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歴史解説 袁家の滅亡と博望の戦い 後編

 ※これは別に連載中の小説『学園戦記三国志』の歴史解説回を独立・編集して掲載するものです。


↓学園戦記三国志リンク

https://ncode.syosetu.com/n2756fp/


 前回は袁譚(えんたん)袁尚(えんしょう)の対立から博望(はくぼう)の戦い、袁譚(えんたん)の滅亡や袁尚(えんしょう)の敗北を述べた。今回はその後の(えん)家、劉表(りゅうひょう)らについて解説して終わりとしたい。



 ◎高幹の反乱



 4月、幽州(ゆうしゅう)で反乱が起き、既に曹操(そうそう)に恭順していた幽州(ゆうしゅう)漁陽(ぎょよう)郡の勢力・鮮于輔(せんうほ)(本編、センウホ、62話初登場)が烏丸(うがん)の攻撃を受けた。[武帝紀(ぶていき)]


 鮮于輔(せんうほ)は元々、幽州牧(ゆうしゅうぼく)劉虞(りゅうぐ)(本編未登場)の部下であったが、劉虞(りゅうぐ)公孫瓚(こうそんさん)(本編、コウソンサン、6話初登場)と烏丸(うがん)対策をめぐって対立、公孫瓚(こうそんさん)に殺され、復讐のため公孫瓚(こうそんさん)と対立した。


 閻柔(えんじゅう)(本編、エンジュウ、62話初登場)が烏丸(うがん)族から慕われていたので彼を烏丸司馬(うがんしば)とし、異民族・漢族合わせて数万の軍勢を手に入れ、さらに公孫瓚(こうそんさん)と対立していた袁紹(えんしょう)と手を組み、公孫瓚(こうそんさん)を倒した。[公孫瓚(こうそんさん)伝]


 その後は閻柔(えんじゅう)とともに袁紹(えんしょう)に従っていたようだが、官渡(かんと)の戦いが始まると曹操(そうそう)に帰服。曹操(そうそう)は彼を建中(けんちゅう)将軍・(とく)幽州(ゆうしゅう)六郡に任じられ、閻柔(えんじゅう)曹操(そうそう)に使者を送り、護烏丸校尉(ごうがんこうい)となった。[公孫瓚(こうそんさん)伝、田予(でんよ)伝、烏丸(うがん)伝]


 鮮于輔(せんうほ)は部下の田予(でんよ)(本編未登場)の意見に従い、早くから曹操(そうそう)に帰服したようだが、実際は多くの群雄がそうであったように、両方に使者を送り、優勢な方に味方する気だったのだろう。鮮于輔(せんうほ)閻柔(えんじゅう)が実際に曹操(そうそう)に帰服したのは袁譚(えんたん)が死に、曹操(そうそう)勢力が幽州に迫った頃であろう。しかし、彼らはその後も曹操(そうそう)によく仕え、信頼を勝ち取っていくことになる。


 本編62話、センウホ(鮮于輔)は、エンジュウ(閻柔)とともにカントの戦いで敗北後のエンショウに対して、反乱を起こす北校舎の独立勢力として登場する。


 本編での登場は史実より少し早いが、名前だけでも出しておきたかったので、出すことにした。再登場の予定は今のところない。


 8月、曹操(そうそう)は反乱を鎮圧し、鮮于輔(せんうほ)を救援した。この隙をつき降伏していた并州刺史(へいしゅうしし)高幹(こうかん)が反乱を起こした。曹操(そうそう)は武将の楽進(がくしん)(本編、ガクシン、9話初登場)、李典(りてん)を派遣したが、勝つことはできなかった。[武帝紀(ぶていき)]


 当時、河内(かだい)郡(司隷(しれい)に属す)には張晟(ちょうせい)(張白騎(ちょうはくき))(本編未登場)が一万余の盗賊団の首領として独立しており、彼が高幹(こうかん)に呼応し、河内(かだい)で反乱を起こした。


 また、弘農(こうのう)郡(司隷(しれい)に属す)の張琰(ちょうえん)(本編未登場)も呼応し、反乱を起こした。


 前回、高幹(こうかん)が攻撃した河東(かとう)郡(司隷(しれい)に属す)はこの時、太守を長年勤めた王邑(おうゆう)(本編未登場)から新太守杜畿(とき)(本編、トキ、41話初登場)に交代することになった。部下の衛固(えいこ)(本編未登場)と范先(はんせん)(本編未登場)は表向きは王邑(おうゆう)の留任を願ったが、裏では高幹(こうかん)と手を組んで反乱に加担した。


 彼らはさらに荊州(けいしゅう)劉表(りゅうひょう)とも連絡を取り合っていたという。[鍾繇(しょうよう)伝、張既(ちょうき)伝、賈逵(かき)伝、杜畿(とき)伝]


 上記の内、張琰(ちょうえん)についてはよくわからない。張既(ちょうき)伝では弘農(こうのう)の人、賈逵(かき)伝では、当時、澠池(べんち)県令(司隷(しれい)弘農(こうのう)郡に属す)であった賈逵(かき)(本編、カキ、64話初登場)は挙兵前の張琰(ちょうえん)に会ったといい、杜畿(とき)伝では弘農(こうのう)太守を捕らえた(捕らえた人名は不明)とある。弘農(こうのう)太守に仕える役人であろうか(太守に仕える役人は地元の有力者である場合が多い)


 206年1月、曹操(そうそう)高幹(こうかん)を攻め、3ヶ月かけ彼の(こも)壺関(こかん)を落とした。高幹(こうかん)荊州(けいしゅう)に逃げようとしたが、捕らえられ斬られた。[武帝紀(ぶていき)袁紹(えんしょう)伝]


 また、高幹(こうかん)は奪われた(ぎょう)への攻撃も計画していたが、守将の荀衍(じゅんえん)(荀彧(じゅんいく)兄)(本編未登場)に阻まれ、失敗に終わった。[荀彧(じゅんいく)伝]


 また曹操(そうそう)河内(かだい)弘農(こうのう)河東(かとう)三郡の反乱に対し、張既(ちょうき)を再び馬騰(ばとう)の元に派遣し、協力を得て鍾繇(しょうよう)に合流させた。鍾繇(しょうよう)らは河内(かだい)張晟(ちょうせい)を破り、さらに張琰(ちょうえん)衛固(えいこ)らも捕らえられ、処刑された。[張既(ちょうき)伝、賈逵(かき)伝、杜畿(とき)伝、龐悳(ほうとく)伝]


 高幹(こうかん)も従兄弟の袁譚(えんたん)袁煕(えんき)袁尚(えんしょう)が次々とやられていくのを見て危機感を持ったのだろう。彼の起こした反乱は、司隷(しれい)三郡を巻き込み、さらに劉表(りゅうひょう)とも連絡を取り合う等、かなり大規模なものであった。だが、既に河北三州から(えん)家の勢力がほぼ駆逐された後であった。


 曹操(そうそう)(ぎょう)を包囲し、袁尚(えんしょう)中山(ちゅうざん)に逃亡していた頃、袁尚(えんしょう)の部下・牽招(けんしょう)高幹(こうかん)の元に赴き、袁尚(えんしょう)を助けるよう要求したが、高幹(こうかん)は受けなかった上に、牽招(けんしょう)を殺害しようとした。牽招(けんしょう)は逃げ出したが、道路が(さえぎ)られ、袁尚(えんしょう)の元に帰ることもできず、やむなく曹操(そうそう)の元に投降した。[牽招(けんしょう)伝]


 高幹(こうかん)袁尚(えんしょう)を助けずに、後になって反乱を起こすのは決断が遅いと言わざるを得ない。あるいは(えん)家からすら独立しようとしたのかもしれない。いずれにせよ、河北(かほく)がほぼ曹操(そうそう)に平定されてから起こした反乱では、鎮圧は時間の問題だったろう。長期的な計画性のある行動とは言いがたい。



 ◎烏丸征伐



 曹操(そうそう)青州(せいしゅう)の賊・管承(かんしょう)(本編未登場)を討伐すると、207年2月、(ぎょう)に帰還した。曹操(そうそう)袁尚(えんしょう)らの逃げ込んだ北方の烏丸(うがん)族を討伐したいと考えたが、諸将は烏丸(うがん)の地は遠く、またその間に劉表(りゅうひょう)劉備(りゅうび)が動くことを恐れて反対した。ただ、郭嘉(かくか)だけが劉表(りゅうひょう)では劉備(りゅうび)を使いこなせないとして遠征に賛成した。[武帝紀(ぶていき)郭嘉(かくか)伝]


 また烏丸(うがん)への兵糧輸送の問題に関しては、董昭(とうしょう)(本編、トウショウ、42話初登場)の進言に従い、二運河を掘削(くっさく)し、海に(つな)げ、新たな輸送路とした。[武帝紀、董昭伝]


 5月、曹操(そうそう)無終(むしゅう)県(幽州(ゆうしゅう)右北平(ゆうほくへい)郡に属す)に到着。7月、大洪水があり、海沿いの道が普通となったが、無終(むしゅう)出身の田疇(でんちゅう)(本編未登場)の案内で進むことができた。途中、山を掘り、谷を埋め、道なき道を進みながら烏丸(うがん)本拠地の柳城(りゅうじょう)を目指した。[武帝紀(ぶていき)田疇(でんちゅう)伝]


 8月、白狼山(はくろうざん)で突如、烏丸(うがん)の襲撃を受ける。移動中で(よろい)を着用していない兵士も多く、部隊は(ひる)んだが、曹操(そうそう)自ら高みに登り、敵陣が整っていないのを望見すると、張遼(ちょうりょう)張郃(ちょうこう)(本編、チョーコー、18話初登場)を先鋒にしてこれを攻撃し、張遼(ちょうりょう)烏丸(うがん)単于(ぜんう)(王)・蹋頓(とうとん)(本編、トウトン、73話初登場)を斬った。その他、多くの烏丸(うがん)幹部を斬り、降伏者は二十余万人にのぼった。[武帝紀(ぶていき)張遼(ちょうりょう)伝、張郃(ちょうこう)伝、烏丸(うがん)伝]


 蹋頓(とうとん)の最期についてだが、曹純(そうじゅん)伝では、曹純(そうじゅん)の騎兵が蹋頓(とうとん)を生け捕りにしたとあり、張遼(ちょうりょう)伝では、張遼(ちょうりょう)蹋頓(とうとん)の首を斬ったとある。どちらが正しいのかよくわからない。あるいは一度捕らえたが、逃亡し、斬られたのだろうか。烏丸(うがん)伝では戦闘の最中、蹋頓(とうとん)が斬られたとあるので、今は張遼(ちょうりょう)に斬られたとする。


 またこの期間の劉表(りゅうひょう)の動きだが、劉備(りゅうび)劉表(りゅうひょう)に、曹操(そうそう)が|烏丸《うがん》征伐で遠征している間に彼の本拠地である許都(きょと)を襲撃するよう進言しているが、劉表(りゅうひょう)はこれを採用しなかった。後に曹操(そうそう)が遠征から帰還すると、先の劉備(りゅうび)の進言を採用しなかったことを、劉表(りゅうひょう)は後悔した。[先主(せんしゅ)伝]


 劉備(りゅうび)は、演義(えんぎ)等では逃げてばかりで戦争に弱いイメージだが、実際の彼はかなり戦争に強い将軍である。彼が敗北したのも曹操(そうそう)呂布(りょふ)(本編、リョフ、5話初登場)といったトップクラスの指揮官相手であり、袁紹(えんしょう)軍(公孫瓚(こうそんさん)配下時代)、袁術(えんじゅう)軍(徐州(じょしゅう)時代)、楊奉(ようほう)(本編、ヨウホウ、32話初登場)・韓暹(かんせん)(本編、カンセン、35話初登場)軍(徐州(じょしゅう)時代)等を相手にした時は戦功をあげており、先の博望(はくぼう)の戦いでも、曹操軍のNo.2の将軍・夏侯惇(かこうとん)を撃破している。


 また、劉備(りゅうび)徐州(じょしゅう)で反乱を起こすと、曹操(そうそう)は討伐のため、劉岱(りゅうたい)(本編、リュウタイ、46話初登場)と王忠(おうちゅう)(本編、オウチュウ、46話初登場)を派遣したが勝てず、劉備(りゅうび)劉岱(りゅうたい)らに対して「お前たちが百人来ても私をどうすることもできない。曹操(そうそう)自ら来たらわからないがな」と言ったという。この後、本当に曹操(そうそう)が来襲し、劉備(りゅうび)が逃亡するので、良くできすぎた逸話なのだが、実際に劉備(りゅうび)曹操(そうそう)さえいなければ、他の曹操(そうそう)軍の武将相手なら勝てると思っていたようである。


 その曹操(そうそう)がほぼ河北(かほく)におり、中央に空けているのに出撃できないこの時期は劉備(りゅうび)にとって歯がゆい期間であったのだろう。


 なお、本編ではリュービ(劉備(りゅうび))の戦争に強い面をわりと強調している。


 劉表(りゅうひょう)の優柔不断を象徴するエピソードの一つだが、これまで見てきたように、201年の南陽(なんよう)攻略、203年頃の博望(はくぼう)の戦い、206年の高幹(こうかん)の反乱への協力と、曹操(そうそう)と何度も戦っているが、南陽(なんよう)郡より北に侵攻できていない。加えてこの時の劉表(りゅうひょう)との戦いには曹操(そうそう)自身は参戦していない。これでは曹操(そうそう)本人がいないからといって、安易に許都(きょと)へ侵攻できるとは思えなかったのかもしれない。


 また、劉表(りゅうひょう)の対曹操(そうそう)の戦略は、袁家があってのことであった。袁尚(えんしょう)袁譚(えんたん)高幹(こうかん)と次々勢力が滅ぼされてしまった今、協力者のあてがなくなり、対曹操(そうそう)の戦略そのものの練り直しを迫られていたのかもしれない。




 ◎遼東太守・公孫康



 袁尚(えんしょう)袁熙(えんき)はさらに東方にある遼東(りょうとう)郡の太守・公孫康(こうそんこう)(本編未登場)を頼って落ち延びた。しかし、公孫康(こうそんこう)は袁尚らを斬り、その首を曹操(そうそう)に送り、恭順した。[武帝紀(ぶていき)公孫度(こうそんたく)伝]


 遼東(りょうとう)郡は遠方にあり(朝鮮半島に隣接する)、公孫康(こうそんこう)の父・公孫度(こうそんたく)(本編未登場)の代より半独立状態であった。位は遼東(りょうとう)太守だが、遼東(りょうとう)帯方(たいほう)楽浪(らくろう)玄菟(げんと)四郡に勢力は及び、さらに海を渡って青州(せいしゅう)東萊(とうらい)郡のいくつかの県まで支配下に組み込んでいた。


 袁紹(えんしょう)との関係は具体的に不明だが、戦争した記録も無いので親しくしていたのであろう。しかし、それは袁紹(えんしょう)を恐れてのことであって、敬ってのことではなかった。そこが袁尚(えんしょう)の認識不足であったのだろう。


 また、公孫(こうそん)氏の治めていた東萊(とうらい)郡の飛地だが、張遼(ちょうりょう)袁譚(えんたん)を破った後(205年頃)、別軍として海岸地帯を攻略し、遼東(りょうとう)の賊・柳毅(りゅうき)(本編未登場)を破ったという。


 この時点で張遼(ちょうりょう)が単独で遼東(りょうとう)まで遠征するとは思えず、おそらく東萊(とうらい)郡の公孫(こうそん)氏領攻略のことであろう。なお、公孫度(こうそんたく)伝には、遼東(りょうとう)郡の官吏として柳毅(りゅうき)という人物が登場している。おそらく同一人物であろう。あるいはこの東萊(とうらい)郡の飛地を失ったことが、曹操(そうそう)が本気で攻めてくるかもしれないと危機感を持ったきっかけかも知れない。[張遼(ちょうりょう)伝、公孫度(こうそんたく)伝]


 また、後漢末、東萊(とうらい)郡の一部を割き、長広(ちょうこう)郡が新設され、何夔(かき)(本編、カキ、36話初登場)が太守に任命された。何夔(かき)は198年頃に曹操(そうそう)に仕え、劉備(りゅうび)(そむ)いて後、東南方面に事変が多くなり、城父(じょうほ)県令に任命された。城父(じょうほ)県は予州汝南(よしゅうじょなん)郡に所属し、おそらく、劉備(りゅうび)袁紹(えんしょう)の将として汝南(じょなん)で暴れていた頃に赴任したのだろう。この功績により、彼は長広(ちょうこう)太守に昇進した。[何夔(かき)伝]


 おそらく、この長広(ちょうこう)郡は東萊(とうらい)郡のうち、公孫(こうそん)氏に所属していない地域で作られたのだろう。その範囲は正確には不明だが、何夔(かき)伝を読むと、長広(ちょうこう)県、牟平(ぼうへい)県、東牟侯国(とうぼうこうこく)昌陽(しょうよう)県辺りが範囲であることがわかる。


 これらの県は東萊(とうらい)郡南部に位置することから、公孫氏の勢力範囲は東萊(とうらい)郡北部であったことが推測できる。なお、この長広(ちょうこう)郡は後に廃止される((しん)の時代に復活)。おそらく公孫(こうそん)氏を追い払ったことでその役目を終えたのだろう。


 余談だが、東萊(とうらい)郡と言えば、()太史慈(たいしじ)(本編、タイシジ、19話初登場)の出身地でもある。彼は最初、東萊(とうらい)郡の役人となったが、とある事件から青州(せいしゅう)の役所から憎まれ、遼東(りょうとう)に逃亡している。[太史慈(たいしじ)伝]


 おそらく、東萊(とうらい)郡と遼東(りょうとう)郡の間の海路が発達しており、かなり船による行き来が活発だったのではないだろうか。


 話は少し戻るが、曹操(そうそう)官渡(かんと)の戦いの前、各地の群雄に使者を送り、味方につけようとした。遼東(りょうとう)公孫度(こうそんたく)にも武威(ぶい)将軍、永寧郷侯(えいねいきょうこう)の印綬を送ったが、公孫度(こうそんたく)は、私は遼東(りょうとう)の王だ、永寧郷侯(えいねいきょうこう)なんていらないと印綬を倉庫にしまってしまった。しかし、公孫度(こうそんたく)も204年、曹操(そうそう)(ぎょう)を攻略している頃に亡くなり、子の公孫康(こうそんこう)が後を継いだ。


 公孫康(こうそんこう)は遼東太守になってすぐ、曹操(そうそう)の侵攻で東萊(とうらい)郡の飛地を失い、袁尚(えんしょう)が助けを求めてきたことになる。


 公孫康(こうそんこう)遼東(りょうとう)の独立を保てればそれでよく、自らを王と呼んだ父・公孫度(こうそんたく)ほどの野心はなかったのだろう。袁尚(えんしょう)を斬った功で曹操(そうそう)より左将軍・襄平侯(じょうへいこう)に取り立てたが、それを受け取っている。


 公孫康(こうそんこう)はその後も遼東(りょうとう)太守であり続けたが、特に問題は起こしていない。その子・公孫淵(こうそんえん)の代にやらかすが、それは別のお話である。



 ◎荊州の劉表



 (えん)家の勢力を駆逐し、烏丸(うがん)を征伐し、公孫康(こうそんこう)が従属した今、曹操(そうそう)の次の敵は荊州(けいしゅう)劉表(りゅうひょう)であった。


 曹操(そうそう)荊州(けいしゅう)に備えて、張遼(ちょうりょう)長社(ちょうしゃ)(予州穎川郡に属す)に、楽進(がくしん)陽翟(ようてき)(予州穎川郡に属す)に、于禁(うきん)潁陰(えいいん)(予州穎川郡に属す)に駐屯させた。だが、三将軍は互いに強調しなかったので、趙儼(ちょうげん)(本編、チョウゲン、41話初登場)を同時に三つの軍の参軍に任じ、三将軍を事あるごとに教えさとしたので、互いに親しむようになった。[張遼(ちょうりょう)伝、楽進(がくしん)伝、趙儼(ちょうげん)伝]


 この出来事は、張遼(ちょうりょう)伝では烏丸(うがん)討伐後、楽進(がくしん)伝、趙儼(ちょうげん)伝では、荊州(けいしゅう)征伐前に記述されている。おそらくこれは208年の荊州(けいしゅう)征伐直前の出来事で、この布陣は、荊州(けいしゅう)劉表(りゅうひょう)からの防衛以上に、この後の荊州(けいしゅう)征伐への前準備ということであろう。


 なお、各々が駐屯した長社(ちょうしゃ)陽翟(ようてき)穎陰(えいいん)はすべて予州穎川(よしゅうえいせん)郡に属す県名で、穎川(えいせん)郡は汝南(じょなん)郡とも荊州(けいしゅう)南陽(なんよう)郡とも隣接した郡である。


 この後、曹操(そうそう)荊州(けいしゅう)征伐にあたり、趙儼(ちょうげん)章陵(しょうりょう)太守(荊州(けいしゅう)北部の郡)に任命し、都督護軍(ととくごぐん)として、于禁(うきん)張遼(ちょうりょう)張郃(ちょうこう)朱霊(しゅれい)(本編、シュレイ、44話初登場)、李典(りてん)路招(ろしょう)(本編、ロショウ、44話初登場)、馮楷(ふうかい)(本編未登場)の七軍を統括させた。[趙儼(ちょうげん)伝]


 先の三将軍の駐屯はこの荊州(けいしゅう)征討軍の前進となるものであったのだろう。(楽進(がくしん)はこれとは別に荊州(けいしゅう)征伐に参加することとなったようだ)


 また曹操(そうそう)は、冀州(きしゅう)平定後、朱霊(しゅれい)に兵五千、騎馬千頭を与え、陽翟(ようてき)に派遣している。[朱霊(しゅれい)伝]


 曹操(そうそう)冀州(きしゅう)平定後も青州(せいしゅう)幽州(ゆうしゅう)并州(へいしゅう)と各地に敵を抱えており、おそらく、一斉に荊州(けいしゅう)に向けて将軍を派遣するのは戦力的に難しく、段階的に派遣し、徐々に荊州(けいしゅう)平定用の戦力を整えていったのだろう。


 一方、劉備(りゅうび)は時期は不明だが、駐屯する城を曹操(そうそう)領最前線の新野(しんや)から(はん)に移していた。[先主(せんしゅ)伝]


 演義では新野(しんや)に駐屯していた劉備(りゅうび)が、北の曹操(そうそう)領にある曹仁(そうじん)(本編、ソウジン、9話初登場)の守る(はん)を攻略し、(はん)を勢力圏に組み込むことになったとしている。


 しかし、実際の(はん)の位置は、新野(しんや)より南、劉表(りゅうひょう)の本拠地である襄陽(じょうよう)(荊州(けいしゅう)(なん)郡に属す)から漢水(かんすい)(川の名)を挟んですぐ北隣にある。


 つまり、劉表(りゅうひょう)もまた戦略を立て直し、布陣の変更を行っていたのだろう。


 曹操(そうそう)劉表(りゅうひょう)の戦いはもう目前に迫ってきていた。



 ◎まとめ



 今回の解説では、学園戦記三国志で省略された第四章~第五章の間にあたる201~207年頃を扱った。


 このあたりの期間は他の三国志物でも省略される傾向が強く、あまり馴染みのない人も多いのではないだろうか。


 しかし、今回見てきたように、この期間はかなり内容の詰まった時期であった。


 特に曹操(そうそう)は、自身も南北を往復し、北の烏丸(うがん)まで遠征した。それでも戦いが各地で勃発し、手が足りない有り様であった。


 劉備(りゅうび)髀肉之嘆(ひにくのたん)の故事等で207年頃まで暇な印象が強いが、203年頃まではかなり忙しく動いている。


 その劉備(りゅうび)が203年以降、暇になった理由は、袁譚(えんたん)の独立であった。袁譚(えんたん)が弟の袁尚(えんしょう)と対立せず、袁家一丸となって、劉表(りゅうひょう)と共に南北から曹操(そうそう)を攻めれば、状況は変わっていたかもしれない。


 しかし、元を正せば、袁紹(えんしょう)袁譚(えんたん)を後継者から外しておきながら、青州を丸々任せ、他の群雄並みの力を与えてしまったことが、そもそもの原因なのだから、袁家が滅んだのも仕方がないことなのかもしれない。



 ◎略年表



200年2月、袁紹、南下を開始

4月、白馬の戦い、顔良戦死

孫策暗殺、孫権継ぐ

この間、延津の戦い、文醜戦死

8月、官渡の戦い

10月、烏巣の戦い

曹操、官渡の戦いに勝利

201年4月、曹操、倉亭の戦い勝利

9月、曹操、許都に帰還し、汝南の劉備討伐に赴く。劉備、劉表のもとに逃走

この頃、劉表、南陽曹操領を攻略

202年5月、袁紹死去、袁尚継ぐ

9月、曹操、袁譚・袁尚らを討つ

203年3月、曹操、袁譚・袁尚らの籠る城郭を攻撃、袁譚ら逃走する

4月、曹操、鄴に進軍

5月、曹操、許都に帰還

8月、曹操、劉表を討つため西平に駐留

この頃か、曹洪、南陽諸県を攻略

この頃か、博望の戦い

曹操が南下すると、袁譚・袁尚が冀州の支配を巡り対立。袁譚、平原に敗走し、曹操に降伏し、救援を要請する

荀攸、曹操に袁譚救援を勧め、曹操、西平から北上する

10月、曹操、河北に到着、袁譚と和睦

袁尚、曹操の進軍を聞き、平原の包囲を解き、鄴に帰還

204年2月、袁尚、再び袁譚を攻める

曹操、鄴を攻撃

4月、曹操、鄴攻撃に曹洪を残し、糧道の毛城、邯鄲を攻略

5月、曹操、鄴を水攻め

7月、袁尚、鄴救援に引き返す

曹操、袁尚を迎撃し、その陣営を包囲する

袁尚、祁山に逃亡するが、ここも陥落し、中山に逃亡する

8月、曹操、審配を斬り、鄴陥落

高幹、曹操に降伏し、并州刺史に任命される。

袁譚、曹操が鄴を包囲すると、中山の袁尚を攻める。袁尚、故安に逃走

曹操、袁譚に約束違反を責め、戦争状態となる

袁譚、平原から南皮に逃亡

12月、曹操、平原に入場し、諸県を平定

この年、遼東太守・公孫度死去、公孫康継ぐ

205年1月、曹操、袁譚を攻め、これを斬る

袁熙・袁尚、烏丸のもとに逃走

4月、黒山の張燕、曹操に降伏

故安の趙犢・霍奴ら、幽州襲撃

烏丸、鮮于輔を攻撃

8月、曹操、烏丸を討ち、鮮于輔を助ける

并州の高幹、州を上げて反乱を起こす、楽進・李典、これを攻撃する

10月、曹操、鄴に帰還

206年1月、曹操、高幹討伐

高幹、荊州へ逃亡を図るが、捕獲され斬られる

8月、曹操、海賊の管承征討のため、東に赴き、楽進・李典にこれを討たせる

207年2月、曹操、鄴に帰還

8月、曹操、烏丸征討

烏丸への道中、同行した張繡、死去

9月、曹操、柳城より帰還

公孫康、袁尚らを斬り、その首を曹操に送る

この頃、郭嘉死去

この年、三顧の礼

208年1月、曹操、鄴に帰還

6月、曹操、丞相に就任

7月、曹操、劉表征討軍を起こす



〔参考文献〕


・書籍

陳寿著 今鷹真・井波律子・小南一郎訳 『正史三国志』(全八巻) 筑摩書房 1993年

范曄撰 李賢等注 『後漢書』(全六巻) 中華書局出版 1965年

篠田耕一 『三国志軍事ガイド』 紀元社 1993年

沈伯俊・譚良嘯編著 立間祥介・岡崎由美・土屋文子編訳 『三国志演義大事典』 潮出版社 1996年

坂口和澄 『正史三國志群雄銘銘傳』 光人社 2005年

坂口和澄 『図説 合戦地図で読む三国志の全貌』 青春出版社 2008年

藤井勝彦 『三国志合戦事典 魏呉蜀74の戦い』 紀元社 2010年

長田康宏 『三国志群雄太守県令勢力図(上)』 同人誌 2018年

三国志学会監修 『曹操 奸雄に秘められた「時代の変革者」の実像』 山川出版社 2019年


・サイト

資治通鑑 維基文庫

https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E8%B3%87%E6%B2%BB%E9%80%9A%E9%91%91

三国志、全文検索 http://www.seisaku.bz/sangokushi.html

季漢書

http://blog.livedoor.jp/jominian/

てぃーえすのメモ帳

https://t-s.hatenablog.com/

思いて学ばざれば

https://mujin.hatenadiary.jp/

いつか書きたい『三国志』

http://3guozhi.net/

もっと知りたい!三国志

https://three-kingdoms.net

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