47,祖父の思い
アボット家の馬車に乗り込んだのは、突然の来客が来てから、二時間近く経った後だ。
オルグレン邸を訪うからには、イヴニングドレスの中でも上質なもの。それでいて華美でも質素でもないもの。
クローゼットの中から、シルクの光沢が美しいごく淡い水色に白銀のレースのドレスに白の長い手袋と水色のレティキュール。靴はヒール部分がレースで同色の組み合わせの物を選んだ。ドレスは肩部分がレースで覆われていて過度な露出はない。
オルグレン邸は現当主が祖父くらいの年齢であるから、レナにとっては先代のアシュフォード侯爵を思い出させ、緊張をせざるを得ない。それに、三度の結婚をしてる母を……それも密かに愛人あがりだと噂されている為に良く思わない大人がいるということは理解しているから……。
父の血を引かないレナは、祖父母に徹底的に無視をされそれが永らく心の澱となり、自信を無くさせる原因となってしまっていたから。
「あんなヴィクターの顔を初めて見た。私たちはたぶん、君たち女性が思う以上に近い間柄にあるんだ。同寮の仲間というのは朝から夜まで何年も毎日同じ空間で暮らし、その中でお互いに色んな秘密を知ったり知られたりする。その秘密は誰も漏らすことはしないが」
ルーファスの言うあんな、顔。
とレナはヴィクターの顔を思い返した。
戸惑いと苛立ちの混じったような表情に見えた。確かにいつも余裕綽々な雰囲気のある彼はそんな表情すら珍しいのかもしれない。
だけどこの数日、レナが頬を打った後、彼は明らかに何とも言い難い顔をしていたし、昨日は例のあの言葉を告げた後は、驚いていた。そして、待つように言ったときも、とても熱い想いを秘めて見えた。
だからレナは気がついた。
そんな感情を露にして他の人に見せない顔をすることを知っているのは、自分だけなのだと。
「何かおかしいことを言ったかな?」
ルーファスに言われても、レナは自分が笑ってる事に気がついた。
「いいえ、違うの。自分の婚約者が男性に囲まれているのを見れば、どう思うのかと」
誤魔化すように今日の光景を客観的に思い出した。
「それは大層、気にくわなかっただろうな。そしてそれを正式に抗議出来なかった事にも」
クスクスとルーファスは笑った。
ヴィクターにしてみれば、ジョエルもルーファスも年上である。そして今、リディアーヌという噂の種がある以上、真っ向勝負が出来なかったのだろう。
「俺としては、本当にあいつと離れて来てくれて良いんだけど」
「そんなことを軽く言うのは、あまり信用出来ないわ」
今度はレナがクスクスと笑った。
「わりと本気なんだけどな。レナさえ本気で来てくれるなら、ヴィクターと決闘したってかわまない」
「ルーファス。ありがとう、慰めてくれるの?」
今の自分は、婚約者が他の女性と仲良くしていて可哀相な女という位置付けだ。
「目の前の女性は簡単には慰められてくれないみたいだが」
「そんなこと、わたしが婚約者がいないなら言わないくせに」
ルーファスは思わせ振りな事を誰にでも言うタイプではない。彼がこんな事を言うのは、レナにヴィクターという存在があるからだ。
それならば、レナが本気にならないから。
オルグレン邸は、王都の中でも立派な佇まいをしていて、さりげなく高価な細工を惜しげもなくあちこちに施されている。
内々の、とルーファスが言ったのは大袈裟でも何でもなく、オルグレン侯爵夫妻とルーファスとカイルの兄弟と、それに彼らの両親のアボット伯爵夫妻だった。
「ルーファス、本当に招かれて良かったの?」
「もちろん」
「殿下の件があるから、うちでは社交は自重していてね」
そういえば、とレナは思い当たった。
「レナを招いたのは、セシルの為に君が一働きしてくれると聞いたから、祖父が直接会ってお礼を言いたいと言ったからだ」
「そんな……まだなにも成功していないのに」
「それでも、よ。身内でもない誰かが、味方をしてくれる。これはとても心強い事なのよ」
「レディ シャーロット」
ルーファスとの会話にそっと入り込んだのは、彼の母のシャーロット・アボットだった。
こんな大きな息子がいるとは思えない程若々しく華やかだ。
「ギルセルド殿下は今サヴォイの領地にいるの。離れ離れだそうだけれど仕方がないわね。頑張るしかないわ」
サヴォイとは、ギルセルドの治める土地である。しかし今は名目だけではなく事実上管理しているということなのだろう。
「セシル様はアンブローズにですか?」
「ええ、そうよ。社交界に縁のなかったご令嬢ですから、今はデビューに向けて精一杯修行中だそうです。レディ シエラがついているのですから、心配は要らないでしょうけれど」
「堅苦しい話は後にして、せっかく楽団を呼んだのだから楽しみましょう」
オルグレン侯爵夫人 マーガレットが優しくレナをソファに誘った。
白いティーカップを手渡されレナは素直にそれを受け取り、管弦楽団の奏でる美しい調べを聞きながら、晩餐の席についた。そして仲が良い家族に混じりながら、時折向けられる話に相槌を打ったりして、レナはそこに悪い感情を感じる事が無かったのに安堵の息をこっそり漏らした。
晩餐の後、カルロス・アボット オルグレン侯爵はレナにそっと語りかけた。
「私は孫たちが可愛い。その孫が今回、この老いぼれを頼ってくれた事が本当に嬉しくてならなかった。爺馬鹿だが君が骨を折ってくれる事を本当にありがたく思ってる。陛下はお立場上、厳しい態度を貫かざるを得なかったが………今回の事ではアボット家は君に恩がある。だから、困った事があればいつでも頼って来なさい」
「侯爵閣下、わたくしなりに力を尽くさせて頂きます」
「ありがとう、うら若きレディ」
こんな人が、祖父だったなら……。レナは思わずそんな事を考えてしまった。そうであったならどれほど良かったことか、と……。
こんな風に心から愛してくれる祖父がいるギルセルドはきっと彼自身も祖父母を大切にしているのだろう。
通りすがりのレナたちを助けてくれた彼は、それを裏付ける行動をしていることを知っている。だから……二人の為に、出来ることがあるのなら力を尽くそうと思える。




