人類滅亡と百合
「二人の女を除いた人類が滅亡し幾星霜──二人は今日も、誰もいない街で以前のような生活の真似事をしていた。律儀に高校へ通い、ありもしない授業を受け、居もしない友人達と談笑しながら……」
「誰に説明してんだよ」
相棒の紫樹が隣からぞんざいな言葉を投げてくる。今私達は『下校中』だ。私は彼女のツンとした顔を眺めながら答える。
「再確認っていうかさ。未だに実感湧かないし」
「……あぁ」
彼女は納得したように黙った。のも束の間、紫樹は再び口を開く。
「奈々、このあとうちに寄らね? どうせ暇だし」
「うん、行くイク」
「なんでカタカナ」
小都会の声なき喧噪を縫い、徒歩十分、紫樹の家に到着する。彼女の『親』は共働きの設定なため、この時間は名実ともに紫樹と二人きりだ。
「はいただいまっと」
「おじゃましま~す」
玄関を開ける相方に続いて家に入る。他所の家特有の形容に困る匂いが鼻をくすぐった。
案内されるままに廊下を進み、階段を一階分上がり、紫樹の部屋に着いた。何度か来たことがあり、もうお馴染みとなった風景だ。
「ふーっ……五月ってなんでこんな暑いんだろうね。明らかに夏って区分じゃねーのに」
部屋の主はベッドに座り込み、ただでさえ気崩したシャツの胸元をはだけさせてパタパタと扇いでいる。
私は躊躇い無く近づき、彼女に迫り、勢いよくベッドのシーツに手を振り下ろした。私はこれを、壁ドンならぬベッドンと名付けたい。
「紫樹ぃ~? 誘い方が露骨過ぎやしないかな?」
「えっ……そんなつもりじゃなくて」
強気な性格に似合わずビクリと狼狽する様子が可愛くて、自然とキスを仕掛けた。
「いやいや、エロいのは結構なことだよ。それに私達、遠慮なんかいらない仲でしょ」
「……そうだな」
余裕を取り戻した紫樹は私の顔を撫でてきた。その手は滑るように髪へと這っていく。
「奈々……髪伸びた?」
「えっ」
今度は私にビビる番が回って来た。来なくていいんだよ。
「そういえばそろそろ切る頃かも……じゃ、じゃあ切ってくるね」
「待て待て」
学校指定のバッグを背負い直しかけたところで引き止められた。
「別にそれぐらいの誤差なんて全然気にならないよ。来週にでも切ればいい」
「そ、そう?」
私はバッグと胸をなで下ろし、座布団に座り込んだ。
「そういえば『母さん』が友達からケーキもらってきてくれたんだ、ちょい持ってくるわ」
「おー、ありがと」
「部屋漁んなよ?」
「漁られたら困るの?」
「漁る気なのかよ」
「冗談冗談」
躊躇いがちに私を一人残し、部屋を去る紫樹。
好きな人の部屋を物色するという誘惑は確かに振り払い難い。でも今はそんな感じの気分じゃなかった。
私は改めて、自分が体験している状況の不可思議さに思いを馳せた。
私達は限界まで愛し合ってみる。他の全ての人間を滅ぼして。
でも、実際に目指してみるとずいぶん息苦しいものだ。わずかな粗も許されないように感じる。今さらだけど、ここまでする必要があったのだろうか。
そもそも愛し合うことを錬磨するのは幸せな気分で呼吸をしていたいという欲求なのに、それ故に息詰まるような重圧につきまとわれざるを得ないって、どういう原理だ。
この世ってほんとに色々と出来が悪いな。もしID論が真理だとしたら創造主はクソど無能に違いない。
いるかもわからない対象へ呪詛をかけているうちに紫樹が戻ってきた。二人分のチーズケーキと紅茶を乗せた盆を持っている。
「おまたせ」
「んっ、ありがと」
私達はケーキを食べながらとりとめのない雑談に興じた。同じ学年の紫樹という女の子や、同じ学級の奈々という女子について……。
「そのときあんたは設定上の存在でしかない仮想友達と一緒に飯喰ってたんだよ。あたしを放っておいてさー、信じられる?」
「えー、そうだっけ? ごめんごめん、これからは毎日一緒にお昼食べようね」
「……うん」
一瞬青くなった私と対照的に、紫樹は赤くなる。そんな彼女へ私は反撃する。
「ところで私調べによれば、最近デートに誘う側の比率は私に偏ってるんだよね。もしかしてもう私のことは──」
「え、待っ、そうだった? ごめん、次はあたしが誘うから」
私は薄く笑み、調子に乗った。
「その前に私が誘っちゃうかもよ? 次っていつ?」
「……今でしょ」
聞いたことのある台詞に紅茶が逆流した。
「んぶぐっ……げほっ、今の素でわろた」
「そんな笑わなくても……鼻から紅茶垂らす奴なんて初めて見たわ」
背中をさすられ、私の喉は落ち着いてきた。
「じゃあ、今誘うよ。次の週末──」
次の週末、私達は水族館を訪れた。
よく晴れた土曜日だった。春が過ぎた途端にすっかり定着してしまった夏のような暑さから逃げるように、私達はさっさと館内へ入る。
休日だけあり館内は仮想人間でいっぱいだった。一応ぶつからないように配慮してやりながら歩く。
「順路はこっちだね」
私は紫樹の手を引く。じんわりと青い光が滲む空間を進み、水槽を見て回る。
「これ何?」
紫樹が円形の小さな水槽を覗き込んでいた。
「よく見てみ」
「? ……ぅわっ」
そこにいるのは細い海蛇だ。
「爬虫類が見たくて水族館に来たわけじゃねーんだけど……」
「私は蛇にビビる可愛い紫樹が見れて満足だよ」
「……早く進も」
闇と青い光が邪魔でよく見えないが、彼女はきっと露骨に顔を赤くしていることだろう。
魚類に詳しくない私には述べることのできない名を持つ魚たちが好き勝手に泳いでいる大きな水槽を眺めながら、ふと思った。
「ねえ。人間が滅亡したのっていつだっけ」
「ん? ……あたしと奈々を除いてだけど、確か三ヶ月近く経ってるはず」
「ふむ。四半年も人間の世話無しでこの子らよく平気で生きてんね」
「……それぐらい保つもんなんじゃね? それか共食いしてるとか?」
やはり魚類に詳しくない私には実際のところはわかりかねる。
「まっ、別にいいや。次行こ次」
水槽には特に魚を紹介するプレートもなく、やはり魚類に詳しくない私は魚たちの名を述べることはできないが、とりあえずヒトデやクラゲなどの定番は見て回った。
食事としての魚介類はグロくて食わず嫌いな私だが、見る分には楽しめる。
ふと、魚ではなく仮想人間たちに目が向く。
家族連れも多いが、同性同士異性同士問わずカップルも多い。彼らはただ一組として、私達のように息詰まる様相を呈してはいない。心から笑い合い、純粋にこの時間を楽しんでいる。
でも、ロクに深く考えずに恋愛という業に足を突っ込めば必ずツケは支払わされる。彼らも今は幸せだろうが、いずれ喧嘩別れや自然消滅の道を辿るだろう。
……いや、本当にそうだろうか? 絶対にそうだと言いきれるだろうか。
「奈々?」
私自身の恋人が心配そうにこちらの顔を覗き込んできた。
「ごめん、何でもないよ。あ、そうだ──」
私はパンフレットを取り出す。
「そろそろイルカショーが始まるよ。せっかくだから見てこうよ」
向かったスタジアムは仮想人間でいっぱいだった。こういう場の雰囲気は何故こうもポップコーン欲をそそるのか昔から知りたかったんだ。
開始時間になると係員が現れ、イルカを操る。前列の方の客は貸し出されたレインコートを着用している。私達は後列から悠々と眺める派なので濡れる心配はない。
水面を跳ねるイルカを見ながら紫樹が呟く。
「イルカって何気に可愛いよな」
「性格に似合わず何気に『可愛い』って言葉よく使う紫樹も可愛いけどね」
「は、はぁ?」
紫樹がもぞつくのが横目でもわかった。いっそイルカショーより紫樹ショーの方が見たい。
あ、それはすでに結構見てるか。主に夜に。係員は私だ。
『皆さん、もう一度盛大な拍手を!』
仮想係員が観客に呼びかける。仮想客たちはそれに従い、一部からは口笛まで聞こえてくる。欧米か。
順路の最後にはお土産売り場があり、ここを通過しないと出口に着けないようになっていた。そんなことしなくてもお土産は買うというのに。
銀のイルカを模したストラップが気に入り、紫樹の分と合わせて二つ購入した。
「はい、これ紫樹に。私とお揃いだよ」
それを渡すと彼女は嬉しそうに表情をぐにゅつかせる。
「……ありがと。実はあたしも奈々の分買ったんだ。気に入るといいけど」
手渡されたのはクラゲのぬいぐるみだった。
「やっぱセンス可愛いわ。ありがとね」
「……可愛い言い過ぎ」
所在なさを発散するようにぬいぐるみを抱きしめる彼女を見てつい追撃したくなったが、ここは手を引いてやることにした。
文字通り手を引いて水族館を出る。館内でいい感じに冷えた体に落日の温度が心地いい。
「ねえ、紫樹」
いま私が呼んだのは、奇跡的に私の好みに合致した女の子の名前だ。
不良っぽい外見とそれに似合わぬ隠れヘタレな気質。そして同性を恋愛対象とする性的所属。そしてさらに運のいいことに、彼女にとっても私は好みの相手らしい。
だが幸運の施しは半端に途切れていた。
この世の人口は七十億。この中で一番好みに合致し好きになれる対象と出会える確率などないに等しい。加えて歴史上、そして未来の、現存していない可能態含むあらゆる人間像を想定したらその数にはどういう単位がつくのだろう。その中で最も好きになりうる相手とちょうど現実に交際できる確率にはいくつの0のあとにやっと.1が顕現することか。妥協無き恋愛。それは限りなく不可能に近い。私はかの仮想人間たちのように適当な相手と付き合い、自然消滅したことがある。だから無謀を承知で、妥協という間隙を少しづつ埋めていくという実験に挑戦した。私と紫樹は互いに限界まで好みの相手になり合おうというわけだ。最初の数歩は幸運が手助けしてくれたことでやる気になったが、やはり無謀、いや不毛であることを、今日思い知らされた。
私は充分紫樹が好きだからもういい。もう心置きなくイチャつきたい。恐らく彼女も同じだろう。
「そろそろ人類を灰の中から蘇らせてやってもいいかも」
「え? って……」
「もう互いの人格をいじり合うのはやめて、普通に付き合おっか」
やはり紫樹も私と同じ気持ちだったか、晴れ晴れとした表情を浮かべる。それもそうだ。そもそも彼女は哲学的実験に興味はないし。
人類は滅んでなどいない。約三ヶ月の間、私達の脳内において滅んだ設定にされていただけだ。徹底的に互いを見つめ合うために。得たものは一応あったかな。
実際、再び人類が喧噪を取り戻した大地では、私と紫樹はその辺のカップルより強固な繋がりを持てたように思える。
ま、結局は価値観なんて人それぞれという真理に行き着きはするのだが。これは一組の恋人の物語だ。
【了】