58,交錯する思い
騒がしい訳でも無いけれど、どこか空気が浮き立っているのは、やはり新しい命の誕生ゆえにだろう。そういう時は何かを話したりしている訳じゃなくても、例えば足取りが軽かったり、表情が明るかったり、口調が明るかったり優しかったりするものなのだ。
王宮の馬車付き場近くまで来てホッとしたとたんに、疲労感は感じたけれど、それさえも嬉しい。
「レナ、送っていくよ」
聞き覚えのある声がかけられて、レナは歩みを止めてゆっくりと目だけを後ろへと巡らせた。
そこには予想の通りにジョエルの姿を認めた。もう夜だと言うのに、レナが昼の正装のデイドレスなのと同じくして、彼もまたフロックコート姿だった。
つまりは王宮で昼からずっと過ごしていたということだ。
「ずっと妃殿下に付き添っていたと聞いたよ」
彼が知っていた事に対して、レナは驚くことはない。彼ほどの立場にあるのなら当然の如く、どんな情報でも入るだろうから。
「ええ、今日はたまたま約束をしていたのよ」
そして、その約束をしていた日に予定よりも早い出産が重なっただけだ。
「姫君だというのは聞いた?」
ジョエルとどう向き合えばいいのか、迷いのあるレナは、フェリシアの側にいた事を知っているのなら、当然聞いているはずの話を持ち出してみる。
「ああ、聞いたよ。お二人のどちらに似ても美しい女性になるだろうね」
ジョエルの笑みにレナもまた笑顔で頷いた。いつも通りの変わらぬやり取りに安堵したのもあった。
「だが、王家には次の世代を担う男子が必要とされている」
「妃殿下はまだ17歳よ。これから何人もお産みになるー可能性があるわ」
「そう。でも今言ってるのはそういう事じゃない」
次の世代の男子。新しい王家の一員が女子だった事で、その問題は持ち上がる事だとは想像出来てしまう。
ギルセルドが不在の今はなおさらだろう。
第二の王家とも言えるウィンスレット家にも、同じ事が言える訳であるから、ジョエルはこの間の話を続けるつもりなのだ。
「この前の話を考えてみた?」
下手にとぼけて見せても彼には通用はしないだろう。そんな簡単な相手じゃないのだから……。
「わたしは……断ったはずよ」
「聞いたからもちろん覚えてる。だけど、分かったとは言ったけれど、すんなりと諦めるつもりもない。可能性がある限りは……。現にこうして、私に惑わされているような気がするうちはね」
そんな言葉を聞いて、全く惑わされもしないし、気にもしていないとそんな風には言えないし出来ない。
現にこうして二人きりで向き合っているとどうして良いのか分からなくなるのだから。
普通なら、紳士らしい申し出を断る理由なんて何も無いのだけれど、今日はジョルダンが馬車を待たせてくれているはずだ。先に帰っていてもきっと使いを出せばすぐに来てくれる。
「……ウィンスレット家の馬車には乗らないわ。うちの馬車を使うから」
「私の馬車の隣に乗る女性は誰でも良い訳じゃない」
ジョエルの隣に。
それは彼の言うように誰でも良い訳じゃないはずだ。彼の妻は王妃となる可能性さえある。ただの貴族では無いのだから……。
「わたしは乗れない」
ジョエルを相手に話すのなら、意思をぶれさせる事なく保たなくては、巻き込まれるか流されるか、してしまう。だからできるだけはっきりと告げる。
「送って行くだけだよ。何をそんなに警戒する?」
クスッと笑われて、その余裕綽々な様子なのが悔しい。
「レナにとってヴィクターでないといけない理由はないはずだ」
それは言い換えれば、ヴィクターにとってもそうなのだ。家柄は貴族社会でも上の格、財政も安定している。
だから、結婚する相手は釣り合いが取れる家なら問題は無かった。そして早くに決めないといけない理由なんて見当たらない訳だった。
ただ、貴族の婚約も結婚もその家にとっては重要な事だしそれは………互いに過不足のない相手を選んだ、それだけだとも言えた。
「どうして?突然……今になってそんな事を言うの?」
ジョエルはいつも、兄の様に接してくれていたのではないかと。
「レナは………デビューする前から、ギルセルド殿下のお相手として名前が上がっていた。だからまさか、邪魔をするわけにもいかないし、レナはアシュフォード侯爵家の大切な令嬢だったから、社交入りの手助けをする立場だった訳だから……そういう対象として思わないよにという自衛が働いていたんだと思う。
何よりも、あまりにも早くヴィクターと婚約をしてしまった。……この間も言ったように君たちに隙がなければ付け入るような真似はしなかっただろうね」
レナは真っ直ぐに見つめてくる深みのある青い瞳を見つめ返してしまって、視線に絡めとられた気がしてしまった。
――――――
「レナ………それに、ジョエル」
そう声をかけられたのは、答えに窮してしまった時だった。
突如、レナの救世主みたいに現れたのは、黒のフロックコート姿のヴィクターだった。
「伯爵閣下の代わりに、レナを待っていたんだ」
どこかでジョルダンと話して、レナを待ってくれていたらしい。
「そうか、ちょうどうちの馬車で送ろうと思っていた所だった」
ジョエルはかるく腕を組んで、視線をヴィクターの方へと向けた。
ヴィクターは歩み寄ると、さりげなくジョエルとレナの間に立ち、右の手を取って引き寄せた。
「ジョエルは、これから……色々とあるんだろう?」
「兄が居るから問題はないよ。今日の功労者を労うつもりだった」
「ああ、聞いた。ずっと付き添っていたと………。妃殿下も姫君もお元気だった?」
ヴィクターはそこでレナに顔を向けた。
「ええ、ものすごく」
レナはやっと口を開く事が出来た。
「じゃあ、疲れただろ?すぐに邸まで送る。ジョエル、また」
「ああ、また」
ジョエルと立っていた場所から、レナはヴィクターのエスコートで馬車付き場まで歩いた。ヴィクターはことさら急がないようにゆっくりと歩いているように見えて、後ろのジョエルを意識しているように感じてしまった。
「疲れた?」
「そう、みたい」
言葉少ななのを誤魔化すのに、レナはそう答える。
扉にユニコーンの紋章のついた黒と銀の馬車は真新しく、最新の型だった。アークウェイン邸の従者が、すっきりとしたお仕着せを着ていてレナに頭を下げて扉を開けた。
「新しい車?」
「ああ、俺が使う用に」
階段が下ろされ、ヴィクターの手を借りてふんわりとした滑らかな椅子に座った。
馬車の中はまだ新しい香りがして、すべらかな深い緑の生地が艶々としていた。
「これ、でも屋根付きだわ」
「未婚だけど、婚約者なんだしいいだろ?カーテンは開いてるし窓は大きい」
これまで一緒に乗った馬車といえば幌つきの屋根のないものばかりで、密室ではなかった。確かに大きなガラスの窓は、カーテンは開いていて中の様子は全く見えない訳ではなかった。
「何が気になる?」
「気になるっていう訳じゃなくて……二人きり、だから。少し、緊張するだけ」
今さら、何を緊張するというのか、下手な事を言ってしまったと身を固くした。
「俺はレナに話がしたかった。だから、これを選んだ」
「はなし………」
何を話すのか、今日は正常な判断は出来そうな気がしない。
ヴィクターは向かい側に座ると長い足を組んでその膝に組み合わせた手を置いた。
「聞きたくも無いかもしれないが、ラモン伯爵夫人との事だ。大使夫人への、俺の役目は終わった。だからもう、挨拶以外を交わす事はない」
その事を聞くと、リディアーヌの美しく女性の魅力に溢れた姿と声を思いだしヴィクターの顔から目を反らしてしまった。その視線はヴィクターの手元に向き、彼の袖から覗くブラックダイヤのカフスボタンに目が止まった。
それは室内の明かりに、控えめな光を放っていて、彼がレナに対して誠実であろうとしている気がした。
「そう……実は噂で、ルーク・ゲインズ卿に乗り替えたって、そう聞いたわ」
「そうか……知っていたんだな。色々と………本当に悪かったと思ってる」
何がどうなったのか、つまびらかにして欲しいような、それでいて全く知りたくもないような気もする。
だけど今は、レナはジョエルとの間に生じた変化を、知られたくなかった。
「いいの、終わったのなら、それで……」
「レナ、怒ってるよな?」
ヴィクターに怒ってるのか、何なのか、それよりもどこかで後ろめたいような気持ちがある。
だから、あの男性は狡いのだ。
心の準備もなく会えば……特にさっきみたいに、微妙な空気の時を見られてしまったら、まっすぐに目を見ることを躊躇ってしまう。
「怒ってなんかない……。ただ……今は色々と考えなくちゃいけなくて」
「うん」
なんて、下手な言い訳だ。
怪しいことこの上ない。
「レナ、これからは俺が側にいて守るから、だからそんなに不安そうな顔をしなくていい」
「ヴィクター?」
「何でも不安があれば言って欲しい。頼られたいんだ。俺は二度と辛い思いをさせない………約束する」
レースの手袋越しに、ヴィクターはレナの指に嵌まっている婚約の証の指輪に唇を落とした。
オレンジ色の馬車の中で、いつもと違って見える瞳の中に光が踊っていてとても綺麗で胸がつまりそうになる。
「ありがとう、その言葉だけで嬉しいわ」
言われた言葉に、ヴィクターがジョエルとレナに何かがあった事を気づいてるとそう確信してしまった。もしもレナがヴィクターに打ち明ければ、プライドの高い彼はきっと闘おうとするだろう。そんな事はあってはならない。
下手をすれば決闘沙汰になり、どちらも身を危うくしてしまうのだから……。レナがとるべき行動はどうするべきなのか?
ジョエルが本気になれば、二人を別れさせる事も容易い事のよう思える。
ヴィクターの本音はどうなんだろう?
リディアーヌはヴィクターの元から離れたということだけれど、二人の間に気持ちのズレがあることには違いがないだろう。
ヴィクターは今、どう思ってる?
もしも、これが逆の立場だったとしたならジョエルから奪おうとするほどに想ってくれている?
いつもの端整な顔は、陰影がさらにそれを深めていて外を窺う姿をまるで絵画みたいに見せていた。
さほどの時間もかからずに、グランヴィル伯爵家へとつくと、玄関前で挨拶を交わして分かれる。
レナは自室のベッドへと倒れこんだけれど、疲れているのに眠れる気がしなかった。




