緊急会議
俺たちはサーシャに急かされ、泊まっている宿に向かって走った。
扉を開け、中に入る。サーシャは全員が入ったのを確認すると、最後に廊下を見回してから、扉を閉めた。
「はあはあ。 さすがに疲れました……」
「私ももう限界……」
ガーネットとミカは息を切らし、壁に寄りかかる。
「俺も…… サーシャ、一体何があったーー」
次の瞬間、サーシャが起こした行動に、俺は理解が追いつかなかった。
あろうことか、彼女は俺の胸あたりに顔をうずめ、すんすんと匂いを嗅ぎ始めたのだ。
「ちょっ、え? サーシャ!?」
「わっ、サーシャ!? 何してるの!?」
ミカは、まるで見てはいけないものが目の前にあるかのように、目を手で隠した。指の隙間から覗いているというお約束付きだ。
「まさか、私たちに見せつけるために!? 二人とも、やっぱり!」
「誤解だって!」
ガーネットの憶測を俺は全力で否定する。
「やっぱり、これがお前の匂いか…… ちょっと汗っぽいが、私は嫌いじゃない……」
サーシャはうっとりとそんな独り言を漏らす。一体どんな匂いがするというんだ。
というか、こんなご褒美があるだろうか。
って、そうじゃないだろ! このままじゃ、やばい。色々と!
「サーシャ、一回ストップ!」
「はあ…… いい匂い……」
サーシャは自分だけの世界に入っているみたいだ。
本当にこの状況は良くない。目の前だけ見れば、そこにあるのは楽園だ。しかし、一旦視野を広げれば、ミカとガーネットの痛々しい視線が。まるで俺が悪いとでも言いたげだ。
サーシャに離れてもらうにはどうすれば……
あっ、と俺は一つひらめいた。
サーシャは狼ではないか。狼はイヌ科の動物だったはず。
ならば……
「サーシャ、待て!」
俺は犬に接するように、そう命令した。
「ワンっ」
サーシャがすっと顔を上げる。
「ワン……?」
今、ワンって言ったのか……
「あ、いや…… ちょっとだけ調子に乗った…… すまない」
サーシャは恥ずかしそうにしながら、ゆっくりと後ずさりする。彼女の耳はわかりやすく萎えていった。
だが、対して俺の鼓動はそんなすぐには治らなかった。
「はあ…… それで、結局何があったの?」
「実は…… 前から気になっていたことがあって」
改まった顔つきをし、サーシャはおもむろに話を始めた。
「恩人様と同じ匂いがする?」
「そうだ。 王都に来てからずっと。 そこら中から」
「それって、シンの匂いが凄すぎて周りに広まってるってこと?」
ミカの一言で、俺はどきりとした。
「え、俺臭いの?」
俺は自分の服に鼻を近づける。特に変な匂いはしない。いや、こういうのは確か、自分では気づきにくいとかだったような。
「違う。 いや、本音を言うとわからない。 私も最初はお前の匂いかと思っていた。 だが、お前から離れた時にも、匂いはまだしていた」
「じゃあ、恩人様以外の誰かが、恩人様と同じ匂いを発している可能性が高いということですか?」
サーシャは深刻そうに、こくりと頷いた。
「待ってくれ。 サーシャの言ってることが正しいなら……」
「嘘…… でも、あの時恩人様が……」
ガーネットは顔面蒼白になっていた。全身の血の気が引いていくのを感じたのは、俺も同じだ。
何せ、サーシャの告白は、一つの恐ろしい仮説を生み出してしまったのだから。
「どうしたの、みんな?」
一人、話について行けてないミカ。
そういえば、あの時ミカはサーシャにさらわれ、檻の中にいたのだった。
「悪魔だ」
サーシャが重々しく口を開いた。
「悪魔?」
「黒騎士のことだよ。 サーシャの話では、どういうわけか、あの黒騎士と俺は同じ匂いがしてたらしい」
「え、じゃあ……」
ミカもようやく理解したらしい。
「王都のどこかに、黒騎士がいるかもしれない、ということになります」
ガーネットの言葉は俺の頭に入り込み、まるで呪詛のように何度も木霊した。やはり、そういうことになるのか。
「でも、私は、シンが黒騎士を倒すところをこの目で見たんだよ? シンも見てたよね?」
「うん。 あの時、俺の魔法で跡形もなく消えたんだ…… あいつは既にボロボロだったし、どこかに逃げる力なんてなかったはずだけど」
そうだ。
ルクス・フルクシオ。突如、使えるようになったあの強力な魔法で、俺は黒騎士にトドメを刺したのだ。あの痛みも恐怖も、決して夢などではない。
だったら、なぜ?
「誰が匂いの元か、見当はついてるの?」
俺は尋ねる。
「それはまだ。 街にも王宮内にも、人はたくさんいたから。 私の鼻じゃ、特定するのは難しい」
「そんな……」
「だが、そもそも、それが悪魔のものとは限らない。 もしかすると、似たような匂いの人間は意外とたくさんいるのかも……」
自信なさそうにサーシャは言う。
そんなことがあるのだろうか。人の匂いなど一々嗅ぎ分けることがないので、肯定も否定もできない。
「ただ、今日の一件で、怪しいのはやはりローレンスじゃないかと思った」
「ローレンスさんですか……」
ガーネットは半分納得したような顔をしている。
「それは、今日俺が剣を向けられてたから?」
「それだけじゃない。 模擬戦の時も、あいつはお前を殺そうとしただろ」
そう言われ、あの日の記憶がよみがえった。
あの模擬戦で、ローレンスは黒騎士のような剣技を見せていたのだ。あの時はまだ何の確証もなかったが、ここに来て新たな疑惑が浮かび、いよいよ真実味を帯びてくる。
「一つ気になるのは、どちらも大きなチャンスだったのに、結局恩人様になんの危害も加えてないことです」
「私もそれが気になっている。 お前があんな奴に負けるとは思わないが、あいつは攻撃すらしなかった」
「やはり、正面からでは勝てないと見込んでいるのでしょうか?」
二人の会話は、ローレンスが黒騎士という仮定で進む。
「でも、黒騎士を倒した後に来てくれたのは、ローレンスさんとレイラさんだよね? あの時、ローレンスさんには何の怪我もなかったよ」
異議を唱えたのはミカだ。
「確かに……」
そうなると辻褄が合わない。大分ダメージを与えたはずのローレンスが、あんなピンピンしていられるはずがない。
「あの女は確か回復魔法に長けていると言っていたな?」
「うん、そうだけど…… えっ、サーシャ! 違うよ! レイラさんは絶対に違う!」
ミカの顔には大きな焦りが見てとれた。
つまり、どうにか逃げおおせた黒騎士が、レイラに回復され、そして俺たちの前に再び現れた、とサーシャは言いたいのだろう。
この数日、ミカはずっとレイラと仕事をしていたのだ。レイラが敵の仲間なんて言われて、素直に信じられるわけがない。
「でも、絶対にないとは言い切れません。 確かに、他に仲間がいたとなれば、前後関係にも納得がいきます」
「ガーネットまで……! レイラさんはそんなことする人じゃないよ…… あんなに優しいのに……」
ミカの声は小さな震えとともに、段々と小さくなっていった。このままでは泣いてしまうのではないか。
「俺も、レイラさんが黒騎士の仲間だとは思えないよ。 あの時、闇討ちができたかもしれないのに、それをしなかったんだ」
これはミカを擁護したいがために出た、希望的観測に過ぎない。
「シン……」
「それに、まだローレンスだと確定したわけじゃないんだ。 そんな状態で、無闇に手を出したら、逆にこっちがラガルディア王国の敵になっちゃうよ」
それを聞いて、サーシャは諦めたように息をついた。
「それもそうだ…… だが、何かしら先んじて手を打っておいた方がいい。 何かあってからでは遅い」
「とりあえず、グラディウスさんに相談してみるよ。 王都のどこかに黒騎士がいるかもしれないって」
「それと、私たちはできるだけ離れないで行動するようにしましょう。 一人の時を狙われるかもしれません」
こうして、暗雲を振り払うことができないまま、緊急会議が終わった。




