SEVEN:イフリータ羽百合
イフリータって、もとは女性の火の悪魔(妖精)の名前らしいですよ。
知っておいても使えない、中二病知識。
あがたはゆり【縣――羽百合】
『堕ちた炎光』
三十四歳。
主な得物は両手から繰り出す赤い炎。
純星学院伏兵クラス実技指導員。
教員としては学院内で第三位。
*
――炎……使い⁉
まったく予想しなかった縣の凶器に、淘汰は慄いていた。
淘汰の目には、その火柱が、まるで地獄の番犬のように映ったのだろう。
だが、縣の使う炎は、決して魔術的なものではない。
指の指紋部に仕込んだ特殊なヤスリを擦り合わせることで火花が生まれ、そこへ化学合成オイルを勢いよくチューブから注ぐことで、中距離での火炎放射が可能というわけだ。
機械よりも圧倒的に軽く、可動域も制限されることがないため、合理的だ。
淘汰とは違い、五十嵐はその仕組みを一目見ただけで見抜いていた。
それがプロという者であろう。
――しっかし……この『屍姦』に向かって、火はねぇよなぁ……。
心底舐められた、と彼女は機嫌を悪くしていた。
それもそのはずだろう。
五十嵐には拳銃でさえ、よほどの腕前でなければ命中しないのだ。――遠くまで飛ばない炎など、失笑ものである。
しかし、そんな事などいざ知らず、縣は
「さぁ、ここを通るにはまず私を倒してからにしてください」
とでもいうような自信気な笑みを浮かべていた。
縣の意識が完全に五十嵐に向き、炎で空中に円を描いて遊び始めていた頃、淘汰は考えていた。
――今行けば何とか門に入れるかもしれない……。
縣は完全に正門前に立ち塞がってはいるものの、そこに隙間が全くないというわけではなかった。
――……よし。
今だ、と思い、淘汰が立ち上がろうとして“右手を地面についた”――次の瞬間。
「おっと」
どぉぉおおん。
ちょっと転びかけた、というような調子で、全く意識を向けていなかった淘汰の方向に、火を放った。
その炎は尾を引きながら、淘汰のシャツの脇腹のあたりを焼いた。
ぎりぎりで皮膚には触れなかったが、それでも布には大きく穴が開き、その輪郭は黒く焦げていた。
「…………」
言葉が――出ない。
ただ、破けた服の穴から覗く肌には、かつて見たことがないくらいの鳥肌を立てていた。
それだけで、淘汰の感じた恐怖は充分に説明できるだろう。
――なぜ……少しも僕の方向を見ていなかったのに……。
汗が頬を伝う。
淘汰の瞳は、今もなお縣に釘付けだった。
実際この時、縣は淘汰を殺すことは可能だった。
炎使いたるもの、空気の動きや変化に肌が敏感なのは、当たり前だ。
そしてその“肌”は――気配にも向けられる。
ただ、卯月の“命令”によって、殺生は封じられていたために、殺すことが出来なかったのだ。
――まぁ……私も子供を自分の手で焼くのは、気が引けるしね……。
一介の教職員として、縣は心の中で呟いたのだった。
「おーい、雑魚弟子ぃ」
五十嵐が酷い渾名で淘汰を呼んだ。
「……何ですか」
縣を警戒しながら、アスファルトに片膝をついた淘汰が応える。
「お前邪魔だからちょっと何もしないでくれない?」
「…………判りました」
屈辱を覚えながらも、自らの実力も理解していた淘汰は、焼かれるよりはマシだと思い、引き下がることにした。
要領の良い少年である。
「さーて……イタリーナさん?」
「イフリータです」
いきなり名前を間違えられても、縣の表情は冷たいまま。
「ああそう。わりわり。――『堕ちた炎光』さんよぉ、そろそろ、バトルおっぱじめてもいい頃なんじゃないのか?」
「…………」
挑発に乗ることなく、縣はいたって冷静に、両手を戦闘姿勢に構えていた。
睨み合い。
ふたりの間に、冷たい風が吹いた。
探り合っているようで、ただ目を合わせているだけかもしれない。
五十嵐律音と、縣羽百合。
しかし、その緊張も長くは続かなかった。
何もしてこないと見た五十嵐は、やる気をなくした。
「ああ、もう……何でそうお堅い大人は……」
「…………」
「お堅いオバサンは……」
「…………」
「あ、いいのね? いっちゃうよ? やるよ? ――もう容赦しねぇ‼‼」
いきなり怒り出した五十嵐は、そのスーツのズボンの裾からモーニングスターフレイルを、勢いよく引き抜いた。
「妖怪ガスコンロババアッ‼ 覚悟しやがれぇぇ‼」
「よろこん――でっ!」
五十嵐が思いっきり放った速球が如き鉄球を、縣は地面で一回転して華麗に躱し、それに火を噴射した。
炎によって、空調に変化を付けるのだ。
ましてや五十嵐の武器は金属製。――温度には弱い。
「ははは――そんなんで利くと思ったんですか?」
立ち上がり、顎を上げて、挑戦的な言葉。
口許には笑みが浮かんでいる。
「ふん。――そんな百度程度の火、氷と変わらんわ」
五十嵐も強気だった。
五十嵐が頭上で鉄球を振りかぶった。鎖を握り、力を込めると、遠心力によってぶんぶんと風を切った。
縣も負けじと両手から火炎を放射し、目くらましにする。
五十嵐が鉄球を振り下ろし、縣がそれに火を放つ。――それの繰り返しばかりで、勝敗の決着がつく気がしない。
ごぉぉおお、がきぃいん――と、不快な音が連鎖する。
炎の熱さで、五十嵐の額には汗が浮かんでいた。
――それにしても……こんなに大騒ぎしているのに、よく通報されないな……。
淘汰は周りの住宅の窓を見上げながらそう思った。
もちろん、この辺りの住人が善良な市民なわけがない。彼らも、こういった騒ぎには慣れっこなのだ。
中華街の横に住む人間が、爆竹の音に苦情を出さないのと同じ理屈である。
「ふふふ……なかなかやりますね……」
縣が言うと、
「そういうお前は全然やれてないけどな」
と、五十嵐が言った。
「そんな軽口が叩けるのも今のうちですよ……屍姦主義者」
「…………」
――いやふたつ名がそうなだけであって、別にアタシ自身に死体をレイプする趣味は無いんだぜ?
一瞬突っ込みかけた言葉を、五十嵐はぐっと喉に流し込んだ。
「ならば」
かちっ。
縣はスーツの左腕の付け根の当たりを触り、何かツマミのようなものを指で抓んだ。
それは何かを切り替えるスイッチのようだった。
すると――。
ぐわああああああっ。
「――――‼」
「――――何っ」
淘汰と五十嵐は、目を見開いた。
縣は、右手から上がる火柱に、右手から何か霧のようなものを吹きかけていた――何であろうか。
ガスである。
炎はみるみるうちに青く変わり、温度は千五百度まで上昇していた。
「堕ちた炎光――群青版」
「…………中二病かよ」
五十嵐は縣の格好つけた顔が気に入らなかった。
――ああ……雨でも降ればなぁ……。
余裕気にポージングを決める縣と、呆気にとられる五十嵐の姿を見ながら、淘汰は思った。
ブロック塀の横で体育座りをしながら、彼は上を見上げた。
雲ひとつない、星が綺麗な夜空だった。
次回もどうぞよろしく。