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歴史解説 諸葛孔明前史 前編(父母編)

 これは別に連載している『学園戦記三国志』をより楽しむために、歴史上の三国時代の解説及び考察を行ったものです。本編では省略されてしまった部分やカットされてしまった部分をより詳しく紹介されています。


 なお、この解説には独自の考察も含みます。ご了承ください。


 作中に“本編”として紹介されているのは、別に連載している小説『学園戦記三国志』のことです。また、これが書かれたのは本編の106話時点なので、紹介されている情報も106話時点までの内容に基づいています。(この解説で本編未登場と紹介された人物がそれ以降の話数で登場することがあります)


  ↓学園戦記三国志リンク

https://ncode.syosetu.com/n2756fp/



 ◎まえがき



 学園戦記三国志(以下、本編)の五章77話にて、ついにコウメイが、三顧(さんこ)の礼でリュービの軍師として迎えられた。


 コウメイの元になった人物は、諸葛亮(しょかつりょう)(あざな)(本名以外にもつ別名)は孔明(こうめい)。おそらく三国志でもっとも有名な人物ではないだろうか。


 今回の解説では、この孔明(こうめい)(以下、名前は本編に合わせ孔明(こうめい)に統一する)が劉備(りゅうび)(本編、リュービ、主人公)陣営に加わるまでの前半生を紹介する。


 しかし、孔明(こうめい)の前半生は史料が乏しく、推測が多く混じることご了承いただきたい。あくまで一つの可能性として読んでほしい。



 ◎孔明の家



挿絵(By みてみん)

 孔明(こうめい)徐州(じょしゅう)琅邪国(ろうやこく)陽都県(ようとけん)(太守(長官)ではなく国王(皇族)が封じられた郡を国と呼ぶ)(この当時の後漢(ごかん)では州→郡・国→県の順に行政区分が小さくなる)の人で、西暦181年(以下年はすべて西暦、月日はすべて旧暦)に生まれた。(かん)司隷校尉(しれいこうい)(首都圏警視総監)・諸葛豊(しょかつほう)(本編未登場)の子孫である。父の諸葛珪(しょかつけい)(本編未登場)、(あざな)君貢(くんこう)は漢末の泰山郡(たいざんぐん)(じょう)(郡副長官)であった。孔明(こうめい)は幼い頃に父を亡くした。


 兄・諸葛瑾(しょかつきん)(本編、ショカツキン、91話より本格登場)は174年生まれ、孔明(こうめい)の7歳年長である。他に弟に諸葛均(しょかつきん)(本編未登場)、名称不明の姉が二人いる。[正史三国志(以下、頭に書名のないものは全て正史三国志のもの、注も含む)諸葛亮(しょかつりょう)伝、諸葛瑾(しょかつきん)伝、襄陽耆旧記(じょうようききゅうき)(以下、襄陽記(じょうようき))]


 孔明(こうめい)の先祖・諸葛豊(しょかつほう)前漢(ぜんかん)時代の人。剛直な性格で、司隷校尉(しれいこうい)として貴門権勢(きもんけんせい)の者も恐れず取締り、当時の皇帝・元帝(げんてい)寵臣(ちょうしん)まで逮捕しようとしたため怒りを買い、左遷(させん)されたが、それでも不正摘発(てきはつ)の態度を改めなかったため、庶民に落とされたという。


 その後、孔明(こうめい)の父・諸葛珪(しょかつけい)に至るまで琅邪(ろうや)諸葛(しょかつ)氏は歴史に名を残すような人物は輩出していないが(出自不明の諸葛(しょかつ)姓の者はいる)、諸葛珪(しょかつけい)泰山郡(たいざんぐん)(じょう)となり、従父(おじ)諸葛玄(しょかつげん)(本編未登場)は後に予章(よしょう)太守(郡長官)となり、また一族の諸葛誕(しょかつたん)(本編未登場)も()で用いられた。


 おそらく、全国区ではないが、郡や県の役人を多数輩出した地元では知られた一族だったのではないだろうか。


 また孔明(こうめい)の生まれた181年と同じ年に後に献帝(けんてい)(本編、リューキョー、5話より登場)となる霊帝(れいてい)(本編、(先代)学園長、5話名のみ登場)の第二皇子・劉協(りゅうきょう)が生まれた。他にこの年は国境では異民族が侵攻し、戦争になる最中、宮中では霊帝(れいてい)模擬店(もぎてん)を作り、宮女を売り子にして酒宴を楽しむ有り様であった。


 そして、その3年後の184年に黄巾(こうきん)の乱が勃発(ぼっぱつ)する。孔明(こうめい)が生まれた頃には既に後漢(ごかん)は衰退へと向かっていた。


 孔明(こうめい)の父・諸葛珪(しょかつけい)については泰山郡(たいざんぐん)(じょう)であったことと、早くに亡くなったことしか諸葛亮(しょかつりょう)伝からはわからない。


 兄・諸葛瑾(しょかつきん)も正史に伝がある。その注の『呉書(ごしょ)』に()う、諸葛瑾(しょかつきん)は若い頃、京師(みやこ)に出て『毛詩(もうし)』(詩経(しきょう))、『尚書(しょうしょ)』(書経(しょきょう))、『左氏春秋(さししゅんじゅう)』の学問を修めた。母が死ぬと心を尽くして()に服し、継母にも(つつし)み深く仕えた。[諸葛瑾(しょかつきん)伝]


 京師(みやこ)は当時の首都・洛陽(らくよう)のことでいいだろう。情報が少ないので断定は難しいが、太学(たいがく)で学んだのであろうか。


 太学(たいがく)洛陽(らくよう)にあった高等教育機関で、年齢に明確な規定はないが、大体、15歳~20歳ぐらいの時に入学する。諸葛瑾(しょかつきん)が15歳(以下、年齢は全て数え年)~20歳となると、188年~193年のことである。


 しかし190年、董卓(とうたく)(本編、トータク、5話より登場)が暴政を行い、反董卓連合(はんとうたくれんごう)が起こると、董卓(とうたく)長安(ちょうあん)遷都(せんと)し、洛陽(らくよう)に火を放ち、街は廃墟(はいきょ)と化した。当然、太学(たいがく)も無くなった。


 だが、諸葛瑾(しょかつきん)がこの戦乱に巻き込まれたという記述はない。また学問を修めながら、すぐ官吏(かんり)にはなっていない。このことから、彼は卒業することなく、190年より前に帰郷したのではないだろうか。


 あるいは母の死で帰郷することになったのかもしれない。当時、両親が死ぬと三年()に服すことになっていた。


 ということは、諸葛瑾(しょかつきん)孔明(こうめい)の母は190年頃に亡くなったことになる。孔明(こうめい)が10歳頃のことである。


 またその後、継母、つまり諸葛珪(しょかつけい)が後妻を迎えているのであるから、母の死が先で、父・諸葛珪(しょかつけい)の死はその後のこととなる。



 ◎父・諸葛珪の死



 さて、ここでこの頃の情勢を解説しよう。


 189年、董卓(とうたく)後漢(ごかん)皇帝・少帝(しょうてい)(本編未登場)を廃し、その弟・劉協(りゅうきょう)を即位させた。これが献帝(けんてい)である。


 そして、董卓(とうたく)は暴政を行うと、翌190年、地方の官吏(かんり)たちが反董卓(とうたく)を掲げて連合軍を発足。董卓(とうたく)はその攻勢をかわすため、河南尹(かなんいん)(首都長官)・朱儁(しゅしゅん)(本編未登場)ら群臣の反対を押しきり、首都を洛陽(らくよう)から、より西の都市・長安(ちょうあん)へと遷都(せんと)した。


 一方、その頃、最初こそ意気盛んだった反董卓連合(はんとうたくれんごう)に参加していた群雄は、次第に打倒董卓(とうたく)よりも自勢力の拡大へと興味を移していた。


 連合の袁紹(えんしょう)(本編、エンショウ、7話より本格登場)は韓馥(かんふく)(本編、カンフク、6話名のみ登場)を脅して、彼の地位であった冀州牧(きしゅうぼく)(州長官)を譲り受け、曹操(そうそう)(本編、ソウソウ、1話より登場)を上表(じょうひょう)して東郡太守(とうぐんたいしゅ)として、北に拠点を作り出した。


 また、袁紹(えんしょう)の弟(従弟とも)・袁術(えんじゅつ)(本編、エンジュツ、8話より本格登場)は太守のいなくなった南陽(なんよう)の主に収まり、孫堅(そんけん)(本編、ソンケン、3話より本格登場)を仲間に引き込み、彼を上表(じょうひょう)して予州刺史(よしゅうしし)(州長官)とした。


 上表(じょうひょう)とは朝廷(ちょうてい)に文書を(たてまつ)ることで、言うなれば推薦状である。推薦状であるのだから、当然返事があって初めて実行されるのだが、当時の朝廷の実権は董卓(とうたく)にあり、当然、許可は下りないので、彼らは上表(じょうひょう)したという形だけとり、勝手に任命していった。


 この時、袁紹(えんしょう)はさらに領土を拡大しようと、孫堅(そんけん)とは別に周喁(しゅうぐ)(本編未登場)を予州刺史(よしゅうしし)に任命し、孫堅(そんけん)洛陽(らくよう)攻略に赴いている隙に予州(よしゅう)を占領。洛陽(らくよう)より戻った孫堅(そんけん)袁術(えんじゅつ)とともに周喁(しゅうぐ)を追い出した。これにより袁紹(えんしょう)袁術(えんじゅつ)の対立は決定的となった。


 さらにこの頃、袁術(えんじゅつ)の元に公孫瓚(こうそんさん)(本編、コウソンサン、7話より本格登場)の従弟・公孫越(こうそんえつ)(本編未登場)が対陣していたが、彼もこの予州(よしゅう)戦に加わり、戦死してしまう。これに公孫瓚(こうそんさん)は激怒し、袁紹(えんしょう)を恨み、北方では公孫瓚(こうそんさん)袁紹(えんしょう)の戦いが勃発(ぼっぱつ)する(界橋(かいきょう)の戦い)。[公孫瓚(こうそんさん)伝・孫堅(そんけん)伝]


 これに加えて袁術(えんじゅつ)は南の荊州(けいしゅう)へと勢力を拡大しようと、孫堅(そんけん)に命じて荊州刺史(けいしゅうしし)劉表(りゅうひょう)(本編、リュウヒョウ、63話より本格登場)を攻めさせた。だが、この戦いで運悪く孫堅(そんけん)は戦死し、袁術(えんじゅつ)荊州(けいしゅう)侵攻は失敗に終わった。[孫堅(そんけん)伝]


 かなりややこしくなってきたが、ざっくりまとめると袁紹(えんしょう)曹操(そうそう)劉表(りゅうひょう)が結びつき、袁術(えんじゅつ)孫堅(そんけん)公孫瓚(こうそんさん)と対立状態となり、反董卓(とうたく)連合は事実上の消滅へと向かっていた。


 さて、ここで一度、孔明(こうめい)の父・諸葛珪(しょかつけい)の話に戻そう。


 これより未来の記述となるが、諸葛亮(しょかつりょう)伝には、孔明(こうめい)従父(おじ)諸葛玄(しょかつげん)袁術(えんじゅつ)の任命により予章太守(よしょうたいしゅ)となり、孔明(こうめい)とその弟・諸葛均(しょかつきん)を連れて赴任したとあり、その兄の諸葛瑾(しょかつきん)伝では、諸葛瑾(しょかつきん)は漢の末年、戦乱を避けて江東(こうとう)に移住したとある[諸葛亮(しょかつりょう)伝、諸葛瑾(しょかつきん)伝]


 孔明(こうめい)諸葛瑾(しょかつきん)が避けた戦乱が具体的に何を指すか諸説あるが、一般には193年の曹操(そうそう)徐州(じょしゅう)侵攻のこととされている。


 諸葛玄(しょかつげん)予章太守(よしょうたいしゅ)に任命されたのは195年頃なので、年数的にも妥当ではないだろうか。


 また、この時孔明(こうめい)従父(おじ)である諸葛玄(しょかつげん)に従っているので、父・諸葛珪(しょかつけい)が亡くなったのは避難する193年以前ではないだろうか。


 つまり、諸葛珪(しょかつけい)もこの頃に亡くなったと推測できるのである。では、この頃に何があったのだろうか。


挿絵(By みてみん)

 諸葛珪(しょかつけい)泰山郡(たいざんぐん)(じょう)であった。この泰山郡(たいざんぐん)兗州(えんしゅう)に属すが、徐州(じょしゅう)に属す孔明(こうめい)の故郷・琅邪国(ろうやこく)のすぐ隣にある。


 189年より泰山郡(たいざんぐん)太守(たいしゅ)(郡長官、諸葛珪(しょかつけい)の上司)は応卲(おうしょう)(本編未登場)が勤めていた。191年、隣の青州(せいしゅう)より黄巾賊(こうきんぞく)の残党三十万が食料を求めて泰山郡(たいざんぐん)に侵攻した。応卲(おうしょう)は文官・武官を率いて勇戦し、数千の首級を上げ、(ぞく)退(しりぞ)けた。[後漢書・応卲(おうしょう)伝]


 この時の青州(せいしゅう)黄巾賊(こうきんぞく)はその後、青州(せいしゅう)に戻ったが、今度は公孫瓚(こうそんさん)に追い返され、翌192年、再び兗州(えんしゅう)に入り、任城国(にんじょうこく)(兗州(えんしゅう)に属す)の(しょう)(太守(たいしゅ)ではなく国王(皇族)が治める郡を国と呼び、その地の内政担当者(事実上の長官)を(しょう)と呼んだ)・鄭遂(ていすい)(本編未登場)を殺害し、更に北隣の東平国(とうへいこく)(兗州(えんしゅう)に属す)へ侵攻した。兗州(えんしゅう)刺史(しし)劉岱(りゅうたい)(本編、リュウタイ、6話より登場)はこれを迎え撃ったが、敵わず戦死してしまう。


 これを受け済北国(せいほくこく)(兗州(えんしゅう)に属す)の(しょう)鮑信(ほうしん)(本編、ホウシン、6話名のみ登場)は当時、東郡(とうぐん)(兗州(えんしゅう)に属す)太守(たいしゅ)であった曹操(そうそう)を迎えて兗州牧(えんしゅうぼく)とした。曹操(そうそう)黄巾賊(こうきんぞく)と戦い、彼らを降伏させ、兵士三十万、その家族百万を受け入れ、これを青州兵(せいしゅうへい)と名付けた。[武帝紀(ぶていき)(曹操(そうそう)伝)]


 また先の話になるが、193年には徐州牧(じょしゅうぼく)陶謙(とうけん)(本編、トウケン、24話より登場)が泰山郡(たいざんぐん)に侵攻し、華県(かけん)費県(ひけん)を奪い、さらに任城国(にんじょうこく)を攻略した。[武帝紀(ぶていき)]


 孔明(こうめい)の父・諸葛珪(しょかつけい)のいた泰山郡(たいざんぐん)は、191年・193年にそれぞれ黄巾賊(こうきんぞく)陶謙(とうけん)の侵攻を受けており、あるいはこの時に諸葛珪(しょかつけい)も戦死したのかもしれない。


 これはあくまでも可能性の話で、事実は諸葛珪(しょかつけい)は早くに亡くなった以上のことはわからない。だが、彼が亡くなったのは、孔明(こうめい)の母の死から疎開(そかい)までの間の事であり、孔明(こうめい)が11歳~13歳頃の出来事と推測される。


 そして、190年~193年頃に相次いで両親を失った孔明(こうめい)少年は、従父(おじ)諸葛玄(しょかつげん)に連れられて故郷から逃げ出すこととなった。あるいは諸葛玄(しょかつげん)予章太守(よしょうたいしゅ)に任じられたのを受け、この孤児らを連れていくことにしたのかもしれない。



 ◎孔明、故郷を去る



 では、次は孔明(こうめい)が故郷から避難することになった193年頃の情勢を解説していこう。


 話は少し(さかのぼ)るが、191年、董卓(とうたく)長安(ちょうあん)遷都(せんと)すると、旧首都・洛陽(らくよう)の守りに残された朱儁(しゅしゅん)反董卓連合(はんとうたくれんごう)と内通し、出奔(しゅっぽん)してしまった。[後漢(ごかん)書・朱儁(しゅしゅん)伝]


 朱儁(しゅしゅん)は過去の黄巾(こうきん)討伐で活躍した将軍である。演義(えんぎ)(古典小説)でも優れた将軍として描かれる一方、吉川英治(よしかわえいじ)の小説や横山光輝(よこやまみつてる)の漫画では傲慢(ごうまん)な将軍として描かれ、こちらの印象が強い人も多いかもしれない。


 だが、彼は当時を代表する将軍の一人であった。


 そんな朱儁(しゅしゅん)反董卓(はんとうたく)に参加した。加わった朱儁(しゅしゅん)は早速、諸州に(げき)を飛ばすと、これに徐州刺史(じょしゅうしし)陶謙(とうけん)らが(こた)え、朱儁(しゅしゅん)の元に兵を派遣した。[後漢(ごかん)書・朱儁(しゅしゅん)伝]


 先の反董卓連合(はんとうたくれんごう)袁紹(えんしょう)袁術(えんじゅつ)の二組に大きく別れ、打倒董卓(とうたく)よりも自勢力の拡大に躍起(やっき)になっていた頃、この朱儁(しゅしゅん)を中心に新反董卓連合軍(はんとうたくれんごう)が誕生した。


 だが、朱儁(しゅしゅん)らが新たな反董卓連合(はんとうたくれんごう)を発足させようとしていた頃、長安(ちょうあん)で事件が起きる。


 192年、董卓(とうたく)を、司徒(しと)(大臣最高位の一つ)・王允(おういん)(本編、オーイン、8話より登場)と董卓(とうたく)配下の呂布(りょふ)(本編、リョフ、5話より登場)が殺害するという事件が発生。しかし、董卓(とうたく)の将軍・李傕(りかく)(本編、リカク、13話より本格登場)、郭汜(かくし)(本編、カクシ、13話より本格登場)らはすぐに呂布(りょふ)を破り、王允(おういん)を殺し、新たな権力者となった。[武帝紀(ぶていき)董卓(とうたく)伝]


 新たに李傕(りかく)政権(李傕(りかく)郭汜(かくし)樊稠(はんちょう)(本編未登場)・張済(ちょうせい)(本編、チョウセイ、15話名のみ登場)らの連合政権だが、便宜上、李傕(りかく)を中心に話を進める)が発足すると、朱儁(しゅしゅん)らの新反董卓(とうたく)連合軍は、徐州刺史(じょしゅうしし)陶謙(とうけん)朱儁(しゅしゅん)太師(たいし)(皇帝を補佐する役、本来は名誉職、前任者は董卓(とうたく))になることを(すす)め、李傕(りかく)らを討ち、献帝(けんてい)を迎えるよう進言した。


 この提案に陶謙(とうけん)の他、前揚州刺史(ようしゅうしし)周乾(しゅうけん)(本編未登場)、琅邪国(ろうやこく)(しょう)陰徳(いんとく)(本編未登場)、東海国(とうかいこく)(しょう)劉馗(りゅうき)(本編未登場)、彭城国(ほうじょうこく)(しょう)汲廉(きゅうれん)(本編未登場)、北海国(ほっかいこく)(しょう)孔融(こうゆう)(本編、コウユウ、15話より登場)、沛国(はいこく)(しょう)袁忠(えんちゅう)(本編未登場)、泰山郡(たいざんぐん)太守(たいしゅ)応卲(おうしょう)(前述の諸葛珪(しょかつけい)上司)、汝南郡(じょなんぐん)太守(たいしゅ)徐璆(じょきゅう)(本編、ジョキュウ、45話より登場)、前九江郡(きゅうこうぐん)太守(たいしゅ)服虔(ふくけん)(本編未登場)、博士・鄭玄(じょうげん)(本編、ジョウゲン、45話名のみ登場)らが賛同した。[後漢(ごかん)書・朱儁(しゅしゅん)伝]


 この内、琅耶国(ろうやこく)東海国(とうかいこく)彭城国(ほうじょうこく)徐州(じょしゅう)に属し、北海国(ほっかいこく)青州(せいしゅう)泰山郡(たいざんぐん)兗州(えんしゅう)沛国(はいこく)汝南郡(じょなんぐん)予州(よしゅう)九江郡(きゅうこうぐん)揚州(ようしゅう)に属す。徐州(じょしゅう)青州(せいしゅう)兗州(えんしゅう)予州(よしゅう)揚州(ようしゅう)の五州に股がる大同盟であった。

挿絵(By みてみん)


 この頃の情勢を整理すると、長安(ちょうあん)に発足した李傕(りかく)政権、それに対し打倒李傕(りかく)政権を掲げる朱儁(しゅしゅん)同盟、そんなこと知ったことかと自勢力拡大に躍起(やっき)袁紹(えんしょう)組の三勢力に大きく分けられる。


 他に曹操(そうそう)劉表(りゅうひょう)袁紹(えんしょう)と協力関係に、袁術(えんじゅつ)公孫瓚(こうそんさん)はこの後の行動から推測するに、朱儁(しゅしゅん)同盟に接近していたようだ。


 この他に益州(えきしゅう)劉焉(りゅうえん)関中(かんちゅう)(大陸西部)諸侯の馬騰(ばとう)(本編、バトウ、67話より登場)・韓遂(かんすい)(本編未登場)なんかもいるが、今回の解説には関係ないので割愛する。


 なお、我らが主人公・劉備(りゅうび)だが、当時は公孫瓚(こうそんさん)の配下的な立ち位置にいた。


 李傕(りかく)らから見れば、打倒李傕(りかく)政権を標榜(ひょうぼう)する朱儁(しゅしゅん)同盟も、勝手に領土を拡大し、刺史(しし)太守(たいしゅ)を任命する袁紹(えんしょう)も、政権を運営していく上で邪魔であることに代わりはない。


 そんな時、李傕(りかく)らに太尉(たいい)(大臣最高位の一つ)・周忠(しゅうちゅう)(本編未登場)、尚書(しょうしょ)(内政官)・賈詡(かく)(本編、カク、32話より登場)は進言した。[後漢(ごかん)書・朱儁(しゅしゅん)伝]


 それは朱儁(しゅしゅん)らを懐柔(かいじゅう)し、袁紹(えんしょう)組を滅ぼそうという策であった。


 なお、余談だが、周忠(しゅうちゅう)は後の()の将軍・周瑜(しゅうゆ)(本編、シュウユ、21話より登場)の従父(おじ)にあたり、賈詡(かく)は後に曹操(そうそう)の参謀になる。


 李傕(りかく)はこの策に乗り、太傅(たいふ)(皇帝の教育係、名誉職)・馬日磾(ばじつてい)(本編未登場)、太僕(たいぼく)(大臣の一つ)・趙岐(ちょうき)(本編未登場)を東方へ派遣した。二人はまず洛陽(らくよう)に赴いて後、馬日磾(ばじつてい)は東方面に赴き、趙岐(ちょうき)は別に河北(かほく)方面(黄河北部)に赴いた。[袁紹(えんしょう)伝、袁術(えんじゅつ)伝、後漢(ごかん)書・趙岐(ちょうき)伝]


 おそらく、洛陽(らくよう)に赴いた時、その付近に駐屯していた朱儁(しゅしゅん)と接触したのだろう。彼らは朱儁(しゅしゅん)詔勅(しょうちょく)(皇帝の命令書)を下し、入朝(にゅうちょう)(つまり皇帝のいる長安(ちょうあん)に戻れ)するよう伝えた。


 朱儁(しゅしゅん)の部下は陶謙(とうけん)らに合流し、同盟の盟主になることを勧めたが、朱儁(しゅしゅん)は、皇帝の招聘(しょうへい)なら従わねばならない、また、李傕(りかく)郭汜(かくし)らは若僧に過ぎず、彼らでは自分に何かするような策はないと言い、陶謙(とうけん)らの同盟から離脱し、長安(ちょうあん)へと入った。[後漢(ごかん)書・朱儁(しゅしゅん)伝]


 盟主になるはずであった朱儁(しゅしゅん)を失った陶謙(とうけん)は、部下の王朗(おうろう)(本編、オウロウ、63話より登場)や趙昱(ちょういく)(本編未登場)の進言に従い、李傕(りかく)政権へ接近していくこととなる。これを受けて、おそらく馬日磾(ばじつてい)徐州(じょしゅう)に向かったのだろう。徐州(じょしゅう)刺史(しし)であった陶謙(とうけん)安東将軍(あんとうしょうぐん)徐州牧(じょしゅうぼく)溧陽侯(りつようこう)に昇進させ、趙昱(ちょういく)広陵(こうりょう)太守(たいしゅ)に、王朗(おうろう)会稽(かいけい)太守(たいしゅ)へと任命した。[陶謙(とうけん)伝、王朗(おうろう)伝]

 

 一方、河北(かほく)に赴いた趙岐(ちょうき)袁紹(えんしょう)の元を訪れ、未だ戦争中である公孫瓚(こうそんさん)との停戦を命じ、公孫瓚(こうそんさん)にも書状を送って同様に命じた。[袁紹(えんしょう)伝]


 李傕(りかく)らは袁紹(えんしょう)には停戦を命じる一方、陶謙(とうけん)らの元朱儁(しゅしゅん)同盟組には官職を与え、彼らを懐柔していった。ここで彼らがこの頃に受け取ったと思わしき官職をまとめると


陶謙(とうけん)安東将軍(あんとうしょうぐん)徐州牧(じょしゅうぼく)溧陽侯(りつようこう)

公孫瓚(こうそんさん)前将軍(ぜんしょうぐん)易侯(えきこう)

袁術(えんじゅつ)左将軍(さしょうぐん)陽翟侯(ようてきこう)

劉表(りゅうひょう)安南将軍(あんなんしょうぐん)(『劉鎮南碑(りゅうちんなんひ)』による。『正史三国志』及び『後漢(ごかん)書』では鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)とする)・荊州牧(けいしゅうぼく)成武侯(せいぶこう)


 となる。[袁術(えんじゅつ)伝、公孫瓚(こうそんさん)伝、陶謙(とうけん)伝、劉表(りゅうひょう)伝、後漢(ごかん)書・劉表(りゅうひょう)伝、劉鎮南碑(りゅうちんなんひ)]


 一方、袁紹(えんしょう)曹操(そうそう)には停戦命令こそ出したが、何の官職も与えてはいない。


 劉表(りゅうひょう)袁紹(えんしょう)と同盟関係にあったが、彼は元々董卓(とうたく)に任命された正式な荊州刺史(けいしゅうしし)であったし、袁術に攻められたため、袁紹に接近することとなっただけで、荊州(けいしゅう)支配が優先事項であった。劉表(りゅうひょう)は密かに李傕(りかく)らとも連絡を取り合っていた。


 李傕(りかく)陶謙(とうけん)らを手懐け、彼らを使って密かに袁紹(えんしょう)曹操(そうそう)包囲網を完成させていた。


 北は幽州(ゆうしゅう)公孫瓚(こうそんさん)と、その協力関係にある常山(じょうざん)(冀州(きしゅう)に属す)の黒山賊(こくざんぞく)匈奴(きょうど)(北方異民族)の於夫羅(おふら)(本編未登場)、東は徐州(じょしゅう)陶謙(とうけん)、南は荊州(けいしゅう)袁術(えんじゅつ)(拠点は南陽郡(なんようぐん))と劉表(りゅうひょう)(拠点は南郡(なんぐん))、そして西には李傕(りかく)らと、冀州(きしゅう)袁紹(えんしょう)兗州(えんしゅう)曹操(そうそう)への包囲網が完成した。


 李傕(りかく)らは、袁紹(えんしょう)の代わりの冀州牧(きしゅうぼく)壺寿(こじゅ)(本編未登場)を黒山賊(こくざんぞく)の元に、曹操(そうそう)の代わりの兗州刺史(えんしゅうしし)金尚(きんしょう)(本編未登場)を袁術(えんじゅつ)の元に派遣した。


 袁術(えんじゅつ)金尚(きんしょう)と共に曹操(そうそう)領の陳留郡(ちんりゅうぐん)に進出した。この動きに北方では黒山賊(こくざんぞく)匈奴(きょうど)於夫羅(おふら)が呼応し、公孫瓚(こうそんさん)劉備(りゅうび)高唐(こうとう)(青州(せいしゅう)平原国(へいげんこく)に属す)に、単経(ぜんけい)平原(へいげん)(青州(せいしゅう)平原国(へいげんこく)に属す)に駐屯させ、陶謙(とうけん)(おそらく本人ではなく彼の軍隊だろう)は発干(はつかん)(兗州(えんしゅう)東郡(とうぐん)に属す)に進出し、袁紹(えんしょう)曹操(そうそう)らを圧迫した。[武帝紀(ぶていき)袁紹(えんしょう)伝、袁術(えんじゅつ)伝、公孫瓚(こうそんさん)伝、呂布(りょふ)伝、後漢(ごかん)書・袁紹(えんしょう)伝]


 曹操(そうそう)陳留郡(ちんりゅうぐん)の隣、済陰郡(せいいんぐん)鄄城県(けんじょうけん)に駐屯していたが、袁術(えんじゅつ)彭丘(ほうきゅう)(陳留郡(ちんりゅうぐん)に属す)に駐屯し、さらに将軍の劉祥(りゅうしょう)(本編未登場)を匡亭(きょうてい)(陳留郡(ちんりゅうぐん)平丘県(へいきゅうけん)に属し、彭丘県(ほうきゅうけん)の北東に位置する)に駐屯させた。


 おそらく、この袁術(えんじゅつ)の動きに連動したのだろう。陶謙(とうけん)兗州(えんしゅう)泰山郡(たいざんぐん)に侵攻し、任城国(にんじょうこく)を攻略した(前述の諸葛珪(しょかつけい)の話で出た193年の戦いのこと)[武帝紀(ぶていき)]


挿絵(By みてみん)

 この時の陶謙(とうけん)の侵攻で、曹操(そうそう)の父・曹嵩(そうすう)(本編未登場)が殺されている。泰山郡(たいざんぐん)太守(たいしゅ)応卲(おうしょう)はかつて陶謙(とうけん)とともに朱儁(しゅしゅん)同盟に参加した人物であったが、あっさりと同盟が崩壊し、打倒するはずの李傕(りかく)らについたのが許せなかったのか、どうもこの頃、袁紹(えんしょう)曹操(そうそう)陣営についたようだ。


 曹嵩(そうすう)はこれより前、曹操(そうすう)が反董卓(とうたく)の挙兵をする時に徐州(じょしゅう)琅邪国(ろうやこく)に避難していたが、曹操(そうそう)陶謙(とうけん)との関係悪化により、泰山郡(たいざんぐん)へと移動する最中の出来事であった。応卲(おうしょう)曹操(そうそう)の怒りを恐れて、袁紹(えんしょう)の元に逃走した。[武帝紀(ぶていき)]


 一方、曹操(そうそう)は南下して袁術(えんじゅつ)の将・劉祥(りゅうしょう)を攻撃、そこへ袁術(えんじゅつ)が救援に駆け付けるとこれも撃破した。さらに荊州(けいしゅう)劉表(りゅうひょう)が侵攻し、袁術(えんじゅつ)軍の糧道を絶った。袁術(えんじゅつ)曹操(そうそう)の追撃を受けながら、逃げに逃げ、最終的に揚州(ようしゅう)九江郡(きゅうこうぐん)にまで逃走した。[武帝紀(ぶていき)]


 劉表(りゅうひょう)袁紹(えんしょう)李傕(りかく)、どちらにも友好的な態度で接していた。彼は荊州(けいしゅう)の全域を支配下におくことが優先事項であり、そのために荊州(けいしゅう)北部の南陽郡(なんようぐん)に居座る袁術(えんじゅつ)が邪魔だった。劉表(りゅうひょう)の侵攻により、袁術(えんじゅつ)南陽(なんよう)に帰れなくなり、彼は揚州(ようしゅう)へと逃走することとなった。


 一方、曹操(そうそう)袁術(えんじゅつ)揚州(ようしゅう)まで撤退すると、自身は引き返し、父の(かたき)である陶謙(とうけん)のいる徐州(じょしゅう)へ侵攻。徐州(じょしゅう)十余城を陥落させ、彭城(ほうじょう)陶謙(とうけん)軍と大会戦となった。陶謙(とうけん)軍は敗走し、その死者は万単位にのぼり、泗水(しすい)(徐州(じょしゅう)にある川)はこのために流れが()き止められた[武帝紀(ぶていき)陶謙(とうけん)伝]


 さて、話がだいぶ長くなってしまったが、ここで話を孔明(こうめい)諸葛(しょかつ)一家に戻す。


 これらの戦いは、包囲網の形成から曹操(そうそう)袁術(えんじゅつ)の戦いが192年の暮れ~193年の春にかけて、曹操(そうそう)徐州(じょしゅう)侵攻が193年の秋に行われた。


 この戦いの頃、諸葛(しょかつ)一家は故郷を離れ、南へと避難したのではないだろうか。


 理由として上げられるのは3つ。


 まず、①曹操(そうそう)の脅威である。


 曹操(そうそう)陶謙(とうけん)との会戦後、奪われていた泰山郡(たいざんぐん)費県(ひけん)華県(かけん)を取り戻し、さらに即墨県(そくぼくけん)開陽県(かいようけん)を攻撃した。[曹仁(そうじん)伝]


 このうち開陽県(かいようけん)徐州(じょしゅう)琅邪国(ろうやこく)に属し、孔明(こうめい)本籍地(ほんせきち)である陽都県(ようとけん)のすぐ側にある。(即墨県(そくぼくけん)(正しくは即墨侯国(そくぼくこうこく))は青州(せいしゅう)北海国(ほっかいこく)に属す、あるいは琅邪国(ろうやこく)即丘侯国(そくきゅうこうこく)の誤りか)


 この時の曹操(そうそう)は食糧不足で引き上げたが、戦いの火種は残っており、いつ再び徐州(じょしゅう)に侵攻してくるかわからない状況であった。(実際、翌年夏に再討伐を行う)


 曹操(そうそう)の侵攻は、諸葛(しょかつ)一家の故郷付近まで迫ってきており、またいつ攻めてくるかわからない状況であった。次こそ陽都県(ようとけん)まで侵攻してくるかもしれないということから、曹操(そうそう)が引き上げたうちに、彼らは故郷を去ったのであろう。


 次に、②食糧不足である。


 翌194年7月、(いなご)の大量や日照りにより、食料不足となり、穀物(こくもつ)高騰(こうとう)し、人間同士が食いあい、白骨が山と積まれたという。またこの食糧不足により、兗州(えんしゅう)では曹操(そうそう)呂布(りょふ)との戦争が中断されている。[武帝紀(ぶていき)後漢(ごかん)書・孝献帝紀(こうけんていき)]


 兗州(えんしゅう)が食糧不足で悩まされているなら、その隣の徐州(じょしゅう)も影響を受けているだろう。働き手である父を失ったばかりの諸葛(しょかつ)家にとってきつい状況だろう。食糧を求め、江東(こうとう)に移っても不思議はない。実際、董卓(とうたく)の乱以降、中原(ちゅうげん)一帯の食糧不足は深刻で、多くの人士が江東(こうとう)江南(こうなん)へ避難していた。


 最後に、③陶謙(とうけん)との関係悪化である。


 陶謙(とうけん)は打倒李傕(りかく)を掲げながら、あっさりと李傕(りかく)政権側につき、さらにその結果、曹操(そうそう)の侵攻を招いてしまった。陶謙(とうけん)の能力面での不信はあったのではないか。


 また、孔明(こうめい)従父(おじ)諸葛玄(しょかつげん)袁術(えんじゅつ)によって予章(よしょう)太守(たいしゅ)に任命されている[諸葛亮(しょかつりょう)伝]


 この頃、陶謙(とうけん)袁術(えんじゅつ)の関係は悪化している。


 ここで九江郡(きゅうこうぐん)に逃走した袁術(えんじゅつ)の話の続きをしよう。


 これより以前、袁術(えんじゅつ)揚州刺史(ようしゅうしし)陳温(ちんおん)(本編未登場)を殺害し(病死とも)、代わりに陳瑀(ちんう)(本編未登場)を揚州刺史(ようしゅうしし)((ぼく)とも)に任じていた。

 

 しかし、袁術(えんじゅつ)が敗走し揚州(ようしゅう)に来ると、陳瑀(ちんう)袁術(えんじゅつ)の入城を拒否したので、袁術(えんじゅつ)は、今度はこの陳瑀(ちんう)を追い出し、揚州(ようしゅう)を支配した。寿春(じゅしゅん)(揚州(ようしゅう)九江郡(きゅうこうぐん)に属す)を本拠地とし、さらに自ら徐州伯(じょしゅうはく)と名乗った。[袁術(えんじゅつ)伝、呂範(りょはん)伝、後漢(ごかん)書・孝献帝紀(こうけんていき)後漢(ごかん)書・袁術(えんじゅつ)伝]


 袁術(えんじゅつ)が名乗った徐州伯(じょしゅうはく)だが、この時代にこんな役職はなく、具体的な役割はよくわからない。


 州牧(しゅうぼく)の制度のことを牧伯(ぼくはく)制といったので、州牧(しゅうぼく)に近いものなのかもしれない。だが、表向きはまだ徐州牧(じょしゅうぼく)陶謙(とうけん)と協力関係にあったから、州牧(しゅうぼく)の代わりに名乗ったのかもしれない。


 あるいは朱儁(しゅしゅん)の抜けた代わりに、その同盟の盟主の意味合いで名乗ったのかもしれない。


 また、かつて周王朝(しゅうおうちょう)を樹立した武王(ぶおう)の父・文王(ぶんおう)西伯(せいはく)の称号で知られる。将来的に皇帝を名乗る袁術(えんじゅつ)はその前段階として徐州伯(じょしゅうはく)を名乗ったのかもしれない。


 いずれにせよ、徐州牧(じょしゅうぼく)で、朱儁(しゅしゅん)同盟の旗揚げメンバーであった陶謙(とうけん)からしたら、袁術(えんじゅつ)徐州伯(じょしゅうはく)を称することにいい気はしなかっただろう。


 また、この頃、袁術(えんじゅつ)李傕(りかく)政権とも距離を取り始めていた。


 袁術(えんじゅつ)寿春(じゅしゅん)に移った頃、使者の馬日磾(ばじつてい)袁術(えんじゅつ)の元にやってきて、彼を左将軍(さしょうぐん)陽翟侯(ようてきこう)に任じようとしたが、袁術(えんじゅつ)は彼から(せつ)(使者の証)を奪い取り、拘留(こうりゅう)して帰さなかった。馬日磾(ばじつてい)(うれ)いと怒りにより194年に亡くなった。[袁術(えんじゅつ)伝、後漢(ごかん)書・袁術(えんじゅつ)伝]


 また、李傕(りかく)らは代わりの揚州刺史(ようしゅうしし)として劉繇(りゅうよう)(本編、リュウヨウ、21話より本格登場)を任命したが、袁術(えんじゅつ)はこれとも対立した。[劉繇(りゅうよう)伝]


 こういった袁術(えんじゅつ)の行動により、陶謙(とうけん)は彼を信用しなくなっていった。


 孫堅(そんけん)の息子・孫策(そんさく)(本編、ソンサク、7話より登場)は、袁術(えんじゅつ)庇護下(ひごか)にあったが、母は江都(こうと)(徐州(じょしゅう)広陵郡(こうりょうぐん)に属す)に暮らしていた。陶謙(とうけん)孫策(そんさく)を深く嫌ったので、孫策(そんさく)は部下の呂範(りょはん)(本編、リョハン、22話より登場)を江都(こうと)にやり、母を自分のもとに連れて来させようとした。しかし、陶謙(とうけん)呂範(りょはん)袁術(えんじゅつ)のスパイと思い、彼を拷問にかけ取り調べた。後、呂範(りょはん)食客(しょっかく)によって救い出され、孫策(そんさく)母も救いだし、孫策(そんさく)たちは叔父(母の弟)の呉景(ごけい)(本編、ゴケイ、22話より登場)のもとに移り住んだ。[孫策(そんさく)伝、呂範(りょはん)伝]


 おそらくこれは193年頃の出来事であろう。袁術(えんじゅつ)を疑うようになった陶謙(とうけん)は、孫策(そんさく)を嫌い、袁術(えんじゅつ)のところから来たというだけで、呂範(りょはん)をスパイと判断した。つい最近までともに曹操(そうそう)と戦っていたとは思えない変わり様だ。


 話を諸葛玄(しょかつげん)に戻すが、彼は袁術(えんじゅつ)によって任命された人物だ。袁術(えんじゅつ)の家は後漢(ごかん)を代表する名家で、お世話になった氏族も数多い。


 諸葛(しょかつ)氏も(えん)氏に縁のある一族だったのかもしれない。そのために陶謙(とうけん)(にら)まれた可能性はあるのではないだろうか。ただ、後に()に仕えた諸葛誕(しょかつたん)のように故郷に残った諸葛(しょかつ)氏もいることは考慮すべきである。


 こういった理由により、孔明(こうめい)の家は従父(おじ)諸葛玄(しょかつげん)に従い、徐州(じょしゅう)を去ったのではないだろうか。時に193年~194年頃、孔明、13~14歳の出来事である。

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