歴史解説 袁家の滅亡と博望の戦い 後編
※これは別に連載中の小説『学園戦記三国志』の歴史解説回を独立・編集して掲載するものです。
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前回は袁譚・袁尚の対立から博望の戦い、袁譚の滅亡や袁尚の敗北を述べた。今回はその後の袁家、劉表らについて解説して終わりとしたい。
◎高幹の反乱
4月、幽州で反乱が起き、既に曹操に恭順していた幽州漁陽郡の勢力・鮮于輔(本編、センウホ、62話初登場)が烏丸の攻撃を受けた。[武帝紀]
鮮于輔は元々、幽州牧の劉虞(本編未登場)の部下であったが、劉虞は公孫瓚(本編、コウソンサン、6話初登場)と烏丸対策をめぐって対立、公孫瓚に殺され、復讐のため公孫瓚と対立した。
閻柔(本編、エンジュウ、62話初登場)が烏丸族から慕われていたので彼を烏丸司馬とし、異民族・漢族合わせて数万の軍勢を手に入れ、さらに公孫瓚と対立していた袁紹と手を組み、公孫瓚を倒した。[公孫瓚伝]
その後は閻柔とともに袁紹に従っていたようだが、官渡の戦いが始まると曹操に帰服。曹操は彼を建中将軍・督幽州六郡に任じられ、閻柔も曹操に使者を送り、護烏丸校尉となった。[公孫瓚伝、田予伝、烏丸伝]
鮮于輔は部下の田予(本編未登場)の意見に従い、早くから曹操に帰服したようだが、実際は多くの群雄がそうであったように、両方に使者を送り、優勢な方に味方する気だったのだろう。鮮于輔や閻柔が実際に曹操に帰服したのは袁譚が死に、曹操勢力が幽州に迫った頃であろう。しかし、彼らはその後も曹操によく仕え、信頼を勝ち取っていくことになる。
本編62話、センウホ(鮮于輔)は、エンジュウ(閻柔)とともにカントの戦いで敗北後のエンショウに対して、反乱を起こす北校舎の独立勢力として登場する。
本編での登場は史実より少し早いが、名前だけでも出しておきたかったので、出すことにした。再登場の予定は今のところない。
8月、曹操は反乱を鎮圧し、鮮于輔を救援した。この隙をつき降伏していた并州刺史の高幹が反乱を起こした。曹操は武将の楽進(本編、ガクシン、9話初登場)、李典を派遣したが、勝つことはできなかった。[武帝紀]
当時、河内郡(司隷に属す)には張晟(張白騎)(本編未登場)が一万余の盗賊団の首領として独立しており、彼が高幹に呼応し、河内で反乱を起こした。
また、弘農郡(司隷に属す)の張琰(本編未登場)も呼応し、反乱を起こした。
前回、高幹が攻撃した河東郡(司隷に属す)はこの時、太守を長年勤めた王邑(本編未登場)から新太守杜畿(本編、トキ、41話初登場)に交代することになった。部下の衛固(本編未登場)と范先(本編未登場)は表向きは王邑の留任を願ったが、裏では高幹と手を組んで反乱に加担した。
彼らはさらに荊州の劉表とも連絡を取り合っていたという。[鍾繇伝、張既伝、賈逵伝、杜畿伝]
上記の内、張琰についてはよくわからない。張既伝では弘農の人、賈逵伝では、当時、澠池県令(司隷弘農郡に属す)であった賈逵(本編、カキ、64話初登場)は挙兵前の張琰に会ったといい、杜畿伝では弘農太守を捕らえた(捕らえた人名は不明)とある。弘農太守に仕える役人であろうか(太守に仕える役人は地元の有力者である場合が多い)
206年1月、曹操は高幹を攻め、3ヶ月かけ彼の籠る壺関を落とした。高幹は荊州に逃げようとしたが、捕らえられ斬られた。[武帝紀、袁紹伝]
また、高幹は奪われた鄴への攻撃も計画していたが、守将の荀衍(荀彧兄)(本編未登場)に阻まれ、失敗に終わった。[荀彧伝]
また曹操は河内・弘農・河東三郡の反乱に対し、張既を再び馬騰の元に派遣し、協力を得て鍾繇に合流させた。鍾繇らは河内の張晟を破り、さらに張琰、衛固らも捕らえられ、処刑された。[張既伝、賈逵伝、杜畿伝、龐悳伝]
高幹も従兄弟の袁譚、袁煕、袁尚が次々とやられていくのを見て危機感を持ったのだろう。彼の起こした反乱は、司隷三郡を巻き込み、さらに劉表とも連絡を取り合う等、かなり大規模なものであった。だが、既に河北三州から袁家の勢力がほぼ駆逐された後であった。
曹操が鄴を包囲し、袁尚が中山に逃亡していた頃、袁尚の部下・牽招は高幹の元に赴き、袁尚を助けるよう要求したが、高幹は受けなかった上に、牽招を殺害しようとした。牽招は逃げ出したが、道路が遮られ、袁尚の元に帰ることもできず、やむなく曹操の元に投降した。[牽招伝]
高幹は袁尚を助けずに、後になって反乱を起こすのは決断が遅いと言わざるを得ない。あるいは袁家からすら独立しようとしたのかもしれない。いずれにせよ、河北がほぼ曹操に平定されてから起こした反乱では、鎮圧は時間の問題だったろう。長期的な計画性のある行動とは言いがたい。
◎烏丸征伐
曹操は青州の賊・管承(本編未登場)を討伐すると、207年2月、鄴に帰還した。曹操は袁尚らの逃げ込んだ北方の烏丸族を討伐したいと考えたが、諸将は烏丸の地は遠く、またその間に劉表や劉備が動くことを恐れて反対した。ただ、郭嘉だけが劉表では劉備を使いこなせないとして遠征に賛成した。[武帝紀、郭嘉伝]
また烏丸への兵糧輸送の問題に関しては、董昭(本編、トウショウ、42話初登場)の進言に従い、二運河を掘削し、海に繋げ、新たな輸送路とした。[武帝紀、董昭伝]
5月、曹操、無終県(幽州右北平郡に属す)に到着。7月、大洪水があり、海沿いの道が普通となったが、無終出身の田疇(本編未登場)の案内で進むことができた。途中、山を掘り、谷を埋め、道なき道を進みながら烏丸本拠地の柳城を目指した。[武帝紀、田疇伝]
8月、白狼山で突如、烏丸の襲撃を受ける。移動中で鎧を着用していない兵士も多く、部隊は怯んだが、曹操自ら高みに登り、敵陣が整っていないのを望見すると、張遼・張郃(本編、チョーコー、18話初登場)を先鋒にしてこれを攻撃し、張遼は烏丸の単于(王)・蹋頓(本編、トウトン、73話初登場)を斬った。その他、多くの烏丸幹部を斬り、降伏者は二十余万人にのぼった。[武帝紀、張遼伝、張郃伝、烏丸伝]
蹋頓の最期についてだが、曹純伝では、曹純の騎兵が蹋頓を生け捕りにしたとあり、張遼伝では、張遼が蹋頓の首を斬ったとある。どちらが正しいのかよくわからない。あるいは一度捕らえたが、逃亡し、斬られたのだろうか。烏丸伝では戦闘の最中、蹋頓が斬られたとあるので、今は張遼に斬られたとする。
またこの期間の劉表の動きだが、劉備は劉表に、曹操が|烏丸《うがん》征伐で遠征している間に彼の本拠地である許都を襲撃するよう進言しているが、劉表はこれを採用しなかった。後に曹操が遠征から帰還すると、先の劉備の進言を採用しなかったことを、劉表は後悔した。[先主伝]
劉備は、演義等では逃げてばかりで戦争に弱いイメージだが、実際の彼はかなり戦争に強い将軍である。彼が敗北したのも曹操や呂布(本編、リョフ、5話初登場)といったトップクラスの指揮官相手であり、袁紹軍(公孫瓚配下時代)、袁術軍(徐州時代)、楊奉(本編、ヨウホウ、32話初登場)・韓暹(本編、カンセン、35話初登場)軍(徐州時代)等を相手にした時は戦功をあげており、先の博望の戦いでも、曹操軍のNo.2の将軍・夏侯惇を撃破している。
また、劉備が徐州で反乱を起こすと、曹操は討伐のため、劉岱(本編、リュウタイ、46話初登場)と王忠(本編、オウチュウ、46話初登場)を派遣したが勝てず、劉備は劉岱らに対して「お前たちが百人来ても私をどうすることもできない。曹操自ら来たらわからないがな」と言ったという。この後、本当に曹操が来襲し、劉備が逃亡するので、良くできすぎた逸話なのだが、実際に劉備は曹操さえいなければ、他の曹操軍の武将相手なら勝てると思っていたようである。
その曹操がほぼ河北におり、中央に空けているのに出撃できないこの時期は劉備にとって歯がゆい期間であったのだろう。
なお、本編ではリュービ(劉備)の戦争に強い面をわりと強調している。
劉表の優柔不断を象徴するエピソードの一つだが、これまで見てきたように、201年の南陽攻略、203年頃の博望の戦い、206年の高幹の反乱への協力と、曹操と何度も戦っているが、南陽郡より北に侵攻できていない。加えてこの時の劉表との戦いには曹操自身は参戦していない。これでは曹操本人がいないからといって、安易に許都へ侵攻できるとは思えなかったのかもしれない。
また、劉表の対曹操の戦略は、袁家があってのことであった。袁尚、袁譚、高幹と次々勢力が滅ぼされてしまった今、協力者のあてがなくなり、対曹操の戦略そのものの練り直しを迫られていたのかもしれない。
◎遼東太守・公孫康
袁尚、袁熙はさらに東方にある遼東郡の太守・公孫康(本編未登場)を頼って落ち延びた。しかし、公孫康は袁尚らを斬り、その首を曹操に送り、恭順した。[武帝紀、公孫度伝]
遼東郡は遠方にあり(朝鮮半島に隣接する)、公孫康の父・公孫度(本編未登場)の代より半独立状態であった。位は遼東太守だが、遼東、帯方、楽浪、玄菟四郡に勢力は及び、さらに海を渡って青州東萊郡のいくつかの県まで支配下に組み込んでいた。
袁紹との関係は具体的に不明だが、戦争した記録も無いので親しくしていたのであろう。しかし、それは袁紹を恐れてのことであって、敬ってのことではなかった。そこが袁尚の認識不足であったのだろう。
また、公孫氏の治めていた東萊郡の飛地だが、張遼は袁譚を破った後(205年頃)、別軍として海岸地帯を攻略し、遼東の賊・柳毅(本編未登場)を破ったという。
この時点で張遼が単独で遼東まで遠征するとは思えず、おそらく東萊郡の公孫氏領攻略のことであろう。なお、公孫度伝には、遼東郡の官吏として柳毅という人物が登場している。おそらく同一人物であろう。あるいはこの東萊郡の飛地を失ったことが、曹操が本気で攻めてくるかもしれないと危機感を持ったきっかけかも知れない。[張遼伝、公孫度伝]
また、後漢末、東萊郡の一部を割き、長広郡が新設され、何夔(本編、カキ、36話初登場)が太守に任命された。何夔は198年頃に曹操に仕え、劉備が叛いて後、東南方面に事変が多くなり、城父県令に任命された。城父県は予州汝南郡に所属し、おそらく、劉備が袁紹の将として汝南で暴れていた頃に赴任したのだろう。この功績により、彼は長広太守に昇進した。[何夔伝]
おそらく、この長広郡は東萊郡のうち、公孫氏に所属していない地域で作られたのだろう。その範囲は正確には不明だが、何夔伝を読むと、長広県、牟平県、東牟侯国、昌陽県辺りが範囲であることがわかる。
これらの県は東萊郡南部に位置することから、公孫氏の勢力範囲は東萊郡北部であったことが推測できる。なお、この長広郡は後に廃止される(晋の時代に復活)。おそらく公孫氏を追い払ったことでその役目を終えたのだろう。
余談だが、東萊郡と言えば、呉の太史慈(本編、タイシジ、19話初登場)の出身地でもある。彼は最初、東萊郡の役人となったが、とある事件から青州の役所から憎まれ、遼東に逃亡している。[太史慈伝]
おそらく、東萊郡と遼東郡の間の海路が発達しており、かなり船による行き来が活発だったのではないだろうか。
話は少し戻るが、曹操は官渡の戦いの前、各地の群雄に使者を送り、味方につけようとした。遼東の公孫度にも武威将軍、永寧郷侯の印綬を送ったが、公孫度は、私は遼東の王だ、永寧郷侯なんていらないと印綬を倉庫にしまってしまった。しかし、公孫度も204年、曹操が鄴を攻略している頃に亡くなり、子の公孫康が後を継いだ。
公孫康は遼東太守になってすぐ、曹操の侵攻で東萊郡の飛地を失い、袁尚が助けを求めてきたことになる。
公孫康は遼東の独立を保てればそれでよく、自らを王と呼んだ父・公孫度ほどの野心はなかったのだろう。袁尚を斬った功で曹操より左将軍・襄平侯に取り立てたが、それを受け取っている。
公孫康はその後も遼東太守であり続けたが、特に問題は起こしていない。その子・公孫淵の代にやらかすが、それは別のお話である。
◎荊州の劉表
袁家の勢力を駆逐し、烏丸を征伐し、公孫康が従属した今、曹操の次の敵は荊州の劉表であった。
曹操は荊州に備えて、張遼を長社(予州穎川郡に属す)に、楽進を陽翟(予州穎川郡に属す)に、于禁を潁陰(予州穎川郡に属す)に駐屯させた。だが、三将軍は互いに強調しなかったので、趙儼(本編、チョウゲン、41話初登場)を同時に三つの軍の参軍に任じ、三将軍を事あるごとに教えさとしたので、互いに親しむようになった。[張遼伝、楽進伝、趙儼伝]
この出来事は、張遼伝では烏丸討伐後、楽進伝、趙儼伝では、荊州征伐前に記述されている。おそらくこれは208年の荊州征伐直前の出来事で、この布陣は、荊州の劉表からの防衛以上に、この後の荊州征伐への前準備ということであろう。
なお、各々が駐屯した長社、陽翟、穎陰はすべて予州穎川郡に属す県名で、穎川郡は汝南郡とも荊州の南陽郡とも隣接した郡である。
この後、曹操は荊州征伐にあたり、趙儼を章陵太守(荊州北部の郡)に任命し、都督護軍として、于禁、張遼、張郃、朱霊(本編、シュレイ、44話初登場)、李典、路招(本編、ロショウ、44話初登場)、馮楷(本編未登場)の七軍を統括させた。[趙儼伝]
先の三将軍の駐屯はこの荊州征討軍の前進となるものであったのだろう。(楽進はこれとは別に荊州征伐に参加することとなったようだ)
また曹操は、冀州平定後、朱霊に兵五千、騎馬千頭を与え、陽翟に派遣している。[朱霊伝]
曹操は冀州平定後も青州、幽州、并州と各地に敵を抱えており、おそらく、一斉に荊州に向けて将軍を派遣するのは戦力的に難しく、段階的に派遣し、徐々に荊州平定用の戦力を整えていったのだろう。
一方、劉備は時期は不明だが、駐屯する城を曹操領最前線の新野から樊に移していた。[先主伝]
演義では新野に駐屯していた劉備が、北の曹操領にある曹仁(本編、ソウジン、9話初登場)の守る樊を攻略し、樊を勢力圏に組み込むことになったとしている。
しかし、実際の樊の位置は、新野より南、劉表の本拠地である襄陽(荊州南郡に属す)から漢水(川の名)を挟んですぐ北隣にある。
つまり、劉表もまた戦略を立て直し、布陣の変更を行っていたのだろう。
曹操対劉表の戦いはもう目前に迫ってきていた。
◎まとめ
今回の解説では、学園戦記三国志で省略された第四章~第五章の間にあたる201~207年頃を扱った。
このあたりの期間は他の三国志物でも省略される傾向が強く、あまり馴染みのない人も多いのではないだろうか。
しかし、今回見てきたように、この期間はかなり内容の詰まった時期であった。
特に曹操は、自身も南北を往復し、北の烏丸まで遠征した。それでも戦いが各地で勃発し、手が足りない有り様であった。
劉備も髀肉之嘆の故事等で207年頃まで暇な印象が強いが、203年頃まではかなり忙しく動いている。
その劉備が203年以降、暇になった理由は、袁譚の独立であった。袁譚が弟の袁尚と対立せず、袁家一丸となって、劉表と共に南北から曹操を攻めれば、状況は変わっていたかもしれない。
しかし、元を正せば、袁紹が袁譚を後継者から外しておきながら、青州を丸々任せ、他の群雄並みの力を与えてしまったことが、そもそもの原因なのだから、袁家が滅んだのも仕方がないことなのかもしれない。
◎略年表
200年2月、袁紹、南下を開始
4月、白馬の戦い、顔良戦死
孫策暗殺、孫権継ぐ
この間、延津の戦い、文醜戦死
8月、官渡の戦い
10月、烏巣の戦い
曹操、官渡の戦いに勝利
201年4月、曹操、倉亭の戦い勝利
9月、曹操、許都に帰還し、汝南の劉備討伐に赴く。劉備、劉表のもとに逃走
この頃、劉表、南陽曹操領を攻略
202年5月、袁紹死去、袁尚継ぐ
9月、曹操、袁譚・袁尚らを討つ
203年3月、曹操、袁譚・袁尚らの籠る城郭を攻撃、袁譚ら逃走する
4月、曹操、鄴に進軍
5月、曹操、許都に帰還
8月、曹操、劉表を討つため西平に駐留
この頃か、曹洪、南陽諸県を攻略
この頃か、博望の戦い
曹操が南下すると、袁譚・袁尚が冀州の支配を巡り対立。袁譚、平原に敗走し、曹操に降伏し、救援を要請する
荀攸、曹操に袁譚救援を勧め、曹操、西平から北上する
10月、曹操、河北に到着、袁譚と和睦
袁尚、曹操の進軍を聞き、平原の包囲を解き、鄴に帰還
204年2月、袁尚、再び袁譚を攻める
曹操、鄴を攻撃
4月、曹操、鄴攻撃に曹洪を残し、糧道の毛城、邯鄲を攻略
5月、曹操、鄴を水攻め
7月、袁尚、鄴救援に引き返す
曹操、袁尚を迎撃し、その陣営を包囲する
袁尚、祁山に逃亡するが、ここも陥落し、中山に逃亡する
8月、曹操、審配を斬り、鄴陥落
高幹、曹操に降伏し、并州刺史に任命される。
袁譚、曹操が鄴を包囲すると、中山の袁尚を攻める。袁尚、故安に逃走
曹操、袁譚に約束違反を責め、戦争状態となる
袁譚、平原から南皮に逃亡
12月、曹操、平原に入場し、諸県を平定
この年、遼東太守・公孫度死去、公孫康継ぐ
205年1月、曹操、袁譚を攻め、これを斬る
袁熙・袁尚、烏丸のもとに逃走
4月、黒山の張燕、曹操に降伏
故安の趙犢・霍奴ら、幽州襲撃
烏丸、鮮于輔を攻撃
8月、曹操、烏丸を討ち、鮮于輔を助ける
并州の高幹、州を上げて反乱を起こす、楽進・李典、これを攻撃する
10月、曹操、鄴に帰還
206年1月、曹操、高幹討伐
高幹、荊州へ逃亡を図るが、捕獲され斬られる
8月、曹操、海賊の管承征討のため、東に赴き、楽進・李典にこれを討たせる
207年2月、曹操、鄴に帰還
8月、曹操、烏丸征討
烏丸への道中、同行した張繡、死去
9月、曹操、柳城より帰還
公孫康、袁尚らを斬り、その首を曹操に送る
この頃、郭嘉死去
この年、三顧の礼
208年1月、曹操、鄴に帰還
6月、曹操、丞相に就任
7月、曹操、劉表征討軍を起こす
〔参考文献〕
・書籍
陳寿著 今鷹真・井波律子・小南一郎訳 『正史三国志』(全八巻) 筑摩書房 1993年
范曄撰 李賢等注 『後漢書』(全六巻) 中華書局出版 1965年
篠田耕一 『三国志軍事ガイド』 紀元社 1993年
沈伯俊・譚良嘯編著 立間祥介・岡崎由美・土屋文子編訳 『三国志演義大事典』 潮出版社 1996年
坂口和澄 『正史三國志群雄銘銘傳』 光人社 2005年
坂口和澄 『図説 合戦地図で読む三国志の全貌』 青春出版社 2008年
藤井勝彦 『三国志合戦事典 魏呉蜀74の戦い』 紀元社 2010年
長田康宏 『三国志群雄太守県令勢力図(上)』 同人誌 2018年
三国志学会監修 『曹操 奸雄に秘められた「時代の変革者」の実像』 山川出版社 2019年
・サイト
資治通鑑 維基文庫
https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E8%B3%87%E6%B2%BB%E9%80%9A%E9%91%91
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