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歴史解説 袁家の滅亡と博望の戦い 前編

 これは別に連載している『学園戦記三国志』をより楽しむために、歴史上の三国時代の解説及び考察を行ったものです。本編では省略されてしまった部分やカットされてしまった部分をより詳しく紹介されています。


 なお、この解説には独自の考察も含みます。ご了承ください。


 作中に“本編”として紹介されているのは、別に連載している小説『学園戦記三国志』のことです。また、これが書かれたのは本編の73話時点なので、紹介されている情報も73話時点までの内容に基づいています。(この解説で本編未登場と紹介された人物がそれ以降の話数で登場することがあります)


 ↓学園戦記三国志リンク

https://ncode.syosetu.com/n2756fp/



 ◎まえがき



 『学園戦記三国志』(以下、本編)の第70話にて行われたリュービとカコウトンらの戦いは、博望(はくぼう)の戦い(演義等では博望坡(はくぼうは)の戦いとも)が元になっている。


 小説・三国志演義では、この博望(はくぼう)の戦いは西暦208年(以下年はすべて西暦、月日はすべて旧暦)の赤壁(せきへき)の戦いの少し前、劉備(りゅうび)の配下となった諸葛孔明(しょかつこうめい)の初陣として描かれている。


 しかし、実際に博望(はくぼう)の戦いが起きたのは、孔明(こうめい)が加入する前、203年前後の出来事であった。


 本編では、207年の曹操(そうそう)烏丸(うがん)征討と同時期に博望(はくぼう)の戦いが描かれているが、これも時系列がおかしい。官渡(かんと)の戦い以降の曹操(そうそう)(えん)家の戦いを大幅にカットしてしまったのでこのあたりの時系列はだいぶいじっている。


 カットするには惜しい話ではあったのだが、話が長くなりすぎるし、ソウソウ(曹操(そうそう))が主役になってしまうのでやむなくカットした。


 なので今回は、本編でもカットされた200年の官渡(かんと)の戦い以降からから208年の荊州(けいしゅう)征伐前までの劉備(りゅうび)(本編、リュービ、本編主人公)劉表(りゅうひょう)(本編、リュウヒョウ、五章より本格登場)陣営と曹操(そうそう)(本編、ソウソウ、1話より登場)陣営、そして官渡(かんと)の戦いで敗北した後の袁紹(えんしょう)(本編、エンショウ、7話より本格登場)陣営の動きをざっくり解説していこうと思う。


 特に劉表(りゅうひょう)は、天下分け目の官渡(かんと)の戦いに積極的に介入せず、優柔不断、日和見と評されるが、実際の動きはどうであったのかを見ていこう。



 ◎官渡(かんと)の戦い前後



 まずは、官渡(かんと)の戦い前後の流れを簡単に紹介しておこう。


 元々、曹操(そうそう)袁紹(えんしょう)袁紹(えんしょう)劉表(りゅうひょう)は同盟関係にあった。(曹操(そうそう)劉表(りゅうひょう)は度々戦っている)


挿絵(By みてみん)

 この三勢力の位置関係は、袁紹(えんしょう)が北の四州(()(せい)(へい)幽州(ゆうしゅう)。州は当時の中国の最大単位の行政区分)を有し、劉表は南の荊州(けいしゅう)を抑え、曹操は(えん)()徐州(じょしゅう)司隷(しれい)(洛陽(らくよう)を含む首都圏、司州とも)周辺を治め、他の二勢力に南北を挟まれる形で中央にいた。


 彼らには共通の敵・袁術(えんじゅつ)(本編、エンジュツ、8話本格登場)がいた。


 しかし、袁術(えんじゅつ)は敗戦を重ね勢力が縮小。対して曹操(そうそう)は勢力を拡大し、さらに献帝(けんてい)(後漢(ごかん)の皇帝)(本編、リューキョー、15話本格登場)を自陣営に引き入れたことで袁紹(えんしょう)との関係が悪化。


 曹操(そうそう)袁紹(えんしょう)官渡(かんと)の戦いが起こり、曹操(そうそう)が勝利した。この戦いのおおよその流れは本編の第四章で書いたのでそちらを読んでほしい。この戦いは199~200年の出来事である。


 余談だが、200年4月4日、江東(こうとう)孫策(そんさく)(本編、ソンサク、7話初登場)が刺客に襲われ命を落とし、弟の孫権(そんけん)(本編、チュー坊、64話初登場)が後を継いだ。4月は曹操(そうそう)陣営にいた関羽(かんう)(本編、カンウ、1話初登場)が袁紹(えんしょう)の将・顔良(がんりょう)(本編、ガンリョウ、17話初登場)を斬った頃である。


 本編でカンウがガンリョウを討ったのは50話だが、ソンサクの退場はずっと遅れて72話のことである。これは来年度入学の弟への引き継ぎのためだが、まあ、カントの戦いで忙しい時に、そんな重要キャラに退場されても困るというのが正直なところである。


 話を戻すが、袁紹(えんしょう)官渡(かんと)で敗北すると、子の袁譚(えんたん)(本編未登場)のみを伴い、黄河を渡って逃亡した。曹操(そうそう)に降伏した袁紹(えんしょう)軍の兵士はすべて生き埋めにされ、その数は八万人にも達っしたという。[武帝紀(ぶていき)(正史三国志の曹操の伝記、以下、頭に書名のないものは全て正史三国志のもの、注も含む)、袁紹(えんしょう)伝]


 官渡(かんと)の戦いの前後、曹操(そうそう)は何度も自軍の食糧不足に悩まされている。さらに八万の兵士を養う余裕はなかったのだろう。


 また、袁紹(えんしょう)の部下・沮授(そじゅ)(本編、ソジュ、47話初登場)も渡河に間に合わず捕らえられた。曹操(そうそう)沮授(そじゅ)を部下に加えたいと思い、厚遇したが、沮授(そじゅ)は袁紹のもとに戻ろうとしたので、処刑された。[袁紹(えんしょう)伝]


 袁紹(えんしょう)伝の注にある献帝(けんてい)伝には、曹操(そうそう)に捕らえられた沮授(そじゅ)は、家族が袁紹(えんしょう)のもとにいるので、早く私を殺して欲しいと言ったとある。家族の身の安全を優先するなら、沮授(そじゅ)曹操(そうそう)に仕えることはできなかったのだろう。


 本編62話のやりとりはこのやりますがもとになっている(家族云々はカットしているが)。さすがに本編では殺害されず、拘束されただけとなっている。


 官渡(かんと)の戦いの前、袁紹(えんしょう)の部下・田豊(でんほう)(本編、デンポウ、19話初登場)は、これを(いさ)めて止めさせようとした。それが袁紹(えんしょう)の怒りに触れ、彼を牢獄に閉じ込めた。袁紹(えんしょう)は敗北し、帰還すると、田豊(でんほう)の意見を聞かず敗北し、彼は私を嘲笑しているだろうと言って、彼を殺害してしまった。[袁紹(えんしょう)伝]


 本編では、デンポウ(田豊(でんほう))は49話で拘束され、その後は登場しないのでここに最期を書く。


 なお、デンポウを捕らえるよう命じられたホウキ(逢紀(ほうき))はデンポウの方が立場が上なので遠慮がちに拘束しているが、実際の逢紀(ほうき)(本編、ホウキ、47話初登場)は田豊(でんほう)を嫌い、度々彼を讒言(ざんげん)していた。一説には、彼が牢獄にいる田豊(でんほう)が今回の敗北を知って大笑していると、袁紹(えんしょう)に言ったことから、田豊(でんほう)の処刑に至ったという。


 官渡(かんと)の戦いで勝利した曹操(そうそう)はさらに翌201年、倉亭(そうてい)という場所に駐屯する袁紹(えんしょう)軍を破る。


 この度重なる敗戦に、袁紹(えんしょう)領内で反乱が頻発(ひんぱつ)し、袁紹(えんしょう)はその鎮圧(ちんあつ)忙殺(ぼうさつ)され、翌202年5月、失意のうちに病死する。[武帝紀(ぶていき)]


 本編では、死なすわけにはいかないので、ソウソウの愛人となった。エンショウは受け入れたが、袁紹(えんしょう)の霊が読んだら怒るだろう。



 ◎官渡の戦いの裏・劉備、劉表の動き



 さて、一方の劉表(りゅうひょう)だが、彼は袁紹(えんしょう)との同盟を継続し、曹操(そうそう)の戦う選択をした。だが、官渡(かんと)の戦いに当初参戦していなかった。


 しかし、これには事情があった。


 官渡(かんと)の戦い以前、劉表(りゅうひょう)が治めていたのは荊州(けいしゅう)でも北部に限られていた。


 官渡(かんと)の戦いに先立つ198年、荊州(けいしゅう)南部の長沙(ちょうさ)太守(たいしゅ)張羨(ちょうせん)(本編未登場)は、隣の零陵(れいりょう)桂陽(けいよう)郡とともに劉表(りゅうひょう)に対し反乱を起こした。


 なお、余談だが、当時の中国での行政区分は最大が州で、その長官は刺史(しし)(ぼく)といった。州の次に大きいのが郡であり、これが現代日本では県に相当し、長官は太守(たいしゅ)という。次が県で、これは今だと市や郡・町に相当する。大きな県の長官は県令(けんれい)、小さな県の長官は県長(けんちょう)という。


 話を戻すが、袁紹(えんしょう)曹操(そうそう)の仲が険悪になると、張羨(ちょうせん)は部下の桓階(かんかい)(本編未登場)の進言に従い、曹操(そうそう)と手を組んで劉表(りゅうひょう)に抵抗した。


 この反乱は最終的に劉表(りゅうひょう)が勝利し、これにより荊州(けいしゅう)のほぼ全域を掌中に治め、兵十万を有する一大勢力になる。反乱鎮圧の詳しい年月は不明だが、200年頃のことと思われ、これにより劉表(りゅうひょう)官渡(かんと)の戦いに出遅れることとなった。[劉表(りゅうひょう)伝、桓階(かんかい)伝、後漢書(ごかんじょ)劉表(りゅうひょう)伝]


 そして、劉備(りゅうび)だが、彼は袁紹(えんしょう)陣営に加わり、官渡(かんと)の戦いの敗戦前に、予州(よしゅう)汝南(じょなん)郡に派遣され、その地の賊・龔都(きょうと)(表記は共都とも)(本編、キョウト、3話初登場)と合流し、曹操から派遣された配下の蔡陽(さいよう)(本編、サイヨウ、62話初登場)を破った。これが201年、曹操(そうそう)倉亭(そうてい)袁紹(えんしょう)軍を破った頃のことである。[武帝紀(ぶていき)先主(せんしゅ)伝(劉備(りゅうび)伝)]


 劉備(りゅうび)が派遣された汝南(じょなん)郡は曹操(そうそう)領の南側、曹操(そうそう)の本拠地である許都(きょと)のある穎川(えいせん)郡とも劉表(りゅうひょう)のいる荊州(けいしゅう)とも境界が接している土地だ。


 ついでに言うと汝南(じょなん)は、袁紹(えんしょう)の本籍地であり、汝南(じょなん)が属す予州(よしゅう)(ぼく)(長官)は劉備(りゅうび)である。(任命された後返さなかっただけだが)


 当時の汝南(じょなん)には袁紹ゆかりの門生や食客が兵を率いて抵抗していたという。太守(たいしゅ)満寵(まんちょう)(本編、マンチョウ、55話初登場)は二十余の砦を陥とし、指導者十余人を殺し、戸数二万、兵二千を手に入れたという。[満寵(まんちょう)伝]


 また曹操(そうそう)汝南(じょなん)の県を割いて陽安(ようあん)郡を新設し、そこの都尉(とい)(太守代行)に李通(りつう)(本編、リツウ、55話本格登場)を任命した。官渡(かんと)の戦いで袁紹(えんしょう)方が優勢な頃、多くの郡が袁紹(えんしょう)になびく中、彼は懸命に抵抗した。


 さらに李通(りつう)は郡内の賊・瞿恭(くきょう)江宮(こうきゅう)沈成(しんせい)(本編、クキョウ、コウキュウ、シンセイ、ともに55話初登場。本編ではリツウの部員の裏切り者という設定)を討伐した[李通(りつう)伝]


 満寵(まんちょう)李通(りつう)が討った賊も、もしかしたら劉備(りゅうび)劉表(りゅうひょう)と連携をとっていたかもしれない。


 さて、劉備(りゅうび)汝南(じょなん)に派遣されたのは、劉表(りゅうひょう)との連携も考慮に入れてのことではあるが、この頃になると劉表(りゅうひょう)荊州(けいしゅう)が落ち着き、曹操(そうそう)領に侵攻を開始するようになる。


 201年、劉表(りゅうひょう)軍は西顎(せいがく)県に侵攻した。西顎(せいがく)県は荊州(けいしゅう)南陽(なんよう)郡に所属する。南陽(なんよう)郡は荊州(けいしゅう)の北端の郡だが、曹操(そうそう)張繡(ちょうしゅう)(初め劉表(りゅうひょう)と組んだが、199年に曹操(そうそう)に降伏)(本編、チョウシュウ、33話初登場)・劉表(りゅうひょう)によって分割統治されていた。


 西顎(せいがく)県長の杜襲(としゅう)(本編、トシュウ、41話初登場)は必死に抵抗したが、敵わず逃走する。[杜襲(としゅう)伝]


 この時の劉表(りゅうひょう)軍は一万とあり、一つの県を落とすためだけの兵数ではないだろう(この時西顎(せいがく)県の兵数は約50人だという)。おそらく南陽(なんよう)郡の諸県を攻略したと思われる。


 ちなみに本編62話のリュービ軍の戦いはこの時の西顎(せいがく)攻略が元になっている。


 一方、倉亭(そうてい)袁紹(えんしょう)軍を破った曹操(そうそう)劉備(りゅうび)劉表(りゅうひょう)に備えて南下。劉備(りゅうび)曹操(そうそう)が来ると聞いて劉表(りゅうひょう)領に逃走した[先主(せんしゅ)伝]。


 ここまでが本編の第四章で書いたことになる。


 しかし、劉表(りゅうひょう)は攻略した南陽(なんよう)郡の諸県に軍を置いたままだったようだ。(後述)


 おそらくこの前のことになると思うが、この年に曹操(そうそう)は、食糧不足もあり、袁紹(えんしょう)が敗北して弱っているうちに劉表(りゅうひょう)を先に討とうと思い、荀彧(じゅんいく)(本編、ジュンイク、16話初登場)に相談する。だが、荀彧(じゅんいく)からは、先に袁紹(えんしょう)を徹底的に叩き平定すべきと反対されている。[荀彧(じゅんいく)伝]


 おそらく、この南下も劉備(りゅうび)劉表(りゅうひょう)の牽制程度の目的であり、本気で討伐する気はなかったのであろう。曹操(そうそう)はすぐに北に戻った。



 ◎袁紹の後継者問題



 さて202年に病死した袁紹(えんしょう)だが、彼には三人の息子がいた。


 長子・袁譚(えんたん)(本編未登場)、次子・袁熙(えんき)(本編未登場)・末子・袁尚(えんしょう)(本編未登場)である。袁貝(えんばい)(本編未登場)?この話に関係ないので除外する。(袁貝(えんばい)袁紹(えんしょう)の子とも袁尚の兄の子とも書かれ、詳細不明)


 袁紹(えんしょう)は、美男子であった末子・袁尚(えんしょう)を愛し、長子・袁譚(えんたん)には兄(人物不明、ちくま訳では董卓に殺された太僕(たいぼく)(大臣)・袁基(えんき)(本編未登場)と推測している)の後を継がせ、青州刺史(せいしゅうしし)として外に出し、自身の後継者候補からは外してしまった。


 また、次子・袁熙(えんき)幽州刺史(ゆうしゅうしし)、甥・高幹(こうかん)(本編未登場)を并州刺史(へいしゅうしし)に任じ外に出し、袁尚(えんしょう)のみを本拠地である冀州(きしゅう)に残した。


 しかし、袁紹(えんしょう)は後継者を指名せずに死んでしまった。急死だったのかもしれない。


 だが、指名しなかったことにより長子・袁譚(えんたん)が後継者に名乗りを上げ、末子・袁尚(えんしょう)と後継の座を巡って争うことになる。


 これに家臣の権力争いが加わり、審配(しんはい)(本編、シンパイ、47話初登場)・逢紀(ほうき)袁尚(えんしょう)に、辛評(しんひょう)(本編未登場)・郭図(かくと)(本編、カクト、47話初登場)は袁譚(えんたん)についた。


 結局、後継者は袁尚(えんしょう)と決まった。


 袁譚(えんたん)車騎将軍(しゃきしょうぐん)と自称し、黎陽(れいよう)に陣をおいて曹操(そうそう)に備えた。[武帝紀(ぶていき)袁紹(えんしょう)伝、後漢書(ごかんじょ)袁紹(えんしょう)伝]


 しかし、これはおかしな話で、袁譚(えんたん)はすでに伯父の家を継いでおり、袁紹(えんしょう)の後継者から外されている。


 後漢書(ごかんじょ)ではさらに審配(しんぱい)らは袁紹(えんしょう)の遺書まで偽造して袁尚(えんしょう)を後継者にしたとあるが、そこまでしなくても袁尚(えんしょう)を後継者と皆考えていたのではないだろうか。


 しかし、袁紹伝には人々は年長者である袁譚を後継者に望んだという。


 袁譚(えんたん)はすでに軍の指揮官として青州(せいしゅう)平定に功績があり、また官渡(かんと)の戦いでも従軍している。


 対して袁尚(えんしょう)袁紹(えんしょう)生前時の明確な活動記録がない。残っていないだけかも知れないが、もしかしたら袁尚(えんしょう)はまだ若く(成人していなかった可能性もある)、特に仕事を任されてはおらず、世間的には存在を認知されていなかったのかも知れない。だからこそ審配(しんはい)らは遺書を偽造する必要があったのだろう。


 あるいは袁譚(えんたん)が欲したのは家とは別のものかもしれない。


 袁紹(えんしょう)死亡時の官職だが、使持節(しじせつ)(独自に官吏以下を処刑できる権限)・大将軍・督青幽并(とくせいゆうへい)(青、幽、并三州の監督)・冀州牧(きしゅうぼく)(長官)・邟郷侯(こうきょうこう)(爵位、烏丸伝では阮郷侯(げんきょうこう)とする。おそらく邟郷侯(こうきょうこう)が正しい)であった。[武帝紀(ぶていき)袁紹(えんしょう)伝、烏丸(うがん)伝、後漢書・袁紹(えんしょう)伝]


 家や邟郷侯(こうきょうこう)の爵位は袁尚(えんしょう)が継ぐとして、これらの官職、特に大将軍の位を袁譚(えんたん)は要求したのかもしれない。


 状況的に曹操(そうそう)と戦わざるを得ないのであるから、より戦争経験を積んでいる袁譚(えんたん)が全軍を指揮するべきと考えたのかもしれない。


 袁譚(えんたん)が大将軍に加え、さらに冀州牧(きしゅうぼく)まで要求したかわからないが、審配(しんはい)ら多くの冀州(きしゅう)の人材が袁尚(えんしょう)についているので、得るのは大将軍より難しいだろう。(辛評(しんひょう)郭図(かくと)はともに予州(よしゅう)穎川(えいせん)郡出身)


 しかし、袁譚(えんたん)は大将軍を得ることは叶わなかった。だから、代わりに車騎将軍と称したのであろう。そして、記録には残ってないが、状況的に見て、おそらく袁尚(えんしょう)が大将軍を継いだのだろう。


 袁譚(えんたん)が称した車騎将軍も高位の将軍号である。また、かつて袁紹(えんしょう)も反董卓(とうたく)連合の盟主になった時に車騎将軍と称した。


 また、200年に車騎将軍・董承(とうしょう)(本編、トージョー、43話初登場)の曹操(そうそう)への謀反の計画がもれ、処刑されている。おそらく、それ以降、車騎将軍は空席だったのだろう。


 車騎将軍は袁紹(えんしょう)旧臣や対曹操に対してメッセージ性のある称号と言える。だから、袁譚(えんたん)は名乗ったのだろうが、袁尚(えんしょう)に対しても喧嘩を売った形となっている。


 また袁譚(えんたん)は最終的に南皮(なんぴ)を本拠地にしているが、ここは冀州勃海(きしゅうぼっかい)郡にある都市だ。袁紹(えんしょう)が反董卓(とうたく)の挙兵をした時の地位もまた勃海(ぼっかい)太守であった。


 袁譚(えんたん)は若い頃の袁紹(えんしょう)(なぞら)えることで、袁紹(えんしょう)の再来の印象を与え、支持に繋げようとしたのかもしれない。



 ◎曹操対袁譚・袁尚



 さて、曹操(そうそう)に備え、黎陽(れいよう)に布陣した袁譚(えんたん)だったが、袁尚(えんしょう)は彼に少数の兵しか与えず、さらに監視役として逢紀(ほうき)を派遣した。袁譚(えんたん)は増兵を要求したが、袁尚(えんしょう)は与えず、怒った袁譚(えんたん)逢紀(ほうき)を殺してしまう。


 そこへ戻ってきた曹操(そうそう)が攻めこみ、やむなく袁尚(えんしょう)自ら袁譚(えんたん)の救援に赴くが(袁尚(えんしょう)袁譚(えんたん)に兵を奪われることを恐れ、自ら率いた)、度々敗北し、袁譚(えんたん)袁尚(えんしょう)黎陽(れいよう)を放棄して、本拠地である(ぎょう)(冀州魏郡(きしゅうぎぐん)に属す都市)に退却した。202年の9月~203年の3月頃のことである。[武帝紀(ぶていき)袁紹(えんしょう)伝]


 また、袁尚(えんしょう)曹操(そうそう)と戦っている間に、匈奴(きょうど)(北方異民族)の単于(ぜんう)(王)・呼廚泉(こちゅうせん)(本編未登場)に平陽(司隷河東郡に属す)で反乱を起こさせ、さらに部下の郭援(かくえん)(本編未登場)を河東(かとう)太守に任命し、高幹(こうかん)(袁紹甥)とともに河東(かとう)郡を攻めさせた。また一方で、西部軍閥の馬騰(ばとう)(本編、バトウ、67話初登場)・韓遂(かんすい)(本編未登場)らに使者を送り、味方に率いれた。


 河東(かとう)郡は司隷(しれい)に属し、かつての首都・洛陽(らくよう)への通り道となる郡である。袁尚(えんしょう)曹操(そうそう)と戦う間に、曹操(そうそう)領を西部側から攻めこむ作戦をとった。


 これに対し、司隷校尉(しれいこうい)(首都圏防衛長官)・鍾繇(しょうよう)(本編、ショーヨー、67話本格登場)は張既(ちょうき)(本編、チョウキ、67話初登場)に命じて馬騰(ばとう)らを説得。一度は袁尚(えんしょう)方に協力することを決めた彼らだったが、曹操(そうそう)方につけることに成功した。


 馬騰(ばとう)は息子の馬超(ばちょう)(本編、バチョウ、68話セリフのみ登場)に一万余の兵を率いさせ、鍾繇(しょうよう)と合流。ともに郭援(かくえん)らを破り、馬超(ばちょう)の将軍・龐悳(ほうとく)(演義では龐徳(ほうとく)とする)(本編未登場)は郭援(かくえん)を斬り、高幹(こうかん)呼廚泉(こちゅうせん)は退却した。[荀彧(じゅんいく)伝、鍾繇(しょうよう)伝、張既(ちょうき)伝、龐悳(ほうとく)伝、馬超(ばちょう)伝]


 袁尚(えんしょう)袁譚(えんたん)らは曹操(そうそう)に敗れはしたものの、数ヶ月粘っており、手薄な洛陽(らくよう)方面を狙う等なかなか善戦している。こちらは馬騰(ばとう)らが曹操(そうそう)方につかなければどちらに転んでいたかはわからなかっただろう。


 また馬騰(ばとう)韓遂(かんすい)らの西部軍閥だが、この前後頃より曹操(そうそう)に協力、李傕(りかく)(本編、リカク、7話初登場)・郭汜(かくし)(本編、カクシ、7話初登場)以降不安定であった司隷(しれい)周辺の治安維持に貢献するのだが、それはもちろん見返り、つまり地位や領地の保証を求めてのことであった。だが、勢力を拡大する曹操(そうそう)に不安を覚え、後に大規模な反乱を起こすことになるのだが、それは本編六章の話となる。



 ※中編に続く

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