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歴史解説 袁家の滅亡と博望の戦い 中編

 ※これは別に連載中の小説『学園戦記三国志』の歴史解説回を独立・編集して掲載するものです。


↓学園戦記三国志リンク

https://ncode.syosetu.com/n2756fp/


 前回は官渡(かんと)の戦い前後の劉表(りゅうひょう)劉備(りゅうび)の動きと、袁紹(えんしょう)死後、彼の後継を巡る流れを解説した。今回は袁紹(えんしょう)遺児(いじ)である袁譚(えんたん)袁尚(えんしょう)の対立から解説していこう。



 ◎袁家の分裂



 ここで曹操(そうそう)の参謀・郭嘉(かくか)(本編、カクカ、16話初登場)が提案する。「袁譚(えんたん)袁尚(えんしょう)をこのまま攻めれば助け合って抵抗しますが、ほっておけば両者は対立します。ここは荊州(けいしゅう)劉表(りゅうひょう)を討伐するふりをして、彼らの対立を待つべきです」[郭嘉(かくか)伝]


 この策により203年8月、曹操(そうそう)劉表(りゅうひょう)征討のため南下し、汝南(じょなん)郡の西平(せいへい)に駐屯した。[武帝紀(ぶていき)]


 曹操(そうそう)が南下すると、早速、袁譚(えんたん)袁尚(えんしょう)冀州(きしゅう)の支配をめぐって争い、袁譚(えんたん)が敗れ、自身が刺史(しし)(長官)を務める青州(せいしゅう)平原(へいげん)(地名)まで逃亡したが、その地も袁尚(えんしょう)の攻撃にさらされることとなった。[武帝紀(ぶていき)袁紹(えんしょう)伝]


 袁紹(えんしょう)の後継をめぐり、袁譚(えんたん)辛評(しんひょう)郭図(かくと)らに擁立(ようりつ)され、袁尚(えんしょう)と対立することになった。


 一見、家臣団が真っ二つに別れたように見えるが、次子・袁熙(えんき)沮授(そじゅ)の子・沮鵠(そこく)(本編未登場)、陳琳(ちんりん)(本編、チンリン、49話初登場)や牽招(けんしょう)(本編、ケンショウ、51話初登場)と家臣の多くは袁尚(えんしょう)についていた。


 対して袁譚(えんたん)はそこまで大きな支持は得れていなかったようだ。むしろ、彼の後継者立候補は辛評(しんひょう)郭図(かくと)のクーデターに近いものだったのではないか。


 袁譚(えんたん)の部下・王脩(おうしゅう)(本編未登場)は、袁譚(えんたん)袁尚(えんしょう)に敗れると、青州(せいしゅう)より救援に赴いたが、彼自身は兄弟で争うことに反対し、佞臣(ねいしん)数人を斬り、共に協力することを提案している。[王脩(おうしゅう)伝]


 この佞臣(ねいしん)数人が辛評(しんひょう)郭図(かくと)らを指すのか、他にも該当者がいるのかは不明だが、王脩(おうしゅう)自身も袁譚(えんたん)の独立に反対しており、袁譚(えんたん)を担いでいたのは決して多くはなかったのではないだろうか。


 また、後に劉表(りゅうひょう)は対立を止める様、袁譚(えんたん)袁尚(えんしょう)にそれぞれ手紙を送っているが、この手紙によると、劉表(りゅうひょう)は両者の対立の元凶を辛評(しんひょう)郭図(かくと)としている。[袁紹(えんしょう)伝]


 袁尚(えんしょう)についた審配(しんはい)冀州(きしゅう)の出身者であり、田豊(でんほう)沮授(そじゅ)(ともに冀州(きしゅう)出身)亡き後、冀州(きしゅう)の人材をまとめる立場にあったのだろう。また冀州(きしゅう)の政治を担当しており、同じく冀州(きしゅう)にいた袁尚(えんしょう)と接点も多かったのかもしれない。


 また逢紀(ほうき)袁紹(えんしょう)董卓(とうたく)より逃亡した時に許攸(きょゆう)(本編、キョユウ、47話初登場)とともに同行し、袁紹(えんしょう)の旗揚げに貢献した古参で、審配(しんはい)とともに軍務を担当していた。


 元々、審配(しんはい)逢紀(ほうき)は仲が良くなかったという。官渡の敗戦時、審配(しんはい)の二人の子は曹操の捕虜となった。これを受けて孟岱(もうたい)(本編未登場)と蒋奇(しょうき)(本編、ショウキ、54話初登場)は審配(しんはい)が裏切るのではないかと袁紹(えんしょう)讒訴(ざんそ)した。孟岱(もうたい)らの意見にさらに郭図(かくと)辛評(しんひょう)も同調したので、審配(しんはい)は降格された。


 しかし、逢紀(ほうき)審配(しんはい)を誉め、疑うべきではないと発言し、それにより審配(しんはい)は復権することができた。以降、二人は親しくなったという。[袁紹(えんしょう)伝、後漢書・袁紹(えんしょう)伝]


 対して郭図(かくと)辛評(しんひょう)はともに予州穎川(よしゅうえいせん)郡出身、河北(かほく)四州から見たらよそ者である。冀州(きしゅう)の人たちとの結びつきがない。


 また先ほどのエピソードから彼らは過去に審配(しんはい)讒言(ざんげん)で降格に追い込んでいる。おそらくそれ以前から仲は良くなかったのではないだろうか。


 冀州(きしゅう)の代表格・審配(しんはい)袁紹(えんしょう)最古参・逢紀(ほうき)が手を組んで袁尚(えんしょう)を担げば、おそらく、よそ者の自分たちでは居場所はなくなると判断したのだろう。だから、不満を持っているであろう袁譚(えんたん)に近づいた。


 前述の河東(かとう)太守・郭援(かくえん)は戦った鍾繇(しょうよう)の甥であったという。鍾繇(しょうよう)もまた穎川(えいせん)郡の出身であり、その甥である彼も穎川(えいせん)郡出身、さらに言えば穎川(えいせん)(かく)氏の郭図(かくと)の同族の可能性がある。


 その時点でまだ袁譚(えんたん)袁尚(えんしょう)は明確に対立してはいないが、彼は袁尚(えんしょう)に従っている。穎川(えいせん)郡出身者や一族が全員、郭図(かくと)辛評(しんひょう)に賛同していたわけではなかったのかもしれない。


 話を戻すが、救援に来た王脩(おうしゅう)の兄弟で助け合うという提案を退けた袁譚(えんたん)は外に助けを求めた。


 彼は敵である曹操(そうそう)に、辛毗(しんぴ)(辛評(しんひょう)の弟)(本編、シンピ、63話初登場)を派遣し、降伏を乞い、救援を要請した。


 この袁譚(えんたん)の救援要請に、曹操(そうそう)の家臣の多くは信用せず、先に劉表(りゅうひょう)を討つべきと主張したが、参謀の荀攸(じゅんゆう)(本編、ジュンユウ、38話本格登場)は、袁譚(えんたん)袁尚(えんしょう)、どちらかが相手を吸収すれば、また強力な勢力になる。この混乱に乗じて彼らの領土を取るべきと主張し、曹操(そうそう)袁譚(えんたん)との和議を決め、再び北に向かった。[武帝紀(ぶていき)荀攸(じゅんゆう)伝]


 元々、郭嘉(かくか)の策で仲違いさせるための南下であったが、まさか袁譚(えんたん)が降伏してくるとは思わなかっただろう。信用できないのも無理はない。


 また、多くの家臣が先に劉表(りゅうひょう)討伐をと言ったのも、それだけ劉表(りゅうひょう)の動きが活発で、脅威と認識されていたのだろう。


 この決定には曹操(そうそう)自身にも迷いがあったようで、辛毗(しんぴ)が着てからも数日、西平(せいへい)に滞在している。[辛毗(しんぴ)伝]



 ◎曹操の劉表対策



 結局、曹操(そうそう)自身は北に戻ることとなったが、劉表(りゅうひょう)によって南陽(なんよう)郡諸県が占領されたままなのは事実であり、何かしら手を討たねばならない。


 曹操(そうそう)の武将・曹洪(そうこう)(本編、ソウコウ、9話初登場)は曹操(そうそう)とは別に劉表(りゅうひょう)を征伐し、無陽(ぶよう)陰葉(いんしょう)堵陽(とよう)博望(はくぼう)において劉表(りゅうひょう)の別将を撃破し、その功績により厲鋒(れいほう)将軍に昇進した。[曹洪(そうこう)伝]


 この記述には場所と時期に疑問があるので、順に見ていこう。


 まず、場所だが、無陽(ぶよう)陰葉(いんしょう)堵陽(とよう)博望(はくぼう)を攻撃したとある。つまり、これ以前に劉表(りゅうひょう)がこの地を占領していたことになる。


 このうち無陽(ぶよう)予州汝南(よしゅうじょなん)郡の南部に属し、堵陽(とよう)博望(はくぼう)荊州南陽(けいしゅうなんよう)郡の北部に属す。だが、陰葉(いんしょう)県はない。


 あるいは南陽(なんよう)郡の(いん)県と(しょう)県2つの地名を指すのか?だが、(しょう)県は無陽(ぶよう)県のすぐ隣にあるが、(いん)県は南陽(なんよう)郡のかなり奥、劉備(りゅうび)が駐屯している新野(しんや)県の西に位置する。一気に飛び過ぎる。あるいは南陽(なんよう)郡の北部に無陰(ぶいん)という県があり、これと間違えたか。


 劉表が南陽(なんよう)郡を抑えておきたいのなら、無陰(ぶいん)(しょう)堵陽(とよう)博望(はくぼう)あたりが妥当だろう。


 なお、前述した杜襲(としゅう)が獲られた西顎(せいがく)県は博望(はくぼう)より劉表(りゅうひょう)領寄りの位置にあり、この時点では西顎(せいがく)県まで取り戻せていないようである。


 次にこの劉表(りゅうひょう)の征伐だが、曹洪(そうこう)伝には年月の記載がない。


 候補としては197年、203年、208年の三つがあげられる。


 まず、197年だが、これは武帝紀(ぶていき)に記載があり、まだ張繡(ちょうしゅう)劉表(りゅうひょう)が組んでいた時代、曹操(そうそう)曹洪(そうこう)を派遣して南陽(なんよう)章陵(しょうりょう)(ともに荊州(けいしゅう)北部の郡)の張繡(ちょうしゅう)らに味方した諸県を攻撃させたが、勝てず、曹洪(そうこう)は引き返して(しょう)に駐屯した。


 この後、曹操(そうそう)自ら進軍し、胡陽(こよう)に駐屯する劉表(りゅうひょう)の将・鄧済(とうせい)(本編未登場)を捕らえ、さらに無陰(ぶいん)を陥落させた。[武帝紀(ぶていき)]


 この戦いでは曹洪(そうこう)は負けており、(しょう)まで後退している。(しょう)県は最も汝南(じょなん)郡に近い南陽(なんよう)郡北東の端の県である。これは曹洪(そうこう)伝とは大きく食い違う。あるいは一時的に占領したが、その後奪い返されたとも解釈できるが、昇進するほどの功績とは言えないのではないだろうか。


 次に208年の劉表(りゅうひょう)征討だが(第五章のメインになるのはこれ)、この曹洪(そうこう)伝の記述の続きには、曹洪(そうこう)はこの後も征伐に従い都護(とご)将軍に昇進したとある。


 また、王粲(おうさん)(本編、オウサン、63話初登場)伝に付属する阮瑀(げんう)(本編未登場)伝に、都護(とご)曹洪(そうこう)阮瑀(げんう)を書記にしようとしたが、彼は従わず、後に曹操(そうそう)によって司空軍謀祭酒しくうぐんぼうさいしゅに任命されたとある。[阮瑀(げんう)伝]


 司空軍謀祭酒しくうぐんぼうさいしゅとは、司空(役職名)である曹操(そうそう)の補佐役ということだが、208年1月に丞相(じょうしょう)が設置され、その時に司空は廃止されている(曹操(そうそう)丞相(じょうしょう)就任は同年6月)。曹操(そうそう)が司空なのは207年までで、この一件があったのはそれ以前となり、その時点で曹洪(そうこう)都護(とご)将軍に就任している。


 おそらく、ここに書かれた曹洪(そうこう)劉表(りゅうひょう)征伐は203年前後のことで、その後の征伐というのは袁譚(えんたん)袁尚(えんしょう)との戦いを指すのだろう。


 なお、武帝紀(ぶていき)には、204年の(ぎょう)(袁尚(えんしょう)本拠地)攻略戦に曹洪(そうこう)が登場している。


 ただ、年月については曹洪(そうこう)曹操(そうそう)とは別に征討したとあり、先行して南陽(なんよう)郡攻略に向かった可能性もある。曹洪(そうこう)は河北戦線にも登場するので、200年10月以降、204年4月以前の出来事だろう。(実際は移動期間もあるので、201年~203年頃と考えていいのではないか。なお、曹操(そうそう)は8月に西平(せいへい)着、10月に黎陽(れいよう)着で2ヶ月かかっている)


 つまり、201年頃の劉表(りゅうひょう)は、この辺りの南陽(なんよう)郡北東部を攻略していた。



 ◎博望の戦い



挿絵(By みてみん)

 さて、次はいよいよ博望(はくぼう)の戦いである。


 博望(はくぼう)の戦いについては李典(りてん)(本編、リテン、27話本格登場)伝には、劉表(りゅうひょう)劉備(りゅうび)を使って北方まで進攻させ、(しょう)まで来た。曹操(そうそう)は、夏侯惇(かこうとん)(本編、カコウトン、6話初登場)・李典(りてん)らを使って劉備(りゅうび)を防がせた。劉備(りゅうび)はある朝、屯営を焼いて去った。


 劉備(りゅうび)を追撃しようする夏侯惇(かこうとん)を、李典(りてん)は止めたが、彼は聞き入れず于禁(うきん)(本編、ウキン、10話初登場)とともに追撃し、李典(りてん)は守備に残った。夏侯惇(かこうとん)劉備(りゅうび)の伏兵にあい不利となり、李典(りてん)が救援に向かった。劉備(りゅうび)は救援が来たのを見ると退却した。[李典(りてん)伝]


 一方、先主(せんしゅ)(劉備(りゅうび))伝では、劉表(りゅうひょう)劉備(りゅうび)を使って、夏侯惇(かこうとん)于禁(うきん)らを博望(はくぼう)で阻ませた。劉備(りゅうび)は伏兵を設け、自軍の屯営を焼き払って逃走と見せかけた。夏侯惇(かこうとん)らは追い討ちをかけ、伏兵によって撃破された。[先主(せんしゅ)伝]


 これらの記述から劉備(りゅうび)の動きを整理すると、(しょう)まで進攻し、夏侯惇(かこうとん)らが攻めてきたので後退。博望(はくぼう)で追い付かれたので、これを撃破。そのまま撤退したとなる。


 なお、南陽(なんよう)郡の地理は、(しょう)県が曹操(そうそう)領寄り、博望(はくぼう)県が劉表(りゅうひょう)領寄りとなっている。


 この戦いで劉備(りゅうび)は、(しょう)まで進攻し、最終的に博望(はくぼう)以東を放棄している。つまりこの時点で(しょう)までは曹操(そうそう)領であったということだ。


 ならば、時系列として、曹洪(そうこう)南陽(なんよう)郡諸県攻略が先、博望(はくぼう)の戦いが後となる。


 だから、劉表(りゅうひょう)からみたら先に曹操(そうそう)軍が自領に攻めてきたので、防がせたとなり(原文『使拒、夏侯惇于禁等、於博望』)、曹操(そうそう)から見たらすでに自領に編入した土地に劉備(りゅうび)が進入してきたので進攻となるのだろう(原文『劉表使劉備北侵、至葉』)。


 この博望(はくぼう)の戦いも201年~203年頃の戦いであろう。


 だが、曹操(そうそう)の203年8月の南下との時系列は断定するのが難しい。


 しかし、この戦いに登場する曹洪(そうこう)李典(りてん)は204年の(ぎょう)攻略戦に参加している。曹操(そうそう)の北上に従ったのであれば、博望(はくぼう)の戦いは曹操(そうそう)南下とほぼ同時期かそれ以前だろうか。


 なお、資治通鑑(しじつがん)(北宋時代に書かれた歴史書)では、博望(はくぼう)の戦いを202年の出来事としている。


 ちなみに先の話になるが、本編にてソウソウの南校舎征伐時のソウコウの動きは、この曹洪(そうこう)劉表(りゅうひょう)征伐の記述が元になっている。つまり、本編では208年の出来事として、博望(はくぼう)の戦いの後に時系列を変更している。



 ◎鄴攻略戦



 さて、袁譚(えんたん)の降伏を受け、曹操(そうそう)は10月に再び黎陽(れいよう)に戻った。


 袁尚(えんしょう)曹操(そうそう)の北上を知ると、袁譚(えんたん)の籠る平原(へいげん)の包囲を解き、(ぎょう)に帰った。


 袁譚(えんたん)は包囲が解けると、袁尚(えんしょう)の武将・呂曠(りょこう)(本編未登場)、呂翔(りょしょう)(本編未登場)に密かに将軍の印綬(証)を与えたが、呂曠(りょこう)呂翔(りょしょう)曹操(そうそう)に降伏し、この印綬を渡した。


 曹操(そうそう)は、自身と袁尚(えんしょう)を戦わせ、その疲弊につけこんで袁譚(えんたん)が勢力を伸ばそうとしていることには気づいていたが、その場では目をつむり、自身の子・曹整(そうせい)(本編未登場)と袁譚(えんたん)の娘との婚約を決めて安心させて、軍を引き返した。[武帝紀、袁紹伝]


 袁譚(えんたん)曹操(そうそう)に降伏した。つまり彼は曹操(そうそう)の奉じる朝廷に従うということである。おそらくこの時点で自称であった車騎将軍の称号は却下され、青州刺史(せいしゅうしし)だけ承認されたのだろう。


 その袁譚(えんたん)が朝廷(曹操(そうそう))を介さず、勝手に将軍に任命するというのは明らかな裏切り行為である。せめて青州刺史(せいしゅうしし)の部下の役職なら言い訳も出来ただろうが、さすがにその程度の役職では口説き落とせなかったのだろう。


 だが、呂曠(りょこう)らは袁尚(えんしょう)袁譚(えんたん)曹操(そうそう)とを値踏みした結果、曹操(そうそう)を選び、袁譚(えんたん)の裏工作はあっさり露見することとなった。


 この間に劉表(りゅうひょう)は何をしていたのか。ただ、指を咥えて見ていただけではない。


 劉表(りゅうひょう)袁譚(えんたん)袁尚(えんしょう)それぞれに手紙を送り、仲を修復しようとしたが、二人ともこれを聞き入れなかった。[袁紹(えんしょう)伝、後漢書・袁紹(えんしょう)伝]


 劉表(りゅうひょう)からしてみれば、袁譚(えんたん)に味方して袁尚(えんしょう)を攻撃しても、袁尚(えんしょう)に味方して袁譚(えんたん)を攻撃しても、曹操(そうそう)の得になるばかりで、動くに動けないという状況だったのだろう。この頃に大規模な軍事行動は起こしていないようだ。


 翌204年、袁尚(えんしょう)(ぎょう)審配(しんはい)蘇由(そゆう)(本編未登場)を残し、再び袁譚(えんたん)を攻撃した。


 その間に曹操(そうそう)(ぎょう)に進攻。蘇由(そゆう)曹操(そうそう)に呼応しようとしたが、審配(しんはい)に攻撃され、敗れて曹操(そうそう)陣営に逃げ込んだ。


 4月、曹操(そうそう)(ぎょう)を攻撃。土山や地下道を築いた。さらに曹操(そうそう)曹洪(そうこう)(ぎょう)攻撃に残し、周辺の尹楷(いんかい)(本編未登場)の守る毛城(もうじょう)沮鵠(そこく)(沮授(そじゅ)の子)の守る邯鄲(かんたん)を攻略し、(ぎょう)を孤立させた。


 5月、曹操(そうそう)(ぎょう)を本格的に攻撃したが、守将の審配(しんはい)の抵抗にあい、落とすことができなかった。そこで曹操(そうそう)(ぎょう)周辺の川を決壊させ水攻めにした。輸送ルートを絶たれ、水攻めを受けた城中は食糧難となり、半数が餓死した。


 7月、(ぎょう)の危機を知った袁尚(えんしょう)が引き返し、審配(しんはい)と呼応して、内と外から曹操(そうそう)を挟み撃ちにしようとしたが、敗北。袁尚(えんしょう)は逃亡し、審配(しんはい)は城に戻った。


 曹操(そうそう)袁尚(えんしょう)の陣を包囲すると、袁尚(えんしょう)は怖じ気づき、陰夔(いんき)(本編未登場)、陳琳(ちんりん)を派遣して曹操(そうそう)に降伏を乞うたが、曹操(そうそう)はこれを許さず、さらに包囲を厳しくした。


 袁尚(えんしょう)祈山(きざん)に逃走し、曹操(そうそう)が追撃すると、袁尚(えんしょう)の将・馬延(ばえん)(本編未登場)、張顗(ちょうぎ)(本編未登場)は戦わずに降伏し、袁尚(えんしょう)軍は総崩れとなり、袁尚(えんしょう)はさらに中山(ちゅうざん)に逃走した。


 曹操(そうそう)袁尚(えんしょう)輜重(しちょう)をことごとく捕獲し、彼の印綬(役職の証)や節鉞(軍権の証)を手に入れ、それを(ぎょう)に籠城する兵に見せ、その戦意を削いだ。


 8月、審配(しんはい)の甥・審栄(しんえい)(本編未登場)は守っていた(ぎょう)の東門を開け曹操(そうそう)を招き入れ、ついに(ぎょう)は陥落した。守将の審配(しんはい)は捕らえられ、処刑された。


 (ぎょう)が平定されると、高幹(こうかん)(袁紹(えんしょう)甥、并州刺史(へいしゅうしし))は并州(へいしゅう)を上げて曹操(そうそう)に降伏し、再び并州刺史(へいしゅうしし)に任命された。[武帝紀(ぶていき)袁紹(えんしょう)伝]



 ◎袁譚の最期



 一方、袁譚(えんたん)曹操(そうそう)(ぎょう)を包囲している間に冀州(きしゅう)甘陵(かんりょう)安平(あんぺい)勃海(ぼっかい)河間(かかん)の各郡(国)を攻略し、さらに中山(ちゅうざん)に逃げた袁尚(えんしょう)を攻めた。


 袁尚(えんしょう)は敗れ、幽州(ゆうしゅう)故安(こあん)(幽州(ゆうしゅう)涿(たく)郡に属す)に逃亡し、兄の袁煕(えんき)を頼った。袁譚(えんたん)袁尚(えんしょう)の軍勢を手に入れると平原(へいげん)南皮(なんぴ)を落とし、平原(へいげん)の側の龍湊(りゅうそう)に駐屯した。


 袁尚(えんしょう)が逃げ込んだ故安(こあん)涿(たく)郡にある県の一つである。余談だが、涿(たく)郡は劉備(りゅうび)張飛(ちょうひ)(本編、チョーヒ、1話初登場)の出身地である。


 12月、この袁譚(えんたん)の行動に曹操(そうそう)は約束違反だとして彼を責め、子の婚約を解消し、平原(へいげん)に向けて軍を進めた。袁譚(えんたん)はこれに恐怖し、平原(へいげん)を棄て、南皮(なんぴ)に籠った。曹操(そうそう)平原(へいげん)に入り、周辺の諸県を平定した。[武帝紀(ぶていき)袁紹(えんしょう)伝、後漢書・袁紹(えんしょう)伝]


 袁譚(えんたん)平原(へいげん)に籠らず、すぐ放棄したのは、先の袁尚(えんしょう)との戦いで城壁が損傷し、防御に適さなかったからだろうか。


 また袁譚(えんたん)の約束違反を曹操(そうそう)は責めているが、両者にどのような約束があったのか具体的にはわからない。冀州(きしゅう)の領地配分について取り決めがあったのだろうか。先の呂曠(りょこう)らの印綬の件も言わなかっただけで、不問にしたわけではない。曹操(そうそう)は端から袁譚(えんたん)を滅ぼす気でいたのなら、どう動いても袁譚は攻められただろう。


 翌205年1月、曹操(そうそう)南皮(なんぴ)袁譚(えんたん)を攻めた。初め袁譚(えんたん)の攻勢は激しく、曹操(そうそう)は怯んだが、曹純(そうじゅん)(本編、ソウジュン、69話初登場)の進言もあり、より猛攻を加え、ついに南皮(なんぴ)を落とした。


 袁譚(えんたん)曹純(そうじゅん)の騎馬隊に追い付かれ、命乞いをしたが、首を斬られた。また郭図(かくと)らもその妻子とともにことごとく斬り殺された。これにより冀州は平定された。[武帝紀(ぶていき)袁紹(えんしょう)伝、曹純(そうじゅん)伝、後漢書・袁紹(えんしょう)伝]


 辛評(しんひょう)の最期については史料に言及がない。後漢書には郭図(かくと)等とあるので辛評(しんひょう)も含まれるか。弟の辛毗(しんぴ)曹操(そうそう)の陣にいたが、辛評(しんひょう)の命乞いをしたといった記述もないから、あるいは戦死したのかもしれない。


 なお、辛毗(しんぴ)はその後も曹操(そうそう)、さらに曹丕(そうひ)(本編未登場)、曹叡(そうえい)(本編未登場)と三代に仕え、衛尉(えいい)(大臣)にまでなり、蜀漢(しょくかん)が北伐を行うと、大将軍・司馬懿(しばい)(本編、シバイ、64話初登場)の軍師として、これと戦った。[辛毗(しんぴ)伝]


 一方、幽州(ゆうしゅう)に逃げた袁尚(えんしょう)とその兄・袁煕(えんき)だが、同1月、袁煕(えんき)の武将・焦触(しょうしょく)(本編未登場)、張南(ちょうなん)(本編未登場)は反乱を起こし、袁煕(えんき)袁尚(えんしょう)幽州(ゆうしゅう)の北東部にいる烏丸(うがん)(北方の異民族)族を頼って落ち延びた。焦触(しょうしょく)らは曹操(そうそう)に降伏した。


 さて、この間、荊州(けいしゅう)劉表(りゅうひょう)はどうしていたのか。彼は未だ(えん)家との同盟を維持していた。しかし、大きな動きは見せていない。


 袁譚(えんたん)袁尚(えんしょう)の対立に深入りできなかったのもあるが、曹操(そうそう)の動きが速すぎたのも一因だろう。特に袁譚(えんたん)とは12月に開戦し、翌年1月に袁譚(えんたん)を斬っている。袁譚(えんたん)が滅ぼされると聞けば動いただろうが、さすがにこの期間では間に合わなかっただろう。


 この頃だろうか、劉備(りゅうび)は長期間馬に乗らず、そのせいで(もも)贅肉(ぜいにく)がついたと(なげ)く『髀肉之嘆(ひにくのたん)』のエピソードがある。


 劉表(りゅうひょう)の動きとは断定できないが、この頃(206年頃?)、曹操(そうそう)の武将・張遼(ちょうりょう)(本編、チョーリョー、11話初登場)は荊州(けいしゅう)を攻撃し、江夏(こうか)郡の諸県を平定した。[張遼(ちょうりょう)伝]


 江夏(こうか)郡も汝南(じょなん)郡に隣接した郡であり、劉表(りゅうひょう)も何かしら曹操(そうそう)への攻撃をしていたのかもしれない。


 あるいは207年に揚州(ようしゅう)孫権(そんけん)(この時点では曹操(そうそう)との関係は良好)(本編、チュー坊、64話初登場)が江夏(こうか)太守の黄祖(こうそ)(本編、コウソ、63話初登場)を攻めているが、張遼(ちょうりょう)の進攻もこれと連動した動きだったのだろうか。[呉主(ごしゅ)伝(孫権(そんけん)伝)]



 ※後編に続く

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