
次に、②食糧不足である。
翌194年7月、蝗の大量や日照りにより、食料不足となり、穀物が高騰し、人間同士が食いあい、白骨が山と積まれたという。またこの食糧不足により、兗州では曹操と呂布との戦争が中断されている。[武帝紀、後漢書・孝献帝紀]
兗州が食糧不足で悩まされているなら、その隣の徐州も影響を受けているだろう。働き手である父を失ったばかりの諸葛家にとってきつい状況だろう。食糧を求め、江東に移っても不思議はない。実際、董卓の乱以降、中原一帯の食糧不足は深刻で、多くの人士が江東、江南へ避難していた。
最後に、③陶謙との関係悪化である。
陶謙は打倒李傕を掲げながら、あっさりと李傕政権側につき、さらにその結果、曹操の侵攻を招いてしまった。陶謙の能力面での不信はあったのではないか。
また、孔明の従父・諸葛玄は袁術によって予章太守に任命されている[諸葛亮伝]
この頃、陶謙と袁術の関係は悪化している。
ここで九江郡に逃走した袁術の話の続きをしよう。
これより以前、袁術は揚州刺史・陳温(本編未登場)を殺害し(病死とも)、代わりに陳瑀(本編未登場)を揚州刺史(牧とも)に任じていた。
しかし、袁術が敗走し揚州に来ると、陳瑀は袁術の入城を拒否したので、袁術は、今度はこの陳瑀を追い出し、揚州を支配した。寿春(揚州九江郡に属す)を本拠地とし、さらに自ら徐州伯と名乗った。[袁術伝、呂範伝、後漢書・孝献帝紀、後漢書・袁術伝]
袁術が名乗った徐州伯だが、この時代にこんな役職はなく、具体的な役割はよくわからない。
州牧の制度のことを牧伯制といったので、州牧に近いものなのかもしれない。だが、表向きはまだ徐州牧・陶謙と協力関係にあったから、州牧の代わりに名乗ったのかもしれない。
あるいは朱儁の抜けた代わりに、その同盟の盟主の意味合いで名乗ったのかもしれない。
また、かつて周王朝を樹立した武王の父・文王は西伯の称号で知られる。将来的に皇帝を名乗る袁術はその前段階として徐州伯を名乗ったのかもしれない。
いずれにせよ、徐州牧で、朱儁同盟の旗揚げメンバーであった陶謙からしたら、袁術が徐州伯を称することにいい気はしなかっただろう。
また、この頃、袁術は李傕政権とも距離を取り始めていた。
袁術が寿春に移った頃、使者の馬日磾が袁術の元にやってきて、彼を左将軍・陽翟侯に任じようとしたが、袁術は彼から節(使者の証)を奪い取り、拘留して帰さなかった。馬日磾は憂いと怒りにより194年に亡くなった。[袁術伝、後漢書・袁術伝]
また、李傕らは代わりの揚州刺史として劉繇(本編、リュウヨウ、21話より本格登場)を任命したが、袁術はこれとも対立した。[劉繇伝]
こういった袁術の行動により、陶謙は彼を信用しなくなっていった。
孫堅の息子・孫策(本編、ソンサク、7話より登場)は、袁術の庇護下にあったが、母は江都(徐州広陵郡に属す)に暮らしていた。陶謙が孫策を深く嫌ったので、孫策は部下の呂範(本編、リョハン、22話より登場)を江都にやり、母を自分のもとに連れて来させようとした。しかし、陶謙は呂範を袁術のスパイと思い、彼を拷問にかけ取り調べた。後、呂範は食客によって救い出され、孫策母も救いだし、孫策たちは叔父(母の弟)の呉景(本編、ゴケイ、22話より登場)のもとに移り住んだ。[孫策伝、呂範伝]
おそらくこれは193年頃の出来事であろう。袁術を疑うようになった陶謙は、孫策を嫌い、袁術のところから来たというだけで、呂範をスパイと判断した。つい最近までともに曹操と戦っていたとは思えない変わり様だ。
話を諸葛玄に戻すが、彼は袁術によって任命された人物だ。袁術の家は後漢を代表する名家で、お世話になった氏族も数多い。
諸葛氏も袁氏に縁のある一族だったのかもしれない。そのために陶謙に睨まれた可能性はあるのではないだろうか。ただ、後に魏に仕えた諸葛誕のように故郷に残った諸葛氏もいることは考慮すべきである。
こういった理由により、孔明の家は従父・諸葛玄に従い、徐州を去ったのではないだろうか。時に193年~194年頃、孔明、13~14歳の出来事である。