FIVE:メイデン子央
前回に引き続きまた子央ちゃんがタイトルです。
五十嵐律音は獣なので、彼女には人間になってもらいました。
さかきばらねお【榊原――子央】
十七歳。
女子中学生。
ただの恋する乙女。
*
「この部屋、スプリンクラー作動すると思います?」
淘汰は唐突に、カナヘビにそんな質問を投げ掛けた。
はじめは意味が判らず、すぐには答えられなかったカナヘビも、数秒経って、
「いや」
と字面にしてみれば素っ気ない返事。
「おそらくホテル側は奴らの戦法を聞かされていない。――もしもその戦法が火責めだった時にも、“確実に”私たちを殺せるよう、水は放出されないようになっているんだと思う」
カナヘビは、天上に設置された白い円筒状の小型機器を見ながら言った。
「助けを呼ぼうってなら意味ねーぜ」
と、五十嵐は、両手を頭の後ろに回し、疲労を隠さない振る舞いで言う。
「なんせこのホテルもグルだからよ。表立って戦闘に参加するわけじゃないが、それでも、奴らの協力を断ることはできない」
カナヘビも五十嵐も、長時間同じ場所で身動きが取れないのに退屈――というか、窮屈だった。
また淘汰の脱出案も没になったものと早とちりし、もうすっかり諦めかけていた。
ところが、淘汰は
「いえ。それでいいんです」
と、一言。
「奴らがこの部屋に乗り込んでくる前に――脱出しましょう」
*
榊原子央は、すぐにその異変に気がついた。
――燃えてる……?
スコープレンズの向こうで、“カーテンがめらめらと炎を上げて燃えていた”。
煙で窓ガラスは曇り、カーテンの端は既に黒く変色し、歪んでいた。
『おい、何があった。返事をしろ――』
イヤフォンから子央の“ボス”の声が聞こえる。
「先輩……」
『――ん? どうした? 子央』
「燃えてます……」
『……え?』
「標的が部屋で火事を起こしました」
『な……――自害か。とりあえず、お前は赤外線で奴らを監視していろ』
「それが……」
『ん?』
「真っ赤で何も見えないんです!」
そう。
スコープは、何の比喩でもなく、真っ赤だった。
いうまでもないだろう。――カーテンが燃えてしまっているのだから、その高温が壁となって、その奥の温度の動きが判らないのである。
これが淘汰の作戦だった。
――《カーテンに火をつけて、火事を起こします》
――《当然赤外線スコープも火の温度ばかり捉えますから、僕たちの動きが悟られることはありません》
――《その隙に、ドアから外へ逃げるんです》
もちろん、炎が昇ってカーテンが燃え尽き、視界が良好になって通常のスコープでも見えるようになったそのときには、――すでに部屋は蛻の殻であった。
「先輩……――すみませんでした」
『……気にすることないわ』
子央が詫び言を述べると、卯月は出来る限りの優しい声でそう言った。
『それに――次の作戦を今練ってるところだから』
卯月はまるで策士のようだった。
*
「やるなぁ弟子!」
「本当だよ。――将来が楽しみだ」
「いえいえそんなことは……」
この会話は、ホテルの窓のない廊下を、大の大人が(うちひとりは高校生だが)全速力で疾走している際の、その大の大人たちによってなされているものだ。
「まさかこんな作戦が成功するとはなぁ……」
「簡単な穴が、実は奴らにとっては盲点だったりするものだ」
五十嵐とカナヘビは、若干息を切らしながら話している、その間も、両脚は休みなく駆動している。
淘汰は一般人にしては足の速い方なので、彼女たちに追いつくのはそう苦ではなかった。
緑に光る非常口の標識を見つけ、そこの鉄扉の輪に指を掛け、強引に開く。扉の閉まる前に、三人は無駄のないスムーズな動きで、体を中に滑らせて行った。
かんかんかんかんかん、と、けたたましい音が段差を下りる度に鳴るが、気にしない。たまに三足飛ばしをしながら、ものすごいスピードで、緑の鉄の階段を下っていく。非常階段独特の怪しげな雰囲気も、こうも騒がしいようでは、興醒めだった。
「玄関まで下りれば、あとは狙撃される心配はない。――銃弾が届くのと発砲の音がした間の時差から距離を割り出したところ、約1・5キロメートルであることが判った。それだけ離れていれば、周りのビルが邪魔で、ここの建物の根元に弾丸は届くまい」
階段を下りながら(降りながら)、カナヘビの言葉を、五十嵐と淘汰は、逃さずしっかり耳に入れていた。
一階の防火扉を勢いよく開け、ロビーに飛び出した三人。息を切らして汗だくの彼らを見れば、普段ならかなり目を引いたことだろう。――だが、今日は違った。
玄関前にはなぜかスマホを構えた野次馬が押し寄せ、どこかで消防車のサイレンも鳴っていた。
「火事を聞きつけて見物しに来たのか……迷惑な集団だ」
よって、五十嵐一味は、火事から逃げてきた客だと勝手に勘違いされたようで、「大丈夫だった?」と、近くの好々爺に労いの言葉を掛けられてしまった。
とにかく、駐車場へ向かおう。
三人が同時にそう思い、人混みの中へ突っ切っていった。
ホテルの火事現場にカメラを構えるのは、どれも噂好きの主婦や暇そうな大学生ばかりだった。何か面白いものでも見たかのように近くの人間と談笑している。
――不謹慎な奴らだ。
五十嵐は殺人鬼らしからぬことを心の中で呟いた。
淘汰が上を見上げると、火事の規模はより大きく広がっていた。
が。――問題はここからだった。
「師匠!車がありません!」
「ああん?」
淘汰が叫ぶので行ってみると、彼の言う通り、GTRがなくなっていた。
「な、何でないんだ!」
「きっとオリオンの集団だろう……」
ハンチング帽の鍔の位置を整えながら(思えば室内でもずっと被っていた)、カナヘビが呟く。
「おそらく狙いはお前が言う売春少女――」
「車ごと拉致誘拐されたのか」
五十嵐が叫ぶ。
すると、淘汰はアスファルトの上にメモ書きが貼り付けてあるのを発見した。
「師匠、見てください!」
「何だ!」
メモ書きを手に取り、五十嵐に渡す。
そこには、達筆な筆文字で、
『桜渕京子は誘拐した。返してほしければ明日夜十二時に純星学院まで来い。以上』
とだけ書かれていた。
*
翌日の昼頃。
家にいても淘汰は桜渕京子のことばかり気掛かりだった。
――あのとき良心でつい借金をしてまであの娘を買ってしまったが、まさかこんなことになるとは……
流石の淘汰も、そこは責任を感じているようである。
それもそうだ。元はといえば京子を車に置いていったのは彼なのだ。
所有物の管理は主人の仕事だ。
いくら思い悩んだところで意味はないと思い、淘汰は気分転換に散歩でもしようと思った。
玄関で靴を履き替え、
「師匠、ちょっと出掛けてきます」
「おう、あんまり遅くなんなよ」
と、本当の師弟のような会話をした。
――否、本当の師弟なのか。
さすがに昼間から卑猥な宣伝文句が飛び交うなんてことはなく、昼の歓楽街はヤンキーが道端でしゃがんで煙草を吸っていることを除けば、基本的に平和だった。
しばらくぶらぶらと歩いていると、歓楽街通りを抜け、庶民の住宅地が立ち並ぶ安全地帯に出た。
――たまには違う道を通るのもいいか……。
と思い、淘汰はあえて住宅街の裏道を通った。
十五分ほど歩いただろうか。
淘汰はレンガ造りの大きな洋館のような建物を発見した。よく見ると図書館である。
――へぇ……こんなのがあったんだ。
素直に感心した。
自転車置き場からスロープを歩き、段差を上がる。自動ドアの前に立つと、もちろん扉は自動で開き、暖房の利いた暖かい空気が流れ込んできた。
ポケットに手を突っ込み、奥の本棚が密集する所までこつこつと足音を立てながら歩いて行く。
本棚から適当に一冊抜き出して(タイトルは犯罪心理学の法則)、黙読コーナーの長机の横の椅子を引き出し、腰を下ろす。
思わずため息が出てしまう。
ふと横に座る少女を見た。
艶のある長い黒髪が特徴的な、ブレザー姿の女学生。顔立ちが整い、色が白い。手には小難しそうな分厚い英文書をもっており、時折頁をめくる。
特に大した理由もなく、――せめて理由を挙げるならば『美人だったから』という、どことない、何となくな衝動に駆られ、淘汰はその少女に声を掛けた。
「あのさ」
「 …………」
あからさまに怪訝そうな顔をされた。
「何の本読んでるの?」
「あの……ナンパなら間に合ってます」
「教えてくれてもいいじゃん」
「…………シェイクスピアだけど……」
すると淘汰は、眉をひそめ、
「何それ? スピアなんて果物があるの?」
別にシェイクスピアを知らなかったわけではない。
別にシェイクスピアを謎の果物スピアをミキサーした飲み物だなんて思っているわけではない。
考える前に、口が動いており、二秒後に後悔した。
「へ? す……すぴあ?」
案の定その少女は目を丸くしていた。
「…………あ、いや……」
――やっちまった――‼‼
淘汰は心の中で自分を百回殴った。
久しぶりに女子と喋ることが出来、少しおかしくなってしまったのだろう。初対面でいきなり下らない駄洒落を口走ってしまった。
「…………――っふ」
くすくす、と、その少女は口を押さえながら、静かに笑った。
「え?――」
今のギャグ、そんなに面白かった?――と、困惑する淘汰。
「あ、あの……」
「え?あ、――ごめんなさい、私、あんまり詰まらなすぎるから――あっはっは」
「…………」
「はぁ、はあ……」
ひとまず落ち着いた様子で、顔を淘汰に向き合わせた。
「私は榊原子央。あなたは?」
「あっ、え?」
急に名前を訊ねられ、淘汰は戸惑いながらも、
「八角淘汰……です」
「そう。――じゃあ八角君。よろしく」
「…………」
差し出された右手。
まだ会って三分も経っていないのに。
――この少女、まるで世間知らずだな……。
的外れにもほどがある、むしろその言葉は自身へ向けるべきではないかという、淘汰の心の呟き。
もちろん彼は、差し出された右手を跳ね除けられるほどに、非情ではなかった。
「よろしく。榊原さん」
「さん付けはいいよ、なんか余所余所しいし」
「――じゃあ、榊原、よろしく」
「こちらこそ、――八角君」
こうして、捨て子少年と伏兵少女は、奇しくも戦闘の数時間前に、お互いの正体を知らぬまま、出逢ってしまったわけである。
*
子央は、淘汰に、色々なことを教えてやった。
自然のこと。科学のこと。政治のこと。経済のこと。映画のこと。海外のこと。
それらすべてを、淘汰は興味深そうに聞いていた。
同時に、子央は、淘汰から教わってもいた。
彼の人となり。彼の生い立ち。彼の流儀。彼の哲学。彼の趣味。彼の趣向。
そこから、子央は学ぶこともあったのだろう。
実際、このとき、子央は淘汰に恋をしてしまったのだろう。
こんな平和で平凡な会話を、おそらく生まれてからしたことが無かったためだ。
淘汰が子央と別れて帰路についたときには、すでに日は傾き始めていた。それだけ長時間話していたということだろう。
貸ビルの前に着くと、五十嵐律音が、黒いスーツに身を包み、淘汰を待ち構えていたように壁に寄りかかっていた。
敵に真剣勝負を挑むときは、正装で行くというのが彼女の流儀だった。
臍を出した身軽なものではなく――女性会社員のようなウーマンスーツ。
「遅かったな、弟子」
顔を背けたまま五十嵐が言うと、
「すみません、師匠」
と淘汰が言った。
五十嵐は、重たい重心を壁から地面に移動させ、直立した。
その目は、まるで獣のよう。
「それじゃ――殺戮開始」
読んで頂きありがとうございます!
引き続き次回も!