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1 彼女に会うまで

 この世界は大きな家で、火事なんだと思う。

 火は徐々に燃え広がっていて、しまいには僕たちを焼いてしまう。

 けれどほとんどの人は家が燃えていることに気づいていなくて、みんなそれぞれいろんなことをして遊でいる。

 本を読んだり、音楽を聴いたり、スポーツをしたり、家族を作っておままごとをする人もいる。

 中には気づく人もいて家から逃げ出そうとするけれど、窓もドアも開かなくて逃げられない。

 火は決して消えることはない。この家はそういう風にできている。

 他の人に火事を知らせても、自分達の遊びに夢中で誰も信じてくれない。

 彼らはなんて幸福なのだろうと思う。最後の一瞬まで迫りくる火の手に背中を向け続ける人は目いっぱい幸福に死ねるだろう。

 一度気が付いてしまった人はどうすればいいだろう。

 もう今までと同じようには遊べない。どこにも逃げられない。

 気がふれてしまう人もいるだろう。黙って静かにその時を待つ人もいるだろう。

 どうしようもない理不尽だ。私たちはあまりにも無力でこの理不尽をどうすることもできない。

 怒りも悲しみも、過去も未来も現在も、僕たちのすべてが、やがては火にくべられて灰になる。

 その中で僕はただただ絶望した。

 家は刻一刻と焼け落ちていく。燃え盛る炎にいつの日か全身を包まれる自分を想像する。

 せめて少しでも楽に死なせてくれればいいと思いながら。


 午前7時、定刻通りに目覚まし時計が暴れまわる。

 僕は寝ぼけたまま手探りでアラームを止めて、渋々ベッドから起きだす。

 鉛を詰め込んだように頭が重い。

 一晩中かけて作った布団とシーツの間の温もりに、勇気をもって別れを告げる。

 また今日が始まってしまったことに、気が重くなる。

 僕は学校に行かなくてはならない。

 日の光を浴びて目を覚まそうと思いカーテンを開ける。

 空はどんよりと曇っていて小雨が降っているようだった。

 灰色の絵の具を思い切り空に向かってまいたような色合いだ。

 ここしばらくの断続的な雨のせいで空気は湿っていて、不快感が込み上げてくる。

 最後に日の光を浴びたのはいつだったろう。

 思い出せないくらいずいぶん前だったような気がする。僕の中のセロトニンが死滅していく。

 9月に梅雨が来るなんてことが過去にあったのだろうか。

 朝食を作るのが面倒になってやめてしまってから、生の食パンを一枚だけかじるようになった。

 すっかり湿気てしまっていて、とてもおいしいとは言えなかったけれど、無理やり腹に詰め込む。

 いつのまにか食事をすること自体が面倒になっていた。

 何もおなかに入れなくても一日動けるのであれば、僕は食事をとらないだろう。

 実家にいたとき、朝起きる頃にはすでに母が朝食を用意してくれていたのを思い出して、一人暮らしの面倒さを実感する。

 ニュースは今朝も連続的な雨の記録を更新したことを伝えている。

 制服に着替えて、玄関でローファーを履く。

 左手に傘を持って玄関扉に手をかけた僕は億劫になる。

 強烈に自室に後ろ髪をひかれる思いに駆られるが、ドアノブをしっかりと握りなおす。

 僕は学校へ行かなくてはならない。

 もう一度心の中で唱えて、一つ息を吐きだしてから扉を開けた。


 高校進学を機に実家を出た。

 僕は家族とは仲が良くない。

 いつごろからか家族と自分との間に妙な隔たりを感じるようになった。

 姉が一人いて、両親が姉のことばかり可愛がっているような気がして、幼心に疎外感を感じてしまったのが始まりだった。

 姉は昔から人懐っこくて周囲の人間に愛想が良かったのに対して、僕はおとなしくて内向的な子供だった。

 食卓を一緒に囲んでいても自分だけが浮いているような感じがしていた。

 俗にいう、思春期特有の反抗期だと思う。

 派手な反抗はしなかったけれど、あまり家族とは口を利かなかった。

 はじめのころは、姉にばかり構う両親に対して拗ねて見せていただけのように思うが、時間を重ねるにつれて、家族に対して冷ややかな思いを持つようになっていった。

 父も、母も、姉も、拒絶するような態度の僕に対して、一定の距離を保ち続けた。

 時間が経てば、そのうち収まると思っていたのかもしれない。

 しかしそれから次第に僕は自分から家族を遠ざけるようになって、溝はますます広がっていった。

 高校受験のとき、遠くの高校に通うようになれば、家を出て家族から離れられると思い、うんと遠方の学校を受験して、晴れて合格した。

 しばらく離れて暮らせば僕の家族に対する疎外感も変わるのかもしれなかった。

 両親もあっさりと一人暮らしをすることを許可してくれて、僕は実家を出た。

 別れを惜しむほど深くかかわった友人はいなかった。

 それからささやかな仕送りをもらいながら、学校に通った。

 夏休みも、冬休みも、春休みも、僕はなにかと理由をつけて実家に帰らなかった。

 距離を置いて、しばらく会わなくなることで、両親のことを他人のように思えるようになっていった。

 僕はとても素行のよい生徒だった。

 何か問題を起こせば、家族と関わる機会ができてしまうからだ。

 赤点を取ったことはないし、誰かと喧嘩をしたこともない。

 級友や教師からすれば、個性のない、限りなく透明な人間に映っていたと思う。

 ともすれば、そこにいることを忘れてしまうような。

 そうして僕は高校二年になった。まだ反抗期はおわっていない。

 時々電話がかかってくるけれど、僕の対応はそっけない。

「学校はどう?」

「楽しいよ」

「友達はできた?」

「できたよ」

「何か必要なものがあったら言ってね」

「わかった」

 適当に返事をして早々に通話を切った。

 通話時間が3分を超えたことはないと思う。こちらから電話をかけることもなかった。

 こうして僕は完全に家族から孤立した。

 寂しくはなかった。収まるところに収まったような、妙な納得感があった。

 僕は近くに家族がいないことに安心していた。

 一人暮らしをしている人は、家に帰ったときに誰もいないことがすごく寂しく感じるということをよく耳にするが、僕はそうではなかった。

 家に誰もいないことに心底安堵した。

 僕は一人が好きなのかもしれなかった。


 傘に雨粒が当たる音が僕の鼓膜を震わせている。

 足取りは鎖で鉄球をつながれた囚人のように重い。

 足元で跳ねる雨粒がズボンの裾を濡らして、僕の総重量を増やす。

 梅雨時のように蒸し暑く、背中をいやな汗が伝う。

 学校は自宅のアパートから20分ほど歩いた、国道沿いの道を一本入ったところにある。

 自転車を使うほどの距離でもないため、毎朝歩いて学校へ行く。

 傘を少しずらして僕を押しつぶそうとする厚い雲を見上げる。

 どこまでも隙間なく丁寧に敷き詰められた厚い雲は、街並みを青白く染めている。

 この町は都市部に近いところにあって人口も多い。

 人がみっしりと詰まったマンションが立ち並んで空を侵そうと手を広げている。

 視線を戻すとたくさんの人がそれぞれの目的地に向かって速足で歩いている。

 変わらない風景に辟易とする。

 学校に近づくにつれて重力が増していくような感覚を覚える。

 重力に逆らって、左足を出した次に右足を出すことを意識する。

 水中で歩いている状態に近い。

 ストロークが軌道に乗ったことを確認してから、慣性に身を任せる。

 人は普段無意識にしていることを、意識的にしかできなくなることがあると思う。

 僕はひどく気分がふさいでいるときにそうなる。

 特別何かがあったわけではないけれど、僕は慢性的に死にたがっている。

 プラスもマイナスもない平坦な日々に飽き飽きとして。何の保証もない将来に不安を感じて。

 あるいは生きる意味や幸せについての哲学的な煩悶のために。

 具体的な理由は思い当たらない。

 解決すべき問題がないからこそ、苦しいのかもしれなかった。

 増してゆく重力に耐えながら足を動かしているとようやく学校が見えた。

 悠々とたたずんでいて、僕を威圧している。

 校門を通り過ぎたところで、ふと気配を感じて振り返る。

 今日も死神は僕の後ろで自慢の鎌を構えている。


 人はどのようなときに、死にたいと感じるのだろう。

 人間関係がうまくいっていなかったり、金銭的に困っていたり、虐待やいじめを受けていたり、仕事がうまくいっていなかったり。

 いろんな理由が挙げられるけれど、多くの人はそれらの理由が複合的に絡まりあって、ただ「なんとなく」死にたいと感じるようになるのではないかと思う。

 そして辛い現状から最も手っ取り早く解放される手段が死であることを、僕らは本能的に理解している。

 遅かれ早かれ訪れる死を受け入れるプログラムを人間は生まれ持っている。

 さらには死ぬことでは根本的な解決にならないこともまた理性的に理解している。

 僕らは死後の世界を認識できないからだ。

 本能と理性との間で僕らは精神をすり減らす。

 廊下を渡って僕は自分の教室に入る。

 挨拶を交わす友人はいない。

 自分の机に迷わず向かって腰を下ろして、教室を見渡す。

 同年代の人間がぽつぽつとグループを作って、教室内にひしめきあっている。

 彼らの立てるがやがやという雑音は僕を不安にさせる。

 僕は大勢の人間の中にいると、自分の存在が薄くなっていくように感じる。

 人数が多ければ多いほど僕は薄くなっていく。やがては消えてしまうのではないかと思う。

 そうして漠然と死にたくなる。僕は学校においても疎外感を感じている。

 これも思春期特有の思考傾向の一種なのだろうか。

 鞄から文庫本を取り出して、始業の時間まで読む。

 文字を目で追う作業に没頭することで、周囲の人間を視界と思考から追い出す。

 視界の隅で、日直が黒板消しを使ってチョークを薄く塗り広げていた。


 歴史を担当する教師は破滅的に眠気を誘う抑揚のない低音で、授業をしている。

 僕はひとつあくびをする。

 どうして僕たちは毎日学校に通って授業を受けているのだろう。

 合理的に考えて、それは将来の自分の生活をよりよくするためだ。

 勉強をしていい大学へいって安定した就職先を確保することが、今の日本の最も理想的で安定した個人の生存形態だからだ。

 石器時代では、狩りがうまい人間が安定した生活を送れていたように、資本主義の現代では収入の安定している人間がよりよい生活を送れるとされている。

 お金を持っている奴が強い。

 そういう常識が今の日本にふんぞり返って横たわっている。

 大半の人間は大きい常識の流れに身を任せて生きているのだと思う。

 けれど僕たちはいずれ死ぬ。

 その常識は明日も明後日も、数年後も自分の命があるという前提で存在している。

 明日にも大きい地震が起きるかもしれないし、ミサイルが飛んでくるかもしれない。

 どれだけ安定した生活を送ったところで、最後には跡形もなく崩れ去ってしまう。

 結局は崩れてしまう積み木を一生懸命に積み上げているように思える。

 最後にはとっておき意地悪な奴がやってきて容赦なく蹴り倒してしまうのだ。

 僕にはその悪党が明日にでもやってくるような気がして、何事に対しても意欲を失ってしまった。

 今日も教師のありがたい授業は僕の耳をつるりと通過する。

 僕は手のひらをじっと見つめる。


 最後の授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。

 担任のホームルールを適当に聞き流して、僕は席を立って教室の扉に手をかける。

 級友たちはめいめいに、顔を突き合わせて互いの唾を飛ばしあって、これからの予定を話し合っている。

 同じような声色で、同じような表情で、同じような内容を。

 僕はいつも、授業が終わるとすぐに帰る。友人はいない、部活にも入っていない。

 入学してからしばらくは数人の友人がいたが、うまくなじめなかった。

 つまらない話題に話を合わせるのは面倒だったし、愛想笑いもうまくなかった。

 当たり障りのない話題を選んで、ただ無為な時間を共有することに意味を見いだせなかった。

 なによりも楽しくなかった。

 彼らは社交的な仮面をつけて、本当に思っていることを表に出さないようにしているように見えた。

 あるいは彼らが、僕を見たときにも同じようなことを思っていたのかもしれない。

 僕らはみんな社交的な自分を演じていた。

 そうして次第に僕は彼らから距離を取るようになっていった。

 僕という存在はどうしたって集団にとって、異物であるように思えた。

 以来、友達はいない。

 扉を開けようとしたところに、珍しく声をかけられた。

「あの」

 隣の席の松本だ。しわのない制服と、整えられたつややかな髪に清楚なイメージを持つ。

 振り返って要件を尋ねる。

「これからみんなで、遊びに行こうって話してたんだけど、一緒にどう?」

 彼女の少し離れた後方から、これから共に遊びに行くのであろうクラスメイト達があきれたような視線を彼女に向けている。

「ごめん、用事あるから」

 もう表面的な付き合いはうんざりだった。

 彼女はわずかに唇を引き結んで、うつむいてから「そっか、また今度ね」と言った。

「ああ」

 そして僕は教室を去る。左足を出して、右足を出す。

 遠ざかる教室から話し声が聞こえてくる。

「あいつは自分のことを特別だと思ってるんだろうよ。自分はこいつらなんかとは違うって。ほんと偉そうだよな」

 ああ、その通りかもしれない。

 僕の肥大した自意識は他人を見下しているのかもしれない。

 そんなことないと思うよ、という松本の声が微かに聞こえた。

 誰に何を言われようとかまわなかった。どうでもいい。

 廊下の窓の外に目を向けると、いまだに小雨が降り続いているようだった。

 雨はまだ止む様子がない。


 寄り道もせずにまっすぐに自宅のアパートに帰る。

 玄関扉を開ける。誰もいない空間を眺めて、安堵のため息をつく。

 面倒な食事をカップ麺で済ませたあと、冷蔵庫から缶ビールを出してきてちびちびと飲みながら本を読んで時間が過ぎるのを待つ。

 本が好きなわけではない。

 僕が知る方法の中で最も時間をつぶすのに効果的で、経済的だからだ。

 時々開け放した窓から顔を突き出して煙草を吸う。肺を煙で満たすと不思議と落ち着く。

 僕は毒素を積極的に吸い込む。

 眠気が訪れれば、ベッドに横になって目を瞑る。

 意識が沈むまでの間にいろいろなことを考える。今日起きたことを振り返る。

 松本が声をかけてきた。彼女は僕に同情しているのだろうか。

 傲慢だと思う。僕を不幸だと決めつけて、彼女の思う「良い形」を僕に押し付けようとしている。

 それに彼女にも仮面が見えた。

 友達のいない人は、不幸だから、優しくするものだという、常識の仮面に操られているような気がした。

 友人で僕の虚無は埋められない。万人に常識が通用するわけではない。

 幸せとは何だろう。

 友人が多いことが幸せなのだろうか。家族を持つことが幸せなのだろうか。

 どちらも僕には適合しなかったものだ。僕は僕の幸せを知らない。

 僕は僕の中の虚無を見つめ続ける。

 今日も一日を振り返って死にたくなる。僕は死に取りつかれている。

 心臓を針で刺されるような鋭い痛みが走る。

 下腹のあたりの内臓を思い切り握りしめられたように吐き気がする。

 意識して大きく鼻から息を吸い込んで、口から吐き出す。

 そうして毎回、決まりごとのようにつぶやく。

「クソみたいな一日だった」

 雨はまだ止まない。


 僕は時々深夜に徘徊する。

 人がすっかりいなくなった街を歩いていると、落ち着くからだ。

 僕は僕の輪郭を濃く感じることができる。

 厚い雲がかかっていて暗い夜だった。チカチカと点滅する外灯に虫が群がっている。

 昼間人間の立てる音はすっかり消え失せて、静寂の中にマフラーを外した原付のエンジン音がこだましている。

 夜の闇を外灯が照らし出すことによって、いたるところに化け物のような影が生み出されている。

 そのうちの一匹が今にも僕の喉笛を掻き切ってしまうように思えた。

 いつものコンビニに入ろうとする。自動ドアが反応しない。

 僕は機械からも疎外される。

 いつものことなのでそのまま待っていると、「やあ、今日も絶好調だね」と言って、中から店員のササキさんが開けてくれた。

 彼女が近づくだけであっさりと開く。

「ほんとに不思議だよね、この自動ドア、君にだけ反応しづらいんだよ」

「体質だから諦めてる」

 僕は何故か自動ドアに嫌われている。

 普通に開くこともあるが、ほとんどの場合反応してくれない。

 すべてのコンビニが手で開く扉になればいいと思う。

 開けてくれササキさんに「どうも」と断って、店の奥にある冷蔵飲料のコーナーから缶ビールを2本頂戴して、レジに持っていく。

 缶ビールをレジに置いて、たばこの銘柄を言おうとしたけれど、すでに用意してくれていた。

 僕は必ず缶ビールを三本とわかばを一箱買う。

 特にこだわりはなく、どちらも一番値段が安いという理由からだ。

 ササキさんは「ほどほどにしときなよ」と言いながらバーコードを読み取った。

 レジの脇にあるタッチパネルの20歳以上と書かれている部分をタッチする。

「あてはいいの?」

「結構です」

「ねえねえ、こないだサイエンス誌を読んだんだけどさ」

 暇を持て余した佐々木さんはいつものように構ってほしそうに話を振ってきた。

 深夜のコンビニには客が少なく、今は僕とササキさんしかいない。

 バックヤードで別の仕事をしている同僚もいるだろうが、佐々木さんはお構いなしだ。

 眉間にしわを寄せて、とても心配そうに佐々木さんは続ける。

「偉い人が長い間研究して、こないだようやく発表したんだけどさ、どうやら未成年のうちにお酒を飲んでると、語尾がアルになっちゃうらしいよ」

「へえ」

 僕に誤った知識を吹き込んでお酒を辞めさせようとしているらしい。

 適当に返事をして、会計を済ます。

 ササキさんはため息を一つ吐いて「つれないねえ」と言った。


 僕は夜眠れないときに起きだして、酒とたばこを買う。

 きっかけは路上で酔っ払ってうずくまっている人を見た時、とても羨ましく思ったことだった。

 酔いつぶれた彼らは、電柱に向かって怒鳴り散らしたり、他人の家の玄関先で眠り込んだり、

 道の端に吐瀉物をまき散らしたりしている。

 彼らは何にも考えていなさそうで、僕には幸福そうに見えた。

 アルコールの力で暗い思考から解放されるのかもしれないと思った。

 初めてのお酒はコンビニで買った。

 奥の冷蔵飲料のコーナーから五本ほど、適当に安い酒をつまみ出してレジに持って行った。

 自分がどの程度飲めば酔うことができるのかわからなかったからだ。

 年齢確認を求められるようなら、そこで諦めてもよかった。

 ササキという名札を付けた大学生くらいの女の人は、一瞬驚いた表情をした後、何も言わずにレジを通した。

 同情するような目をしていたように思う。

 僕のように酒を買いにくる未成年もそう珍しいものではないのかもしれない。

 自動ドアが開かずに突っ立っていた僕に近づきながら彼女が言ったことを覚えている。

「辛いんだね」

 コンビニを出て、近くの公園で腰を落ち着けて、ビニール袋から一番度数の低いビールを取り出す。

 幸福そうに見えた人々の真似をするなら、外で飲んだ方がいいような気がした。

 プルタブに指を引っかけて押し上げると、プシュッという小気味の良い音がした。

 そしてちびちびと胃に流し込んだ。

 ゲロのようなとてつもなくまずい味がしたが、酔えるのならかまわなかった。

 幸い僕はお酒に弱かった。

 半分ほど飲んだところで、心臓が普段の倍ほどに脈を打って、顔に血が上ってくるのを感じた。

 思考に靄がかかって、その時は何も考えずに、漠然とした開放感を味わっていた。

 ふわふととして少し心地が良かった。

 完全に暗い感情を振り切ることはできなかったけれど、ある程度軽減することはできた。

 一杯と半分を干したあたりでガンガンと頭が痛みだして、強烈な吐き気を催した。

 胃の中でカップ麺とお酒とをブレンドした液体を公園の茂みにぶちまけた。

 せり上がってきた胃液が喉を焼いた。胃が引きつってひくひくと痙攣している。

 そこからはただひたすらに気持ちが悪くて不快だった。

 ゲエゲエと胃を空っぽにし終わってから思う。

 これは幸福の残りかすだ。

 少しの間辛いことを引き離すことができるけれど、またすぐに追いつかれる。

 今の僕は幸福に見えるだろうか。

 幸福そうに見えた彼らは、お酒に逃げる不幸な人たちだった。

 それから僕はお酒で中途半端に逃げるようになった。

 ほんの少しの間でも暗い影を振り切ることができるのなら、それでいいと思った。

「滑稽だ」と、俯瞰した自分が言っていた。


 コンビニを出てビールをちびちびと飲みながらいつもの公園へと向かう。

 雨は止んでいるが依然として厚い雲が隙間なく張りつめている。

 足元の水たまりが跳ねる。今日も湿度が高くて不快な夜だ。

 僕はいまだにお酒にはなれない。

 感情が高ぶってきて泣きたいような気持ちになる。今日は妙な酔い方をしている。

 公園の入り口をくぐる。端には大きめの池がある。

 中央には細長い橋が架けられていて、向こう岸へ渡れるようになっている。

 水面は夜の闇を凝縮したように黒々としていて、大きな穴が開いているように見える。

 背中を押すように強い風が吹いた。

 揺れた水面が波打って手招きをしている。

 周囲の木々の枝がパチパチと煽るように手拍子をしている。

 外灯が点滅して、視界が一瞬黒く染まる。

 アルコールが脳に薄い膜を張る。

 左足を出して、右足を出す。

 大きく鼻から息を吸い込んで、口から吐き出す。

 僕は池の柵に手をかけて足を――。

「ダメ!」

 急に何者かが僕の腰に抱き着いてきて、心臓が跳ね上がる。

「死んだらダメ! みんなつらいけどがんばって生きてるんだよお!」

 ダメダメダメダメと連呼しながら体を揺すってきて、かえって池に落ちそうになる。

 命の危機を感じて、たまらず叫んだ。

「死んだらどうする!」

 襲撃者はきょとんとした顔をして、息を詰まらせて僕の顔を凝視している。

「大丈夫だ、死ぬ気はない。どちらかといえば、あなたが僕を殺そうとしている」

「なんだあ、よかったあ・・・・・・」

 ほんとによかった、とつぶやきながら僕の体からずり落ちてその場にへたり込んだ。

 激しく体を揺すられたせいで吐き気が込み上げてきて、池に向かって見事なアーチをかけた。

 僕のブレンド水により小さな虹がかかった。

 彼女は虹を見て「わあお、きれい」と言って立ち上がった。

 僕の背中をさすりながら「虹のふもとには宝物が置いてあるらしいよ」と言ってわずかに口角を持ち上げた。

 妙な女に絡まれたと思いながら、もう一度汚い虹を架けた。

 

 意識がもうろうとしている中で僕は現状を確認する。

 僕は今公園にいて、ブランコに座っている。

 ついさっき盛大に吐いたような気がするが、凝りもせずに僕の右手は缶ビールを握りしめている。

 吐いた後も出て行った分を取り返すように飲んでいたのだろうか。

 先ほど僕を殺そうとした女が、隣で勢いよくブランコを漕いでいて、艶の良いショートボブの黒髪が外灯の光を反射している。

 肌は紫外線を拒んでいるように白い。

 身長は150を少し超したくらいで、女性としては小柄な体格をしている。

 全体的に活発で、少し幼い印象を受けた。

 まだ働いているような年齢には見えないが、何故か裾の短いナース服を着ている。

 非常に目線に困る服装だった。

「どうしてそんな格好をしているんだ?」

 彼女はブランコの勢いが最も乗ったところで、前方へと飛んだ。

 上へ上へと重力に抗う姿は、空に昇ろうとしているように見えた。

 着地したあと、体操選手のように両手を高く上に挙げて僕を振り返った。

 花が咲いた時を表すポーズにも見える。

「コスプレ、好きなんだあ」

「そうか」といって僕はビールに口をつける。

「わたし、お酒はきらいだなあ」

 彼女は嫌そうな顔をする。

 仕方なくビールを脇に置いて、ポケットから煙草を取り出して咥える。

 軽く吸いながら、ライターの火を先端に近づける。

「タバコもいやだなあ、またゲロゲロしちゃうよ?」

 咥えていた煙草を箱に戻して、ライターと一緒にポケットにしまうと、彼女は偉そうに腕を組んで二度うなずいた。

 酒と煙草に悪いイメージを持つ人は多い。

「まあいざとなればこのナースにおまかせなさい」

 ふん、と鼻から息を吐き出しながら頼もしそうにのたまったが、もう一度介抱させるのは悪いと思った。

 いまだに意識はぼんやりとしていて、夢を見ているような気分だ。

 公園に入ると、ナース服の妖精に会う夢だ。ふわふわとしていてまるで現実感がない。

 実は既に帰宅していて、ベッドに寝転がってまどろんでいるのかもしれないと思った。

 彼女に対して、もうひとつ気になったことがあった。

「どうしてこんな時間に出歩いてるんだ?」

 彼女は「なんだか警察のひとみたいだねえ」と言ってきしきしといたずらっぽく笑って八重歯をのぞかせながら、僕の隣のブランコに座りなおした。

「おにいさんと同じだよ」

「ああ、よくわかる」

 彼女も僕と同じような葛藤を抱えているのかもしれない。

 あまりネチネチと質問をされるのも嫌だろうと思い、僕は口をつぐむ。

 辺りを静寂が包む。厚い雲がスポンジのように地上の音を吸い込む。星は一つも見えない。

 隣でキコキコと控えめにブランコを揺らす音が聞こえる。

 遠ざかっていた暗い影が僕の心にひたと忍び寄る。

 緊張した声音で、彼女は静寂を破った。

「本当に死のうとはしていなかったの?」

 心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。

 僕が答えに窮している間に、何度か長いまつげが瞬いた。

「わからない」

 アルコールは僕を饒舌にした。今日は妙な酔い方をしている

「生きていたくはないけれど、死ぬのも嫌で、結局はただ、だらだらと生きているだけなんだ。特別何か辛いことがあったわけじゃない。ただ何となくつらいんだ。こういうのは伝えるのがとても難しい」

 彼女は一度大きく目を見開いた後、自分の足元を見つめた。 

 感情をうまくコントロールできない。暗い影が僕を覆いつくす。

「今のこの辛さから逃れるには死んでしまうのが手っ取り早いとは思うけれど、死後もこの辛さを抱え続けることはないという保証はどこにもないんだ。宗教では、信じる者は救われるというけれど、証拠はどこにもないんだ。僕のような疑り深い人間は確かな証拠がないと信じることはできないんだ。宗教に依存することができればどれほど良かったろうと思う」

 彼女はうつむいていて、髪に隠れて顔が見えない。

 脇に置いていたビールを一気に煽る。闇が溢れ出す。

「人は経験的に死ぬことができない。誰も死を知らないんだ。人は時間をかけていろんな現象を科学に下してきたけれど、死についてはいまだに解明されていない。おそらくもう形而上学は科学にはならない。結局、よくわからないといって哲学もさじを投げて、僕を見放した。この世界は火事なんだ。みんなはそれに気づいていない。僕は火に怯えて動けない」

 視野が極端に狭く感じる。呼吸が浅くなる。手のひらを見つめる。

「僕の中に、大きな空洞があって、何を投げ入れても、埋まらないんだ。それは、なにもかもを飲み込む、虚無なんだ」

 狭い視界が滲む。

「だから、だから僕は、心の底から、悲しいんだ」

 言い切って、僕は肩で息をする。

 隣から優しい声がする。

 泣きじゃくる子供を慰める母親のような。

「名前は?」

 僕はうつむいたまま答える。

「田村幸太」

 呪いのような名前だと思う。僕は一番望まれたものを欠いている。

 彼女は「こーた」と繰り返す。

「こーた、学校は楽しい?」

「楽しくはない」

「友達とは仲良し?」

「友達はいない」

「家族のことは好き?」

「わからない」

 彼女が勢い良く立ち上がって砂を蹴る音がした。

「こーた」

 名前を呼ばれて顔を上げる。

 一気に視界が開けた。

 僕は瞬きを忘れた。

 分厚い雲を押しのけて、眩い満月がのぞいていた。

 月明りは彼女をどこまでもやわらかく照らした。

 光を受けて彼女の瞳は強い意志を持ったように輝いている。

 彼女は顔をくしゃくしゃにして笑ってから言った。

「あそびにいこう」

 その日、空が晴れた。


続きを書こうかどうか、非常に迷っています。

なんでもご意見頂けると幸いです。

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